『LZEEHLN』【再掲載】

 ※この作品は「入間の間」に過去掲載された小説の再掲載になります。



 1



 二ヶ月間の拘束という条件は多少尻込みしたが、丁度夏休みに入るところだったので思いきって応募してみた結果、俺が選ばれたのは日頃の行いの賜だろうか。コンビニの釣りを目的も不明瞭な募金箱に押し込んだだけで運気が上昇したのだとしたら、人生というのは存外に簡単なものかも知れない。無論、そんなことはまったく信じちゃあいない。

 そのモニター募集は破格の見返りを約束していた。二ヶ月間こなせば、大学二年生の後期から卒業までの学費を支払えるほどだ。もし本当に支払ってくれれば、という話だが。

 それも来週、そのバイトを始めることで明らかになるだろう。

 大学からの帰り道、坂道の下で販売していたワラビ餅を摘んでいると汗が噴き出る。炎天下の下で冷たいものを食っても、口の中しか適温にならない。ワラビ餅を売る軽トラの荷台に背中を預けながら、滲む汗を拭う。首筋の汗が次々に流れて、シャツの襟を濡らした。

 バイトの内容は二ヶ月間、相手側の指定したマンションの一室に住むだけ。ただし期間中はマンションからの外出を禁ずる上、多少の制限がかかる、とのことだ。なんだか、後で幾らでも条件を付け足すことの可能な、企業側に有利な緩さを感じる。

 多少の制限というあたりが引っかかる。そもそもマンションで生活して金が貰えるというのは、どういうわけだ。新築マンションの住み心地でもリポートするのだろうか。その割に少々、金払いが景気よすぎる。絡む金が増えれば、俺の貧困な発想でも陰謀の匂いを想像せずにはいられない。ヤバイことに首を突っ込もうとしているのかもしれない。

 しかしこちとら大学生。誘われてついていった先は楽しいサークル活動だと思ったらマルチ商法の手先にされかけたり、飛行サークルの作成した飛行機に乗りこんで三途の川まで試運転しかけたりと、面白いことに飢えている毎日だ。ヤバイこと大歓迎だった。

 今日で前期試験も終わった。この後はアパートに帰って荷造りだ。食事に関しても相手が負担するということなので、衣服と日用雑貨だけ鞄に詰めこめばいい。娯楽用品は持ち込み禁止とされていた。なんだそりゃ、と思う条件である。退屈が待ち構えていそうで少し憂鬱だ。

 ワラビ餅を食べ終えて、プラスチックのパックは近場のコンビニのゴミ箱にねじ込む。串や輪ゴムも分別せずに捨ててしまったが、暑いので反応する気も起こらない。一斉に坂を下りてきた学生の群れを掻き分けるようにして、地下鉄の入り口を目指す。

 去年の夏休みは実家に帰ってソーメン食って、いいともと甲子園を見ているだけだった。

 バイト漬けの今年の夏とどっちが有意義かは、茹だった頭で判断を下すことはできない。

 金に捧げる夏休みに異論はないが、サークルの友人と海に行く約束を断ることになったのが、少々悔やまれた。



 そのマンションに名前はないと言われた。

 それならばこちらで勝手につけようと思い、色々と考えてみた。メロンマンションなんてどうだろう。提案したら『声の網ですね』としっかり突っ込まれた。くそ、知ってたか。

 却下されたので便宜上、『伊東マンション』と呼称する。結局だじゃれに落ち着いた。

 地図に従って早朝からやってきた伊東マンションは、新設された壁の匂いでいっぱいだった。地味なカーキ色の壁と、外側に植えた新緑の匂いで噎せるようだった。蝉の鳴き声も四方から鳴り響き、夏の自然に溢れている。ついでに日差しも溢れすぎなので、早々に中へ入った。

 外見は新設のマンションにすぎなかったが、中もまた一見では特徴がない。ホールというほど幅はなく、エレベーターに向けて直線の通路があるだけだ。日差しは遮っていても、籠もった蒸し暑さが顔に降りかかるようで、不快の度数はむしろ増加した。白と黒の積み重なるような色調の壁は目が疲れる。とにかく落ち着かないので、これまたさっさとエレベーターへ向かった。部屋に案内された後もこんな調子だったら、二ヶ月も大丈夫かね。不安になってきた。

「お待ち下さい」

 エレベーターのボタンを押した直後、脇に立っていた爺さんに声をかけられた。初老で、愛想のない声だ。同時に聞き覚えがある。電話越しに要項を伝えて、俺の発案したマンション名を却下した老人は、目の前にいる枯れた木々のような男で間違いないようだった。

「一場怜司様ですね」

「いかにもその通りです」

 本名を呼ばれて頷くと、男も貯えた白いヒゲを縦に揺らす。髪は薄いが、ヒゲは樹林のように生い茂っている。触ってみたくなるが、初対面の爺さんのヒゲに対して無礼を働くような蛮勇は持ち合わせていない。ああ間違えた、初対面のヒゲの爺さんだ。主格はこっちだな。

