『ちょっと無敵、だいたい子ども。』【再掲載】

 ※この作品は「入間の間」に過去掲載された小説の再掲載になります。



 1-1『ちょっと無敵な物語』



 ぼくたちは自分のことをヒーローかなにかだと考えているけれど、相手からすればただの小生意気なクソガキなんだろう。その証拠に、手入れの滞っているしょぼくれた街路樹が並ぶ道を駆けるぼくたちを追いかけてくる大人は歯ぐきをむき出しにしている。あれはぼくらの熱狂的なファンでも、英雄の軌跡を尊敬と共に追いかける一般市民の顔でもない。明らかに怒っている。六月の梅雨の湿気を吸いこんで、白い煙でも吐き出しそうな憤怒と熱に塗れたベージュ色のオッサンが先頭を走る。ぼくらは全力で逃げながらも時々振り返り、オッサンの顔を面白がる。他のやつは知らないけどぼくは、その顔が楽しみでこうして逃げているんだ。

 海は遠く、川の泥臭い匂いが蔓延する淀んだ町並みと高速ですれ違う。雨の匂いと似て、だけどそこに藻の緑色が混じったような独特の空気が頬をすり抜ける。粘ついた痰と鼻水の混じったようなものが気体となって、鼻の奥にスッと入り込んでくるみたいだ。気味悪く、生まれた瞬間から、いや母さんのお腹の中にいる間からずっと側にあるその空気に、未だ馴染めない。

 ……あ、それはともかく逃亡真っ最中だった。

 左手に広がっているファミレスの駐車場に、先頭を駆けるリーダーこと、『スーパー』が舵を切るように曲がっていく。その後ろに続いていくのがぼくとキタローだ。夢中で逃げていると自然、体力のある順に整列して走ることになる。

 アスファルトを蹴る反発でみんなの身体の跳ねが大きくなる。追いかけてくるベージュのオッサンの怒声も揺れ幅が酷くなる。追い駆けっこで、先に体力切れを起こすのはいつだって大人だ。やっぱり大人になるっていうのは、ぼくの家で働くおねーさんが言うように身体が山の上から転げ落ちていくようなものかも知れない。大人に成長した人間は、退化するそうだ。

 じゃあ、なんの為にぼくたちは育つんだろう。

 最後尾に陣取るキタローが振り返り、人差し指と薬指で挟んだパチンコ玉を中指で弾く。バチィ、と金属と爪がぶつかり合う生々しい音も同時に弾けた。キタローの手から、木の枝を蹴る鳥のように勢いよく飛び立つ銀色の小粒な玉。ベージュのオッサンめがけて一直線。

 ぼくは振り返り、パチンコ玉の結末を見届けようと目をこらす。

 ひぃこらと息切れを起こしていながらも真っ直ぐぼくたちに邁進してきていたオッサンの鼻っ面と銀玉がバッティングする寸前、その突き出た腹が踊る。ぼくらを追いかけることにも慣れたオッサンはパチンコ玉の襲来を経験から予測していたのだ。けれどその唐突な回避の運動と体力不足が化学反応を起こし、両足がもつれて駐車場に座りこんでしまう。すとん、と膝から力が抜けてがっくりとへたり込んでしまった。オッサン本人も自分の足腰がそんなに綺麗に折り畳まれてしまうのが意外だったみたいで、肩で息をしながら惚けた顔でぼくたちを見送っている。

 ベージュのオッサンが座りこんでしまったことで、ぼくたちを追っていた数人のオッサンまで釣られるように足を止めてしまう。そうやって大人が動かない間にぼくたちは駐車場から飛び出して、市街地の中央の小高い場所にある公園を走り去り、田んぼのめだつ田舎道の方へと抜けきっていった。先頭を走っているスーパーの足が止まるまで、ぼくたちもその後に続く。

 勝った、という気持ちに今日も溢れての疾走。梅雨の真っ直中で空気がべとついているから、爽快感は薄い。早く梅雨明けして夏になって、休みが来ればいいのに。ぼくはそんな思いに突き動かされて、分厚い雲の向こうまで走り出したかった。流れ落ちてくる汗が目に入り、少しだけ足の動きが鈍る。指で乱暴に目もとを擦ってから、もう一度顔を上げて足を振り上げる。

 ぼくたちは毎日、敵と戦っている。

 ぼくの右手には赤銅色と綻びのめだつ、鉄パイプ。真ん中付近で左右が折り重なるように折れて、握る度に手のひらに錆がこびりつく。『夢売り場』にて五十円で購入したそれが、ぼくのこの町で生きるための武器だった。……なんて言い切れるのは、いつになることやら。ぼくはまだこの鉄パイプで、一度もだれかを叩いたことなんかない。

 そこまで本格的な『敵』は、この町にまだ現れていなかった。

 だけど、ヒーローになれる分の敵はいつだって町を歩いている。

 都合いいことに、ぼくたちの暮らす町にはそこそこの敵が大勢いた。

 だからヒーローになるなんて、簡単なことだった。

 何度でも、何度でも。



 最初からなにもない場所を寂れたと表現はできないらしい。見渡す限りの田んぼと豆粒みたいに動く登下校中の小学生しか存在しないという道が網目のように走っているこの土地を、ではぼくらはなんと呼べばいいのか。海も遠く、山も見当たらない。つまるところ、ド田舎だ。

 岐阜にほど近いけれど愛知県に分類されるぼくたちの町は、確かに去年までは単なるド田舎にすぎなかった。遠くに建てられた巨大なショッピングモールの中に、町民が丸ごと引っ越せそうなカソ地帯。ぼくが九歳になるまで続いていたそんな世界は今、二つの大きな手に外側から引っ張られている。大岡裁きやキベンの通用しない、待ったなしの引っ張り合いだ。

 過疎地を豊かな町に仕立てますよーと誘ってくる、外部の都会派スイシン連中。土地だけは異様に余っているから色々と開発してみよう、儲けられるといいねの姿勢を隠そうともしない。

 やつらが町に粉をかけるようになってから、田んぼが埋め立てられて分譲住宅へと次々に変わっていった。その住宅の買い取りを募集する看板はどこからも一向に抜けていかない。やつらが言うには、もっと便利な施設を作って環境を整えれば飛ぶように売れるらしい。

 そんなわけねーだろ、とぼくは思っていたりする。こんな田舎、いくら整えても人は来ない。

 そしてその都市開発をフモウ極まりないとして対抗する地元民が団結し、都会派スイシンに待ったをかけている。地元結束団と都会派スイシン連中。二つの勢力は建前として町の治安を守る自警団を、本音は相手側の粗探しのために自警団を立ち上げて日夜、町を回っている。

 その二つの自警団こそ、ぼくたちがヒーローになるための敵だった。

 ちなみにさっきのベージュのオッサンは地元の自警団の人だ。しかも近所に住んでいる。

「オッサンも大分訓練されてきたなぁ。オレたちのお陰だ」

 秘密基地の秘密の会議だから、場所もメンバーも秘匿にしたいところだけどそのどちらも、町では有名になってしまっているのが残念なところだ。場所は旅館の厨房の隣にある従業員用の部屋で、メンバーはぼくとスーパー、そしてキタローの三名。本当はもう一人いるんだけど、そいつは飛んだり走ったりが嫌いだからと言って大人との戦いにはほとんど参加しない。

「でもあのオッサン、毎日オレたちを追いかけているのに体力の方はちっともつかねぇなぁ。むしろビール腹が出っ張る一方じゃね?」

 旅館の冷蔵庫から拝借してきたコーラを舐めつつ、スーパーが気味悪さを前面に出すような吊り上がった笑顔を晒す。不揃いな形のじゃがいもを五、六個にぎにぎとくっつけて配置にちょっとだけ手心を加えると、スーパーの顔が一丁上がりとなる。身も蓋もない言い方をするなら、器量悪し。だけど同時に愛嬌もあってぼくらはその顔を眺めるのが嫌いじゃなかった。

 こいつは父親がスーパー経営者だから、スーパー。なんて安直なあだ名なのだろう。

 言い出したのはぼくだけど。ぼくは人にあだ名をつける係が不思議とよく回ってくる。両親は占星術師とか姓名判断師の類でもなく、この旅館の経営者だから血統がそういった縁を引き寄せていることはなさそうだ。ぼく個人になにか、名前との因縁めいたものがあるのかも知れない。そんなことを、室内の三人で円座を組みながらコーラを舐めつつ考察してみる。

「キリオ?」

 俯いて反応がないことを不審に思ってか、隣に座るキタローがぼくを呼びながら、顔を覗きこんでくる。キタローに大げさに覗かれると真っ先に目に映るのが無表情な狐だから、不意打ちだと思わず仰け反ってしまう。キタローはぼくのそんな反応に気づいてか、押さえるように狐のお面に手のひらを添えながら身体を引っこめる。そのお面の奥に蠢く空洞がなにを思うのかは、表情に乏しい横顔からうかがい知ることはできない。

 同級生のキタローは右目がない。去年の十二月にだれかと喧嘩してなくしてしまったらしい。だからキタロー。義眼は入れているけど、普段は祭りで買った白狐のお面を斜めに被って、右目とその周辺が人目に触れないように覆い隠している。冷静に考えると喧嘩して右目を失うって、大人への悪戯ばかり繰り返すぼくらも直面すれば真っ青になることうけあい、シャレになっていない事態である。