「お部屋に案内します」

 到着したエレベーターに爺さんが乗りこむ。俺も続き、爺さんが六階を押した。

「やってきたのはあなたが最後です」

「みんなせっかちなんスね」

「あなたの家が一番遠いだけでしょう」

 爺さんは素っ気ない。見た目同様、言葉に脂がのっていなかった。俺も将来、こんなジジイになるんだよなぁと考えると憂鬱になる。死ぬことより、歳取ることの方が怖いよ。

 六階に到着する。マンションの最上階らしく、エレベーターにそれ以上の階はない。外は窓のない廊下が奥に伸びて、隅には申し訳程度に観葉植物が飾られている。葉の端が黄色だった。


 途中、通る扉には『6』とか『5』と印字されている。次は『4』なので、数字が非常にシンプルではあるが部屋の番号だろう。数字が『6』で終わっているのだから、六人いるのかな。

 あと、妙なものがあった。ホワイトボードだ。廊下の中央に置いてあるのだが、まだなにも書かれていない。青いペンと黒板拭きも用意されている。連絡事項でも書くのか? 「早くおいで下さい」 「へいへい」  爺さんに催促されて小走りで廊下の奥へ向かった。

 俺が案内された部屋は『1』と扉に刻印されている。六つ並ぶ部屋の左端だ。

「ここがあなたの部屋です」

「はぁ。あれ、鍵は?」

「そんなものありませんよ」

 まるで料理屋でメニューがないと突っぱねられるようだった。しかし、扉にはちゃんと鍵穴があるのだ。どゆこと、と困惑していると初老の男が扉を押す。扉は苦もなく開いた。

 普通、こういう扉って外側からだと引いて開けるものだと思うけど。変わってるな。慣れていないためか違和感がある。爺さんが扉の脇に立ち、その間を通って部屋に上がってみる。

「……んーむ」

『おぉっ』だの『いいねぇっ』だのを第一印象にしたかったけれど、甘かった。部屋は予想よりずっと、狭かったのだ。むしろ一部屋しかない。一応、入り口の脇にはトイレとバスルームが用意されているものの、こちらも手狭だ。風呂は足など伸ばしようがない、アルミ桶を底だけ深くしたような作りだ。ユニットバスの方が数倍マシである。

「これ、ほんとにマンション……ッスか、って、いねぇし」

 部屋に戻ると爺さんは既に消えていた。いつの間に出ていったのか、扉も閉められていた。廊下を覗いてみようとドアノブに手をかけてみたが、回らない。鍵がかかっているようだ。

 しかもその鍵を内側から解錠する方法がない。俗に言う、閉じこめられたというやつだ。

「おいおい、これ拉致監禁じゃねーの」

 部屋の中央に鞄を置いてから、冗談めかして愚痴る。室内は八畳程度の広さで、テーブルとベッドぐらいしかないためか、床だけを見ていれば余裕があるように思える。だけど、部屋全体を見回すと閉塞感が募る。高く作られた天井はそれを和らげるのではなく、不安を煽る。

 この部屋には窓がない。一面、壁に覆われている。白黒調ではなく木目を意識したような焦げ茶の色合いで、それは構わないけれど外の景色が一切、窺えない。廊下にも窓がなかったし。

「クソあっついなぁ。エアコンとか、あるな。よしよし」

 テーブルの上にリモコンを発見した。早速冷房のボタンを押す。動くか不安だったけど、普通に電源が入った。ふぉぉぉぉぉとか言っちゃっている。ついでに俺もふぉぉぉぉぉ。

 冷房があるだけでも、来てよかったと思ってしまう。部屋が涼しくなるのを待つ間に中を見渡すと、普通のマンションにはないものを二つ見つけた。

 一つは壁に埋め込まれた小さな画面。今のところはなにも映っていない。

 そいつを中腰で覗きこんでいると、もう一つの発見である天井の隅にあるスピーカーから、微妙に音割れした放送が流れてきた。それと同時に、その場に腰を下ろしてあぐらをかく。

『全員が入居しましたので、これより生活を始めていただきます』

「やんややんや」

 一人で盛り上がって拍手してみる。勿論、向こうから反応はない。

 声は先程の老人と異なる、穏やかなものだった。

『まず始めに。此度はモニターへ参加していただき、真にありがとうございます。これからの説明をお聞きいただいた結果、風変わりな内容であると感じられるかもしれませんが、皆様方にも楽しんでいただければ幸いです』

「皆様方にも、ね……」

『皆様にはこれから二ヶ月弱、このマンションで生活していただくことになります。基本、外へ出ることは叶いませんが物品に関してなにか不自由がございましたら申しつけください。可能な限り、要望に添えるようにいたします』

「へぇ。じゃあ、取り敢えずヒゲ剃り忘れたんでください」

 試しに冗談で言ってみると『かしこまりました』と即反応してきた。すげぇレスポンス。ダイヤ忘れたんでくださいとか言っても出てきそうだ。……いや、自重しておこう。

『生活に関してですが、幾つかのルールに則って送っていただきます。まず一つ、皆様方は外には出られませんが、同階の別の部屋へ出かけることができます。どの部屋へ行き、誰とお会いするかも自由です。ただ、その外出が許されるのは一日につき一名まで。そして誰が許されるかは、こちらの振るサイコロで決めさせていただきます』

「はぁ? サイコロ?」

『モニターをご覧下さい』と声が続けて、自然、目が行く。壁に埋め込まれたモニター画面に、大きい、恐らくは男の手が映った。皺の少ないその手のひらには、小さなサイコロが一つある。

『このサイコロには一切の細工がないことをお約束します。あくまで無造作に振り、公平に決めさせていただきます。このサイコロの数字と部屋番の同じ方に、その日の外出の権利が与えられます。日曜日だけは特例となりますが、それに関しては実際に日曜日となってからご説明します。行ける部屋は一部屋だけ事前に指定していただき、その部屋以外に入ることは許可されません。また、選ばれた場合は必ず他の部屋に行っていただきます。選ぶ側、選ばれた側のどちらもそれを拒否することはできません、ご了承ください』

 そこで放送が一旦静まる。情報を整理する時間を与えているつもりだろうか。

 冷房の風が部屋を満たして涼やかになり、同時に今の説明も頭に入ってくる。


 サイコロで選ばれたやつが別の部屋へ行く。選択は自由、ただし拒否権なし。自分の部屋に引き籠もる、という選択はない。他の部屋に行けるのは一日に一人だけ。行ける部屋も一つ限定。ということは、行ったやつと来られたやつ以外、この部屋の中で独りぼっちに過ごせってことだ。娯楽用具の持ち込みが禁止されて、外の景色も拝めないのに。発狂するぞ。

『食事に関してはこちらから三食、欠かさず提供させていただきます。室内の掃除に関してはご自分でやっていただくことになりますが、クリーニングについてはこちらで行いますので、部屋に備えつけのボックスへお入れ下さい』

 ボックス? そんなのあったか?

『玄関脇にございますので、ご確認をお願いします』

 見透かされたように場所を教えてきた。なんだか面白くなくて、すぐには動かない。

 そのままジッとしていると、放送は淡々と話を続ける。

 説明は終わり、本題に向かうようだ。

『それでは、本日の外出権利を決定したいと思います』

 そう前置きして、男の手がサイコロを無造作に放る。捨てられたように手のひらから落下するサイコロが、白磁のようなテーブルの上で数回転がった後、今回の数字を示す。

 おめでたいことに、テーブルの色と合わせて紅白となった。つまり、1だ。

「やった、1だ。はいはい、俺ッス」

 相手も分かりきっているだろうことを踏まえても、つい挙手してしまう。助かった。こんな部屋の中で一日中過ごすなんて耐えられない。でもサイコロの目が1以外だったら、耐えなければいけなくなるのだ。しかも1が出続けない可能性もあるわけで、そうなったらどうしよう。

『何番の部屋へ向かわれますか?』

「え、あー……とりあえず、2番かなぁ」

 どれと言われても、誰が住んでいるのかまったく分からないのでは選びようがない。ここは一応、お隣さんとなる2番の部屋にお邪魔してみよう。で、次が来たら3番だ。

『了解しました。1番と2番の扉を解錠します』

 宣言した直後、扉の鍵の開く音がした。鍵をかけられるのって、窮屈に感じるな。

 やっと涼しくなったところで名残惜しいけど冷房を切って、出かける準備を行う。

 と言っても靴を履くぐらいで、他に持っていくようなものもない。

『廊下のホワイトボードはご自由にお使いください。また、幾つかの娯楽道具をご用意していますので、ご希望ならば貸し出し致します。部屋に戻る際に返却していただければ結構です』

「ほぅほぅ。そりゃどーも」

 礼を言いつつ廊下に出た。それから何気なく扉を閉じると、すぐに鍵がかかった。

「ん? なんだよ、部屋に戻ることも禁止なわけか?」

『午後六時を過ぎるまでは相手の部屋にいていただきます。それ以降は日付が変わるまでは自由です。滞在しても、部屋にお戻りいただいても結構です』

 廊下にもスピーカーがあって、即座に応答してくれた。

「あ、そ。昼飯は……まぁ、あっちの部屋に用意してくれるんだろ」

 勝手に納得して、扉の前から離れる。そうしてすぐに目に留まるのは白い長方形。

 ホワイトボードは自由に使っていいとのことだったな。自己紹介ぐらいは書いておくか。

『1番の部屋にいる一場、大学生ッス。よろしく。』

 短めにしておいた。きっと他のみんなも書くだろうから、隅っこに控えて収める。青色の文字はどうにも気味悪くて気に入らないが、他にペンがない以上はこれで納得するしかない。

 ボードの脇には棚があって、それぞれの段にチェスや将棋盤が収めてある。囲碁、オセロ、トランプに人生ゲーム、モノポリーもあった。でも後半は、二人きりより多人数の方が楽しめる遊びだと思う。それに俺の期待していたような、携帯ゲーム機はない。残念。