 しかし普段から冷静でないぼくらは深く考えることなどなく、キタローを連れ回すのだった。

 まぁいいじゃないか、どーでも。スーパーなんか顔面じゃがいもなんだぞ。

 キタローの顔面事情は、ぼくたちがこれから体験する物語に一切、関係ないことだ。

「どうでもいいけど、今日って自警団の連中の会議あんのか?」

 油を舐める猫のようにコーラの缶を舌で弄りながら、スーパーがぼくに尋ねてくる。ぼくは握りっぱなしの鉄パイプで宙を軽くかき混ぜるように手を回しながら、「多分」と答えた。

「よし、じゃあちゃんと情報収集しておけよ」

 スーパーが命じてくる。ついでに残ったコーラを一気飲みしてゲップを繰り返す。この旅館では地元民の会合、というのは名ばかりの宴会が多く開かれるので、ぼくはそこに家の手伝いの形で紛れて彼らの活動情報を集めてくる。スパイ活動というわけだ。もっともぼくの顔なんて、地元民のみなさんに割れているので『ごっこ』なんだよなぁ、という気持ちは拭えない。

 だけどぼくたちが日々繰り広げる戦いは、ごっこなんかじゃない。

「今日はいっぱい叫んだから喉が渇くね」

 キタローがコーラをちびちびと啜りながら呟く。窓の外に立ちこめる雨雲のように膨らみを含んだキタローの喋り方はもごもごとして聞き取りづらい。消極的で、だれかと喧嘩をする姿も想像つかないこいつが右目を失って、ぼくらと一緒になって大人に戦いを挑んでいるのが時々、悪い冗談みたいに感じられる。もっとも、この町そのものが半分は冗談のようなものとしか思えないのだけれど。

 今日行ったことは卒業式の練習だった。

 ぼくたちも今年で小学四年生。二年後は六年生で卒業が間近に迫っている。というわけで卒業式の予行演習を、自警団の本部ビルの立ち入り禁止とされる屋上に潜入して行ってみた。発案者はスーパー。大人との戦いは大抵、スーパーが提案する。中にはメチャクチャな苦労を伴う内容や、とびきりの危険が付きまとう作戦もある。あんまり大がかりだと面倒臭がって、キタローも参加しないけどなぜかいつでも、ぼくだけは付き合わされることになる。腐れ縁みたいなものだ。

 どちらかの自警団に悪戯する、無事に逃げ帰る、旅館で一息ついて作戦会議。これがぼくらの一般的な休日の過ごし方だ。でもただの遊びじゃなくて、子供にしか芽生えない大人への言い分をそれなりに含んでいるつもりだ。

 都市開発ってやつを進めるなら、それならそれで早くしてくれ。中途半端に家だけ建てないで、ぼくたちにユウイギな遊び場をくれ。都会派スイシンにはそんなメッセージを込めている。

 そして地元自警団にはやることが中途半端だ、もっと過激に行けってハッパをかけている。ぼくらを真似して大胆に活動展開していくべきだ。というかいつまで不毛に争っているのかと。

「大変よ! 主にわたしが大変なの!」

 襖を蹴破るように飛びこんできた女子がギャーガーと一人で八人分ぐらい騒ぎ立てる。女三人寄ればかしましい、という慣用句を尊重するならこいつの中には三人ぐらい婦女子が潜んでいるのだろう。女子はくるっくるっと大変に回転して大変にぼくたちの周囲を回って大変を大変にアピールしてきてもう大変もいいところだった。

「おぅ、実に大変そうだ。大変らしいのでオレたちはお邪魔にならないようにお暇しよう」

「うんうん」

「そうだね」

 一同、スーパー隊長の判断に異議なしで立ち上がろうとする。反発するのは女子だけ。

 手近にいたぼくの額を指差しながら、八人分のかしましさを収束してぶつけてくる。

「なによ、大変な人を放っておくとね、その大変さが飛び火して巡り巡っていつか自分にも降りかかってくるんだからね!」

 鉄琴を耳もとで横着に叩かれたような高音に対応しきれなくて、耳詰まりを起こす。

「あー分かった分かった。で、今度はなんだよ」

 呆れ顔のスーパーが女子、神谷実香に『大変』の詳細を窺う。かみやみか、逆から読んでもかみやみか。指摘すると憤慨する。本名の時点であだ名の雰囲気が漂っているから、ぼくはカミヤミカとこいつを呼んでいる。呼ぶ度に怒るけれど慣れたので無視もたやすい。

 カミヤミカはぼくたちの仲間、ではないはずだけど勝手に現れては騒いでいくことが多い。今もぼくたちが仕方なく円座を組んで座り直しているところに、遠慮なく割りこんでくる。そのせいで円はいびつな、四角形の出来損ないみたいな形となってしまう。台風のようなやつだ。

「デカイ蛇でも庭に出て丸呑みにされたのか?」

 先月、町内ツチノコ探しに駆り出されたことを根に持っているのかスーパーが嘲りを交えて尋ねる。キタローもそのときのことを思い返してか、元から線の細い身体が一層縮こまる。

 そんなぼくたちの冷めた反応など壁の染み程度にしか捉えず、カミヤミカが嬉々として叫ぶ。

 ……嬉々?