 多分、こうした時間を潰せる道具は要求しても出てこないんだろうな。

 それに俺、こういう頭使うのよりビリヤードとか卓球の方が好きなんだけど。

 この中で遊び方を知っているのは将棋とオセロぐらいなので、その二つを選んだ。かさばらないので、ついでにトランプも持っていく。将棋盤の上にオセロ盤とトランプを載せて、2番の部屋の前へ向かった。外面は俺の部屋と変わらない。違いは部屋番号だけだ。

 いきなり入るのもどうかと思い、ノックしてみる。性別も分からないしな。

「あーそのー、お邪魔していいッスか?」

「あ、はい。どーぞー」

 女の声だった。それも若い。うん、こりゃ幸先いいやと上機嫌に扉を引く。が、開かない。何度か引いた後、そういえばここの扉は逆だったと思い出して、強く押した。

 扉を押して現れた先には、正座している女の子がいた。部屋の中央で、緊張しているのか肩が強張っている。俺と目があって、ぎこちなく愛想笑いを浮かべた。

「どうも、ッス」

「いえ、こちらこそ」

 腫れ物に接するように腰を引きながら挨拶すると、女の子も小さく頭を下げる。歳は俺と同じくらいだろうか。目と頬が少し丸っこくて、髪は緩いパーマのかかった茶髪だ。地毛ではないみたいで、根っこは黒い。光の加減で青くも見える。袖無しの青いシャツと、二の腕のコントラストが素晴らしい。指でつつきたくなるなぁ、あれ。

 第一印象を纏めると、けっこうかわいい。大学で同じ講義を取っていたら、仲良くなろうと試みるぐらいに好みだ。ついでにいうと、胸の膨らみも好感触だ。大は小を兼ねるよな。

「あーあ」

 大げさに、芝居がかった調子で首を振る。女の子が首を傾げているのを見て、肩を竦めた。

「せっかく女の子の部屋に上がれるのに、こう色気がないと残念だなぁと思って」

 その子の生活臭がまったくしないんじゃあ、面白くもなんともない。それは本心からの感想だったけど上手く冗談と取ってくれたらしく、女の子が小さく肩を揺らす。その空気が消えない内に靴を脱いで部屋に上がった。間に将棋盤等を置いてから、床に座りこむ。

 相手が正座しているから、こっちもつい合わせてしまう。何年ぶりだろう、正座なんて。

 室内は若干の暑さを感じる。冷房の温度を標準より随分と上げているみたいだ。

「あーっと、1番の一場です。って、冗談じゃないんだけど、掴み的にはいいかも」

 即興で思いついた冗談を口にすると、控えめな笑いぐらいは頂戴できた。

「双海です。双海瑞」

 胸に手を添えながら自己紹介してくる。ずいちゃんか。変わった名前だ。

 ま、最初は双海さんだな。

「ふたみさん。漢字はどう書くんスか?」

「双子のふたに、海のうみです」

「なんか格好いいッスね」

 率直に感想を述べると、「ありがとうござい、ます?」と戸惑い気味に頷かれた。

「一場さんは大学生、ですか?」

「ですね、二年。そっちは?」

「同じく大学生ですけど、三年です」

「あ、年上なんスか。同い年かな、とは思っていたんですけど」

「ええ」と双海さんが曖昧に顎を引いて、そこで言葉が途切れる。互いに口パクをして、でも言葉が出ないような。空回りするような、身の置き場のない時間が流れ出す。

 見つめ合って、気まずく笑う。目を逸らした先はどちらも、自分の手元だった。

 話題に窮する。知り合って三分も経っていないこの状況で、なにから話せばいいのか。どうしてこのバイトに参加したとか、この生活の目的とか、話せることはあってもそこに順番をつけることに戸惑っている。大学内での飲み会ならこの後、学部を聞いて勢い任せにネタを振ってうち解けるのが基本なんだけど。あれはアルコールの力を借りないと使えない力業なのだ。

「あーその」と頭を振って、周りを見る。なにかないだろうか、話のタネ。

「監視カメラとかあるんスかね、この部屋」

 何気なく思いついて言ってみたのだが、双海さんは思った以上に動揺を見せる。

「え、え。それじゃあ、着替えとかも見られちゃっているんですかね」

「んー、そう、なるよなぁ」

 こういった問題に関しては曖昧な態度を示すしかない。俺がどうこうできるわけでもなく、また関心を持っているような態度を表すわけにもいかない。いい顔するのも難しい。

「バスルームとかトイレには、ないかも」

 根拠はないけれど、意見を求められている雰囲気だったので言ってみる。

 大学のゼミで、教授に突然指名されて慌ててなにか答えている気分だ。

「着替えるときはお風呂場、ってことでしょうか」

「……そうなるのかな」

 少し待ってみたけど、スピーカーから返事は来ない。だから俺が言葉を濁すしかなかった。双海さんも納得はしていないようだが、「そうですね」と上辺だけ同意する。

 そうして、また黙る。辛い。狭い部屋に二人きりは、初対面としては距離が近すぎる。実に気まずい。出会いには適切な距離感があるのだ。それを無視すれば手痛い目に遭うのは経験からよく知っている。