「あたしね、殺し屋に狙われてるのよ!」

 身を乗り出し、胸もとに手を添えながらのカミヤミカの訴えを即座に理解できるやつはこの場にいなかった。ぼくたち三人も大概、頭は柔らかい方だと思っていたけどまだまだ常識的みたいだ。

「……は、殺し屋?」

 ぼくが他の二人より一足早く、カミヤミカを疑う。なーに言ってんのお前、というニュアンスは届くべき相手にしっかり伝わったみたいでカミヤミカが膨れっ面になる。口を噤んでジッとしているときのお澄まし顔よりは、その感情を公にしている顔つきの方がかわいらしい。

「だから殺し屋よ、殺し屋! そいつがあたしの前に現れて殺すって言ってきたのよ!」

 カミヤミカが再度の危険を訴える。殺し屋=殺し屋。ようやく漢字変換がぼくたちの中で済んで、顔を見合わせる。全員の目に共通の疑問が浮かんでいることを確認してから、一斉にカミヤミカを見つめる。乗り出していた身を少し引いて、カミヤミカが「なによ」と睨み返す。

「会ったの? 殺し屋と」キタローがまずは前振り。

「そうよ」

「お前を狙っている殺し屋と?」その質問を引き継ぐ。

「そうだってば!」

「じゃあ、なんでお前殺されてねーの?」スーパーが締める。

 カミヤミカが固まった。だけどその硬直具合は甘かったらしく、すぐに復活する。

「なによあんたたち! あたしが死んでればよかったわけ?」

「そういうことじゃないよ。そいつ、ほんとに殺し屋なの?」

 またもご不満そうに頬がパンパンとなったカミヤミカが、ぶすったれたまま答える。

「だって、本人がそう言ってたんだもん。いつかきみを殺すかもねーって」

 自称かぁ。ますますぼくの中で、ときめき株が下落する。殺し屋という非日常の言葉には胸がときめいてもよさそうなのに、どうも先程から印象が悪くなる一途を辿っている。

「よっぽど殺すのが苦手な殺し屋なのかな」

 キタローが同情するような湿っぽい口調で、まだ見ぬ殺し屋の事情を考察する。

「なんでそんなやつが殺し屋なんだよ」

「やむにやまれぬ理由があるとか」

「そうかぁ、殺し屋もかわいそうになぁ。今度会ったら相談に乗ってやろうぜ」

 キタローとスーパーの間で殺し屋への評価が決まってしまった。カミヤミカの頬が爆発する。

「バカでしょあんたたち!」

「どーでもいいけどさ。殺し屋に狙われている(はず)なのに嬉しそうだな、お前」

 ぼくがその弾けた唇の切っ先を指差しながら指摘すると、カミヤミカはふふんと鼻を鳴らす。

 そして自らが今、感じているものを語った。

「だって殺し屋に狙われるってすっごく特別な生い立ちとかありそうじゃない?」

「じゃない? って、お前自分のことだろうに……」知らんのか、生い立ち。

「これであたしも悲劇のヒロインってやつなのよ」

 ばすばすと自分の薄っぺらな胸だか骨だかを手のひらで叩いて、その立ち位置を誇示してくる。悲劇が確定しているなら、ぼくたちはなにも手を打たないでいいよね。低い鼻を無理に高くして得意げなカミヤミカの様子を眺めながらそんなことを思う。口に出すとまた噛みついてきそうなので、こぼすのは胃の中のコーラに伴うげっぷだけにしておいた。

「あー喉渇いた。これちょーだい」

 畳の上に置いてあるぼくのコーラの缶に、カミヤミカが手を伸ばす。ぼくが無言でいるとカミヤミカの手と赤い缶が口もとに寄せられていく。でもそこでカミヤミカの手は止まった。

 ぼくをじぃっと睨んでくる。こいつの方が殺し屋と誤解されかねない、剣呑な目つきだった。

「なに?」

「カンセツキス? とかドキドキしなさいよ」

「はぁ?」

「あんたねー、恥じらいとかないの!」

 ガツッと缶を畳に叩きつけながらカミヤミカが止まらない。いつまでもうるさいやつだ。ぼくとしてはカミヤミカこそ、大声を張り上げることに対してもう少し恥じらうべきだと言いたい。旅館で働く仲居の美人おねーさんを見習うべきだ。ほんとビモクシューレーだもんなぁ。

 なんて憧れのおねーさんに思いを馳せていたら、カミヤミカが動いた。忙しないオンナだ。

 今度はキタローの缶を奪い取る。キタローは狐のお面を撫でながら少し目を伏せる。カミヤミカみたいな、コマが常に回転しているような気性のやつは苦手らしい。

「僕は他に好きな子いるから。その子にドキドキしたい」

 ぼくたちのやり取りを聞いていたらしく、キタローはこともなげに言った。表情は狐のお面同様、作り物のように変化がない。傍から眺めているだけのぼくにも、それは面白くない顔だった。カミヤミカがコーラ缶をキタローに突き返す。憤怒に支えられた奮迅の動作が、最後はスーパーに向かう。スーパーはニヤニヤしながら、カミヤミカに缶を快く譲り渡す。

「中身空っぽだぞ、それ。ちゃんと分別して捨てておいてくれよ」

 ベコベコベコ、とアルミ缶に皺が入った。さすがにその缶を投げることはせずにむくれる。そしてカミヤミカは原点回帰、とばかりにぼくを睨み直した。あれ、ぼくの反応はもう終わったのに。今度こそとばかりに人のコーラに勝手に口をつけてから、カミヤミカがけふ、と炭酸臭い息を吐く。それを恥じるように口もとを拭ってから、その手でぼくの鼻先を指差した。

「とにかく、こう、あんたがあたしを殺し屋から守りなさい!」

「なんでだよ」

「鉄パイプ持ってるからよ!」

「なんでだよ」

「あんたこそなんで鉄パイプ持ってんのよ! 危ない子じゃない!」

 そんなやつに守ってくれとか依頼するな。

「これは武器だから。知ってるか、手に入れた武器は持っているだけじゃなくて装備しないとダメなんだぜ」

 RPGの最初の町か城で教えて貰えそうなことを偉そうに言ってみると、カミヤミカの鼻息が見るからに荒くなった。吐息は見えないが鼻の穴が心持ち広がる。ぼくは数秒後に訪れるであろうカミヤミカからの罵声への対策として、両耳を手のひらで塞ぎ、鉄パイプの表面がゴリゴリと顔の側面に当たる感触に促されるように溜息を吐いた。

 どうしてぼくがカミヤミカをお姫様と崇めて、忠誠の騎士に就職しなければいけないんだ。カミヤミカの家とは校区が一緒だけど、同じクラスになったのは三年生からだ。ぼくたちの両親は昔から懇意にしているみたいだけど、子供の方はさして親しいわけでもない。

「けど殺し屋退治も面白そうだな」

 ぼくたちのやり取りを粉ふき芋みたいなぼろっちい顔で眺めていたスーパーが、祭りで物珍しい屋台でも見つけたような調子で呟く。カミヤミカの鼻が広がったまま、顔が固まる。

 ぼくも似たようなものだった。耳栓にしていた両手を離して訝しむ。

「あん? 殺し屋、退治ぃ?」

 口を挟んできたお陰でカミヤミカの噛みつきが不発に終わったのはありがたいけど、なにを言い出すのだろうと目を丸くしてしまう。キタローも同様のようで、スーパーに注目している。

「その殺し屋がなんでカミヤミカを狙うのか。そもそも殺し屋がこんな町にいる理由。そーいうとこ、ハッキリさせたいだろ? オレはもやっとすんだよなぁ、そういう謎があると」

 もやを表現するようにスーパーの両手が広げられる。ついでにじゃがいも顔も白い花が咲いたように、笑顔で満たされる。殺し屋への期待にゆがむ頬によって、本当に頬の形が新じゃがのような膨らみを帯びる。そのじゃがいもに釣られて、ぼくの中で削がれていた殺し屋への興味もむくむくと育ち始める。

 殺し屋が町にやってきた。……いいね、サーカスや芸人より心躍るかも。

「つーか、本当にそいつ殺し屋?」

 スーパーがカミヤミカに確かめる。カミヤミカは猛然と握りこぶしを振り回して答える。

「本当よ! あたし、そんな痛い嘘つかないわ」

「ツチノコ真剣に探す子の台詞かなぁ……」

 キタローが横を向いてぼやく。カミヤミカが険しい視線をやっても、応対するのは狐のお面だ。カミヤミカは四つん這いになって犬のように手を伸ばし、狐のお面を指先でつついた。キタローは鈍く振り返り、いやいやをするように長い髪と首を振りながら狐のお面を手で押さえる。派手に反応しないのが不服なのか、カミヤミカはすぐに引っこんでキタローを真似るようにそっぽを向いてしまった。

 ついでに、カミヤミカが前屈みの姿勢になった際にシャツが身体から離れて、肌の隠すべき部位がぼくの場所から丸見えとなっていたことを報告しておく。仲居の美人おねーさんと比べたら、月曜日と日曜日ぐらい差がある。なのに目をやってしまう。不思議だなぁ。