 それと気を抜くと双海さんの胸もとやら腰に目が行ってしまうので、自制するよう努めると結果として俯きがちになる。そうなると余計、喉に言葉が詰まってしまうのだ。

「ところで、これは? 一場さんの私物ですか?」

 双海さんがオセロ盤を指差す。その問いは少し意外なものをもたらす。

「あれ、あの放送は俺だけに聞かせるものだったのかな」

「はい?」

「えっと、これ廊下に用意されてました。好きに使っていいらしいッス」

 重ねていたオセロ盤と将棋盤、それとトランプを一列に並べる。双海さんの目がその三つを順に行き来する。コメントに困っていそうなので、気になったことを確認してみた。

「俺が2番の部屋を開けてくれと頼んだのって、放送で聞こえました?」

「いえ。ただ、鍵が開いたのでそうなのかなとは思いました」

 誰が外出するかは分かっても何番の扉を指定したか、知ることはできないということだ。

 ふぅん。もどかしくならないといいけど。

「で……なにかやります? 他にはチェスとか、色々あったんスけど」

 盤やトランプケースを軽く押す。双海さんは身体を揺らしながら、オセロ盤を指差した。

「挟み将棋しかルール知らないんです。オセロならなんとか」

 オセロ盤を掴んで、中央の将棋盤と入れ替える。微妙な空気が払拭されないまま、石の入っている二つの黒いケースを分け合う。開いてみると、俺の手元に来たのは白石だった。

 中央に石を二つずつ置いて、愛想笑いを交えながらオセロを始める。双海さんが少し前屈みとなって、胸もとを強調する形になっているからそっちにばかり目が行ってしまう。

 物を深く考えることもできずに白石をひっくり返しながら、双海さんに尋ねてみた。

「このバイト、受けたのはやっぱりお金ですか?」

 共通の話題というものは今のところ、このバイトを置いて他にない。

 双海さんが黒石を挟んだまま、俺に目をやる。穏やかな顔つきはそのままだ。

「そうですね。後期の学費の足しにするために、バイトをやろうとは思っていたんです。そこに丁度、凄い額の求人があったのでとりあえず応募してみたんです」

「あ、俺と一緒だ」

 巨額と学費が結びついているところも含めて。その共通点に、双海さんが相好を崩す。

 へぇー、と思わず見取れてしまう。

 整った愛想笑いもいいけど、少し崩れた笑顔もいいものだ。

 少なくともずいちゃんの外見は気に入った。それはつまり、ほとんど合格ということだ。

「でもここまで拘束されるとは思いませんでした」

「俺もッス。大分退屈しそうで今から気が重い」

 そう言って肩を落とす。特に演技ではなく、本当に胃が締めつけられる思いなのだ。

 気づけば盤上には、双海さんの黒石がほとんどない。余裕で勝てそうだった。

「これ、なにがやらせたいんでしょうね。心理テストみたいなやつなのかな」

 俺の見解に対して、「わたしは、」と前置きした双海さんが少し黙る。間を置いてから、

「宇宙船の中で暮らすテストみたいな、耐久力の試験かと思っていました」

「耐久、あーなるほど。そういうのもあるのか」

 あっているかは分かりませんよ、と双海さんが慌てて付け足してくる。

 そうしてパチパチとお互いに思考する時間を挟まずに石をひっくり返していると、なぜか最後はほとんどの石を取られて俺が負けていた。あれ。最初はあんなに石がいっぱいだったのに。

「お強いですね」

「いえいえ」

 双海さんが謙遜しながら、目を泳がせる。もう一戦、という空気でもない。

 オセロ盤を片づけることもできずに、目が泳ぐ。

 部屋の中途半端な蒸し暑さも、気怠さを助長していた。

「そういえば、昼飯。食べました?」

 玄関の方を親指で指すと、双海さんは首を緩く、左右に振った。

「玄関の脇の箱ですよね、見てみましょう」

 俺が先導するように立ち上がる。双海さんは頷いて、一緒に玄関へと向かう。一見、靴箱にも見えるそれしか、『箱』と呼ばれる形のものがなかったのでそれを開けてみる。

「わ」

 昼食がお膳仕立てで二組用意されていた。下の階と繋がって運ばれてくるらしい。

 覗いてみたけど真っ暗で、人間が収まって運ばれるほどの幅はない。脱出は無理のようだ。

 昼飯の内容は和食に統一されて、なにより目立つのは。

「魚ですね」

「ですね」

 お互い、もっと気の利いたことが言えないのか。客観的に呆れてしまう。

 そのまま自分の分のお膳を運んで、割り箸を割る。挨拶も省いて、俯きがちとなった。

 箸で長細い魚の背を割って骨を取り出し、身を摘む。

「んまいんまい」

「ええ」

 白味噌仕立ての汁を啜る。

「んまいんまい」

「ええ」

「んまいんまい」

「ええ」

 そんなやり取りが、数秒に一回行われる。なに食べても、んまいんまいと言い続ける俺は実際のところ、頭がぼーっとして味がよく分からなかった。双海さんの方も正座が途中で辛くなったのか、足を崩して痺れを気にするような素振りを交えつつ、黙々と口を動かす。