 そもそも最近、女の子の肌にもやーっとしたものを感じるのは、なんでだろう。

「殺し屋はどんなやつだった?」

 こんなやり取りより殺し屋の方に関心があるのか、スーパーが早口で質問する。

「んー、ちょっといいオトコだった」

 でへへー、とカミヤミカが壁の方を向いたまま、だらしない思い出し笑いをこぼす。ませたオンナだな。別に人の趣味や背伸び具合を否定する気はないけど、その情報を他人たるぼくたちはどう活かせというのか。いいオトコなんか町を駆けずり回って捜したくない。

「カッコイイおにいちゃんって感じかなぁ。歳はね、二十歳ぐらい? いかにも殺し屋ーって感じの黒い服に、背が高くてすらーっとしてるの。で、汗だく」

「汗?」

「うん。こんな蒸し暑いのに長袖の服着て汗ダラダラ流して、水色のハンカチで拭いてた」

 ふきふき、とカミヤミカがその仕草を真似て自分の額を撫でる。うぅん。

 汗まみれで黒い長袖の服を着た自称殺し屋が小学生に声をかけていた、だって。殺し屋というより不審者のイメージばっかりじゃないか。暑さでちょっと頭がパーになって、妄想の果てに殺し屋でーすとか名乗っちゃったのかなぁ、その人。なんだか、かわいそうに思えてきた。

「黒ずくめのオトコか。なるほど、いかにもって感じでいいな!」

 スーパーの方は、おあつらえ向きの殺し屋像を歓迎するらしい。自分の足を叩いて小気味いい音を立てる。汗だくという部分には意図して触れていないようだが、いいのかそれで。

「あ、僕はパス。明日は用事あるから」

 キタローが早々に逃げを打つ。明日から早速捜すとスーパーが提案することを見抜いての先制は評価するけど、まだ青い。先手を取ることが必ず有利になるとは限らないのだ。

「つまり今日は用事ないってことだな? じゃ、今から捜しに行こうぜ」

 ほらこうなる。待ちきれないとばかりに立ち上がったスーパーが、唖然とするキタローの手を引く。キタローもそこで抵抗をムダと悟ったのか、素直に膝を伸ばして、部屋を出ようとするスーパーの後ろを歩く。

 言うまでもないしスーパーが手を引くまでもなく、ぼくもその後に続く。

 ツチノコ捜しよりは殺し屋退治の方が、よっぽど自発的に動けるというものだ。てってと歩いて、勝手に利用していた従業員用の部屋から出る。てって、てって。足音がぼくの後ろからも響いてくる。振り返る。カミヤミカまでくっついてきていた。

「なんでついてくるの?」

「あたしも行く」

「お前アホか。殺し屋に命狙われてるんなら、家で大人しくしてろ」

 スーパーがシッシと野良猫でも追い払うような仕草を取る。カミヤミカが顔をしかめた。

「男子っていっつもそーいうことするよね。男子だけでべたべたくっついてさ、キモー」

「それは女子だって一緒だろ。あーとにかく入ってくんな、あっち行け」

 そっちでもいいけどなー、と奥の行き止まりをスーパーがおどけて指差すとカミヤミカが地団駄を踏んだ。旅館の床は絨毯が敷いてあるので踏みつける音の大部分が死ぬ。ぼくたちに伝わってくる怒りもそれでは、演出が安っぽいせいで半減されてしまう。カミヤミカもそういった自覚があったらしく、最後にまた両方の頬を実らせ、熟させ、弾けさせてから走り出す。

「バーカ!」

 去り際、なぜかぼくに向けて罵倒が飛んできた。追い払ったのはスーパーなのに。三人の中でぼくが一番弱々しく見えるから、なんて理由で選ばれたのだろうか。鉄パイプ持っているのに、狐のお面とじゃがいも顔に負けるのか。細々とした上腕二等筋が切ない。

「あのさ」

「うん?」

「神谷さんの側にいた方が殺し屋に会えるんじゃないかな」

 キタローの提案をスーパーは一笑に付す。

「待ち伏せ作戦は好みじゃねーんだよ。打って出る」

 そう言ってスーパーは架空の旗か剣でも掲げるように、握った右手を目の高さまで上げる。

 昔からの付き合いのよしみで、ぼくが代わりの鉄パイプを掲げておいた。


 この後の話は不毛だから中略してしまうけど、黒い服の汗だくなちょっといいオトコを見かけることは叶わなかった。昼から半日ほど町を巡って、ぼくたちの方がよっぽど汗水を垂らしてしまっている。この際、キタローに燕尾服でも着せて汗だくの殺し屋一丁上がり、で終わらせてしまいたい。通学路でいつも通っている道の分岐路で、ぼくたち三人は立ち尽くしていた。

 排水路と間違えそうなか細い川と、アスファルトを突き破って生い茂る草むらの周辺に、ぼくたち以外の人影はない。川の向こう側には工場と潰れたパチンコ屋、そして一面の田んぼ。今は水が張ってあって、その茶色い水面が生き物の鱗みたいに折り重なって揺れている。標識の側に立つぼくたちはしばらく、風に弄ばれる稲の先端を眺めて身体を休ませた。

 疲労の溜まった足は重く、だれも動こうとしない。だけどそれ以上に耐え難いのが六月の蒸し暑さで、抗えない。泥臭いと分かりきっている水田にさえ、飛びこんでしまいたくなる。

「帰るよ」とキタローが言っても、引き留める言葉は見つからなかった。口を開くのも億劫だ。

 大体、なんの準備もなく殺し屋を退治できるものだろうか。昆虫採集じゃないのだから。

 キタローの武器はパチンコ玉(店外に持ち出し禁止じゃないのか?)。ぼくの武器は一度も人に振り下ろしたことがない曲がった鉄パイプ。そしてスーパーは素手。なんとも頼りない。

 それでもぼくたちがスーパーを中心に集えば、大概のことはなんとかなる。少なくともぼくはそういう空気を、みんなが集まることで感じていた。こういうのを、思い上がりと言う。

「トクガワに声だけかけておこうか?」

 キタローがぼくたちの顔を窺う。無愛想な白狐と共に左目が左右に振られた。腕を組むぼくとスーパーは顔を見合わせて目だけで手早く意思疎通を済ませる。ぼくら二人は保育所に通っていた頃からの付き合いなためか、相手がなにを考えているかなんて手に取るように分かる。

 どちらも周囲の人たちに『単純』と評される性格であることが原因かも知れないけれど。

「よろしく。ついでに秘密兵器でも発掘できていたら持ってこいって伝えてくれ」

「分かった」

 頷いて、キタローが歩き出す。ぼくたちから離れていくその背中を見送って、その空気の流れに身を任せてスーパーともこの場で解散した。ぼくらの別れはいつだってあっさりしている。

 それはきっと明日になれば、また顔を合わせることができると安心しているからだ、と思う。

 汗が少し引いて足の重苦しさも和らぐと、途端にまた意欲の順番が入れ替わる。

 鉄パイプを両手で握りしめて、青眼に構えた。

「殺し屋退治かー」

 不謹慎に該当するか分からないけど、ちょっとワクワク。

 まーぼくたち、大概頭緩いから。



 その日の夜、ぼくは家に帰らないで旅館の宴会場に紛れこんでいた。両親は少し不景気な旅館の経営に明け暮れて忙しいし、明日が日曜日ということもあって、ぼくを見かけても咎めることはない。それに少々放任主義ということもあった。拘束されないのはありがたい。

 宴会場は旅館の二階にあって、『隼の間』と書かれているけどぼくにはまだその漢字が読めない。大人に聞けばすぐに読み方が分かるだろうけど、なんとなくシャクだ。だから自分で調べよう、と見る度に考えるけれど未だに実行に移したことがない。寝るとなんでもすぐ忘れてしまう性分なのだ。便利ではあるが少々、ジンセイが味気ないぜ。なんてオトナぶってみる。

 この宴会場にはカミヤミカの父親もいる。自警団の隊長(団長かな?)に納まっている荘厳な雰囲気の、ヒゲのオッサンだ。カミヤミカにヒゲをこんもりと付け足せば同じ顔になるかも知れない。逆もしかり。顔を盗み見るようにして、カミヤミカの父親からヒゲを取り除く想像に耽ってみた。……ちゅるんとした顎を持つオッサンはカミヤミカに似ていないようだ。

 良かったなぁ、カミヤミカ。その歳からオッサン臭くなくて。明日、本人に言ってやろう。

「でなぁ、来月の夏祭りじゃけど……花火は……」

「スポンサーかぁ、頭痛いなぁ……あいつらが横槍入れてくるとなぁ……」

 大人たちの話に聞き耳を立てても、殺し屋の話題は出てこない。こんな町に殺し屋なんて現れたら、それこそ蜂の巣が発泡スチロールの奥から百個ぐらい発見されるより大騒ぎになりそうだけど。カミヤミカは自警団の団長である父親に、殺し屋の話をしていないのだろうか。

「んー……」

 大人たちの作る円座の裏側を四つん這いでゆっくり回って、気になる話題はないかと確かめる。ちなみに、昼間に追いかけっこしたベージュのオッサンも自警団の一員ではあるけど、宴会にはあまり来ない。それを知っているからこそ、ぼくは平気な顔でここに参加しているのだ。