 んまいんまいと足の痺れに頼りながら、微妙な空気を凌いでいく。

 それでも落ち着かずに目が泳いでいると、双海さんとかち合ってしまう。

 無言で逸らすことも叶わず、しばらく見つめ合った後に、俺は頭を下げる。

「これからよろしくお願いします」

「いえ、こちらこそ」

 この部屋を出るまで、あと六時間。

 そう考えるだけで、胃薬が必要になりそうだった。



「あー、肩凝った」

 日が沈んだ、のかも窓がないから分からない部屋に戻ってきて、まずは大の字に寝転ぶ。粘着質に感じる熱気が少し収まって、空気が落ち着いていた。そこに夜の訪れを感じる。

 閉めきった部屋でずっと冷気に晒されていたからか、熱さもすぐには気にならない。寝転んだままあくびをこぼして、目を擦った。気を抜くとそのまま中途半端に寝てしまいそうだ。

「……つれーわ、これ」

 選ばれなかったらも辛いけど、誰かとずっと会っているのもしんどい。狭い部屋で、うち解けない空気の中で、二人きり。オセロと将棋とトランプじゃあごまかしきることはできない。

 相手がかわいい女の子でこれだぜ? こりゃあ、相手次第ではかえって選ばれる方が苦痛だ。自分の場合はその相手のところへ行かなきゃいいわけだが、相手から来るんなら拒めない。しかも、こっちが相手を敬遠していることは筒抜けなのだ。外出の権利を得ても、自分の部屋へ来ないということが分かってしまうから。サイコロの数字はみんな知っているのだ。

 好意と嫌悪が数字になって表れる。

 そこらへんに、なんだか一抹の不安を抱いてしまうのは俺だけかね。

 どっちみちこのままじゃあ、いかんな。

「おーい、欲しいものがあるんですけど」

 スピーカーに向けて話しかける。無言ながらスイッチが入った音を確認してから要望する。

「紙とペンを用意してほしい。娯楽用具じゃないからいいだろ?」

『申し訳ありませんが、両方揃えると娯楽品となってしまいますので』

「あーじゃあ、ペンだけでいいッス」

『かしこまりました。明日の朝食の際に、ご一緒に用意します』

「どーもー」

 寝転んだまま礼を述べた。これで少しは退屈も凌げるだろう。

 俺と双海さん以外が、退屈な時間をどう凌いだのか考えながら起き上がる。玄関に戻って、靴箱のようにも見える棚の蓋を押し上げた。箱の中に入っていたのはトレイに行儀よく収まった夕飯と、注文したヒゲ剃りだ。ヒゲ剃りはいいとして夕飯の内容は、天ぷらの盛り合わせと蕎麦だった。天ざる、まぁざるじゃねーけど、というやつだ。


 ま、いいんだけどさぁ。麺類は時間を置くと伸びるわけだし。こういうときは時間を置いて冷めても比較的、味を損なわないものがいいと思うんだ。そればっかりで一ヶ月以上の食事を考えるのはしんどいだろうけど、気を遣ってほしいよな。

 などとグチグチ言いながら部屋に運んで、大葉の天ぷらを一口食べてみた瞬間にそれらの不満は大体解消された。昼飯同様、味が大変によろしい。他になんの刺激もなくて飢えていた、というのもあるけど品質自体も相当にいいのだろう。時々輪ゴムの入っている学食のカレーとは次元が違う。口中で福を囲う、という表現を漫画で見かけたことがあるけど、正にそれだ。

 昼飯のときは味が分かりづらかったけど、これは違う。

 今のところは誰かと向かい合って食べるより、一人の方がずっと、気が楽だった。

「なんかなぁ……」

 美味いけれど、複雑な後味だ。

 食事の時間だけが一日の楽しみになることを予感しつつ、海老の尻尾を噛み砕いた。



 翌日は午前八時きっかりに、モニターに男の手が映った。そこには勿論、サイコロがある。

 昨日の夕飯同様、豪奢な朝食を楽しみながらそのサイコロの転がりを見守った。

 ちなみに朝食の内容はローストビーフサンドイッチが主食となっている。すげぇ分厚いし、パンは持つ指に吸いつくぐらい柔らかい。それはいいし、マヨネーズとデミグラスソースも異様に多いのは嬉しいけど、味が濃すぎる。タマネギだけでなく、レタスもめいっぱい挟んでほしい。くっついている山盛りのサラダの中身を少し挟んで、ごまかしつつ囓った。

 そこにヨーグルトと蜂蜜、牛乳、おまけにバター。なんに使うんだよ、バターなんて。朝飯なんか取る習慣もないので、食べきるのは少し重苦しく感じてしまう。朝っぱらから冷房全開で、蒸し暑さに悩まされないだけマシではあるが。

 それと昨日注文したペンも届いた。三色ボールペンで、俺の考えている用途には十分すぎた。

 紙の方にもアテはある。トイレに行けばあのペーパーがあるではないか。

「今日は、4か」

 サイコロの示す四つの黒点を見て、その結果を独り呟く。4番の部屋の人間を当然知らないが、よほどひねくれていなければ、俺の部屋に来るんじゃないだろうか。

 ややあってモニターの映像が消滅する。放送も俺の部屋に関してはそれっきりだ。外出の際のやり取りはやはり、全部屋で確認できるわけじゃないようだ。

「何番の部屋の扉を解除したかも言ってくれないんだな」

 鍵の開く音がしたから、自分の部屋が選ばれたのは分かるけど。やはりここに来るのか。

 少なくともあと三回は、こうして誰かが訪ねてくるのは確定だろうな。自分に外出の権利が与えられるかどうか関係なく、住人の顔を知ることができるのはありがたいかもしれない。

 権利を無駄遣いしなくて済む。せっかくの外出なのに、嫌なやつと会いましたで一日が締めくくられたら、勿体ない。サンドイッチの最後の欠片を口に放りこんでから、扉と向き合う。

 4番の部屋のやつがもうすぐやってくる。昨日のような空気がまた始まるのか、と思うと気は重いが金のためだ。過去に行ってもっとも退屈だったアルバイトを思い返し、それに耐えたことを励みとした。ちなみにそのバイトは、カップ麺の蓋とカップが歪んでいないかを延々と監視するというものだった。

 廊下から足音が聞こえてくる。その足音が扉の前で一旦止まって、代わりにドアノブを回す音がした。ノックもなしに扉を力強く押して、入ってきたのは背の高い男だった。

 やたら高い。まずそこが目につく。190に近いんじゃないか、と思うほどだ。扉の上の壁で頭を打つことを危惧してか、慣れたように首を引っこめている。通った鼻筋や肌の具合に淀みがない。全体に漂う自信めいたものが背筋に力を与えているのか、強い芯を感じさせた。

 夏場なのにシャツの上に黒い上着を羽織っていることは理解しがたいが、そうした顔の出来や佇まいが、お上品に言えば端麗なそいつは俺と目があい、僅かな間を置いた後に肩を落とす。

 そこに加わる露骨な溜息を含めた態度から読み取り、先手を打って話しかけてみた。

「なんだ男か、って思わなかった?」

「思った。こいつぁ気が合いそうだ」

 男が唇の片側を吊り上げて笑う。靴を横着に脱いで揃えることもなく、部屋へ上がってくる。驚いたことに手ぶらだった。娯楽用具の類を持ちこんでいない。細長い腕と足を窮屈そうに折り曲げて、俺の前であぐらをかく。紙でできた人間の手足を重ねて折っているようだった。

「あのボードの字、ありゃ詐欺だ。女の字かと思った」

 立てた親指で斜め後ろを指す。挨拶も抜きにまずはそれか、と乾いた笑いをこぼした。

「そんなんだったか? 自分の字だからよくわかんねぇ」

「おぅ。騙しやがって、俺の期待を返せ」

 そう言って、中途半端に手をつけていたヨーグルトを無断で取って、喉に流しこんでしまう。食べきれるかと悩む量だったから、食べてくれてありがたい。が、不愉快でもある。


 頭の軽そうなところは俺と似通っているが、お友達になれるかはちょいと疑わしい。

「……なんだ、反応なしかよ。悪かったな」

 男が急に殊勝になる。ヨーグルトのカップを戻してから、頭をかいた。

「昼飯んときに好きなやつやるから。それで手打ちにしようぜ」

 意外な態度に出られて毒気を抜かれてしまう。存外、気のいいやつなのかもしれない。

 こんなことだけでそう評価を覆してしまう、自分の単純さが恨めしい。

「いいけどさ。元々、量が多くて食べきれなかったし」

「なんだ。じゃあいいことしたわけか、謝るんじゃなかったな」

 お互いに手のひらを返すのが簡単すぎやしないか。


「で、名前は?」

 相手が一向に名乗らないので尋ねてみると、詰まらなそうに男が言う。

「正方だ。別に下の名前なんかどうでもいいだろ?」


「どうでもいいな」

 敢えて名乗らないところは気に入らないが。しかし相手がそうなら、こっちもそれに倣おう。

「一場だ」

「知ってる、書いてあったもんな。俺も真似て書かせてもらったぜ」

 こいつのここまでの言動や立ち振る舞いから察するに、ボードの真ん中に書いていそうだ。

「大学何年?」

「二年。そっちは?」

「同学年だな。なぁ、お前は何番の部屋に行った? 予想すると、2番だろ」

 正方が座ったまま詰め寄ってくる。正解を期待する輝いた目で俺を見つめてきた。

 これにその通りだと素直に頷くのは、抵抗を禁じ得ない。

「そう。2番に行ってみたよ。ま、普通だよな」

「どうだった? そっちは女だったか?」

「ん、あぁ。女子大生だよ」

 期待していたのはそこだったようだ。正方が握りこぶしを作って、腕を引く。所謂、ガッツポーズを隠す気もない。ただその大げさなポーズも演技だったのか、すぐに相好を崩す。

「って、まぁどっちみち次に当たったときは行くつもりだったんだけどな」

「だろうなぁ」

 だがこいつの場合、男だと聞いたら後回しにしたんじゃないだろうか。

「そういえば、持ってこなかったんだな」

「ん、なにを?」

 正方が手ぶらな自分の両手を交互に眺める。

「将棋とかオセロ。廊下にあっただろ」

「ああ」と、正方が横に目をやりながら唇を曲げる。

「遊びたいのか? あんなので」

 あんなのとは随分な言葉だ。けど、ゲーム全盛の小、中学時代を過ごしてきた身としては、正方のその意見にも反感を抱くことはなかった。確かに、ああいうので遊ぶ機会は少ない。

 遊んだとしてもそれは実際の盤面でなく、ゲーム機を通してだ。

「ああいうのは性分じゃねえんだ。それなら人と話すか、寝るかの方がマシだよ」

 それを実践するように、正方が寝転ぶ。折った腕を枕の代わりにしながら横向きとなり、俺から顔を逸らす。なるほど、延々と寝るという選択もあったわけだ。しかしそれも限度はある。

「うぅ寒」

 正方の上半身が身震いする。そんなに冷房キツイのかなと、思わず部屋の中を見回す。

「温度上げようか?」

「あぁいい。上着あるから」

 服の袖を引っ張ってから、正方が身を抱くように固くする。部屋の人間に気を遣わせないように、上着を着てきたのだろうか。もしそれが正しいなら、その気配りには感心する。

 でも昨日、双海さんの部屋は暑かったのだ。おもむろに服を脱ぐわけにもいかないだろう。

「英蔵だ」

「えいぞう?」

 正方が唐突になにか言い出す。えいぞう? 映像?

「俺の名前だよ。英雄のえいに、蔵っていう字。ちょいと古くさい名前だがな」

 正方が中途半端に起きながら振り向く。ついでに指で宙に『蔵』の字を描いた。

「ふぅん、そうかい」

「本当にどうでもよさそうだな。お前が嘘つきじゃなくて安心したぜ」

 正方が気持ちよさそうに笑う。釣られてこっちも笑いたくなる、前向きな顔つきだった。

「なんで急に名乗った?」

「んにゃ、別に。なんとなくだ」

 そう言って、正方がまたすぐに寝転び直す。正方も、名乗らないことに解決しない気持ち悪さを抱いていたのかもしれない。じゃあ最初から名乗れよ、とは思うのだけど。

 その捻くれ具合は、少し微笑ましくもある。正方の見えないところでリモコンを操作して、冷房の温度を少し上げておいた。

「これ、なんの実験だと思う?」

 またすぐ起きて、振り向いてきた。寝たり起きたりと忙しい正方だ。ただその発した問いかけは、そうした細々としたことに気を取られている場合じゃないと思わせるものだった。


「マンションのモニターではないだろ、どう考えても。こんなとこに金払ってでも住みたいやつなんかいるわけないんだ、そいつは建てたやつも分かってる。だから、金を払ってでも俺たちに住んで貰いたがったんだ」

「それは俺も考えていたよ」

 双海さんと話していたことでもあるが、そちらは黙っていた。

「多分、揉め事が起きるのを待っている。そんな雰囲気だ」

 俺なりに受けた印象を述べると、正方も同意だったようで小さく頷く。やはり、閉鎖されているという環境が良い印象を抱かせないのだろう。

「正方はどう考えているんだ?」

「さぁなぁ。それこそ、殺人事件でも起こるのを期待してるんじゃねぇの?」

 そう笑い話の雰囲気で締めて、正方が仰向けに倒れた。目を瞑らず、天井を眺めている。

 実験とは、穏やかじゃねえな。指先が蠢いてモルモットに変わっていく気分だ。


 正方の最後は冗談としても、実際、その目的は不明瞭だ。サイコロに委ねられる外出権利。それこそ偏ってしまえば、一度も外に出ることができないまま何十日と過ごす羽目になる。

 そのとき、その人間はどうなるのか。どういった精神に達するのか。そしてそいつに遂に外出の権利が巡ってきたとき、どのような行動に出るのか。悪い未来しか思い描けない。


 そしてその未来が部屋を訪れるとき、俺たちに拒否する手だてはないのだ。

「………………………………………」

 先程の正方の最後に使った表現が、酷く印象に残っている。

 期待。

 元来、希望に満ちたはずのその言葉が、自分より高みにあるだけでこれほど不安だとは。

 正方に引きずられる形で、部屋の天井を見上げる。

 この天井のずっと向こうで、誰かがなにかを面白がって、期待している。

 それだけは確かな不穏と共に感じられた。

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