「そーいえば、殺し屋の噂知っとるか?」

 びくんと顔を跳ね上げて、ずざざざと音源の裏側へ移動する。酔っぱらったオッサンと酔っぱらったオッサン……えぇと違いは、太っているのと毛深いこと。太っているオッサンの方が殺し屋について話題を振ったようだ。「あぁ?」と空のグラスを振りながら毛深いオッサンが首を億劫そうに傾げる。「殺し屋さん? なんだぁ、商店街に新装オープンか?」酔ってるなぁ。

「いやな、スイシン派の連中が雇ったって噂を昼間、又聞きした」

「うー、あー、殺し屋、かぁ。あいつらなら雇いかねないなぁ、ひでぇやつらだもん」

 だなだな、と太ったオッサンがしみじみ頷く。ほぅほぅ、とぼくはオッサンの背後で顎を撫でた。カミヤミカの出会った自称殺し屋に、都会派が雇ったと噂の殺し屋。同一人物か?

「でもよぅ、雇って誰殺す気なんだぁ? 俺じゃねえよなぁ」

「んー、そだなぁ……脅しに使うんじゃねぇか?」

「脅し?」

「だからよぉ、こっちは殺し屋雇っているぜー、いつでも誰でも殺せるぜーって」

 なるほど。太ったオッサンの考察に一理あると内心で同意。カミヤミカを狙うのは、自警団の隊長の娘だからかな? それで今日は娘の方に遠回りな警告と脅迫を与えた、とか?

「けしからん! 警察はなにしているんだ!」

 毛深いオッサンが叫んで、場の注目を集める。オッサンはその視線に気をよくしたのか、ぺらぺらと得意げに愚痴を語り始めた。太ったオッサンがそれを手拍子で囃し立てる。周囲はそこそこの盛り上がりだけど、オッサン二人だけが雲を貫く山の頂上に登っていくようだった。

 まぁ、ここらへんはいつものことだ。

 どろどろした言い合いとか愚痴はある。大抵渦巻いている。都会スイシン派への愚痴。田舎の良さを酔いに任せていい加減に歌い上げる声。都会化することで職を失う人の嘆き。

 正直なところ、そういった大人同士の都合にはこれっぽっちも興味がない。それは都会スイシン派と地元派の本格的な争いに関してもだ。ぼくたちがそれに劇的に関われるとも、影響を与えられるとも考えていない。この夏、少年たちが町の重しを風みたいに取り払う、なんてことを恐らくだれも期待していないだろうし、そんなことは多分不可能であり、本意じゃない。

 ぼくの物語は、自分の背丈の高さで展開されればいい。

 背伸びなどしなくてもいつか勝手に伸びた身体が、ぼくを大人にしていくのだから。

「……くぁ。酔っちゃったぜ、なんてね」

 欠伸を噛み殺しながら立ち上がる。これ以上、ここに座っていても収穫はなさそうだ。太ったオッサンに一応、「ねーねー」と無邪気を装って殺し屋について探りを入れてみるが、あくまで噂として耳にした程度の情報しかないようだった。居場所など分かるはずがないだろう。

 でも、殺し屋が町にやってきたという噂がある。やってきた、つまり町の外の人間だ。

 殺し屋がしばらくこの町に居着くのなら、どこにいるかは見当がつく。この旅館だ。我が家自慢じゃないけど、町の旅館といえば、と考えれば真っ先に挙げられる場所だから。だから多分、ここに泊まることになる。まぁ本当に、都会スイシン派が殺し屋なんて物騒なのを雇ったらだけど。そこまでするかな、と疑問はある。でもぼくは子供だから、大人の事情は分からないし。

 大人の世界はサツバツとしていて、だから殺し屋なんて仕事があるのかも知れない。

『隼の間』から出て、大人たちの妙な熱気から逃れたことに息を吐く。宴会場は酒臭さと大人特有の匂いが湿気に混じって、長々といたら冗談じゃなく肌にお酒が染み込んできそうだ。

 廊下の水滴を多く含むような、少し冷たい空気を鼻と口からめいっぱい吸いこむ。大きく吸って、吐いてを繰り返しながら廊下を真っ直ぐ進むと、その曲がり角で、仲居の美人おねーさんが誰かと話しているようだった。出会えてラッキー、と指を鳴らしながら様子を窺ってみる。

「俺ね、ビール駄目なんだ。つうか炭酸飲めないの。だからオレンジジュース下さい」

 仲居さんと向き合っている、恐らくはお客さんの声が聞こえてくる。軽薄な調子で、いい加減そうな大人の声だ。そいつの全体像は壁に隠れて、ぼくの位置から確かめることができない。仲居のおねーさんが「かしこまりました」と愛想良く頭を下げる。声がますます調子に乗った。

「いやーそれにしても暑いですよね。日本の梅雨は嫌だなぁ、ほんと」

「うーん……暑いのでしたら、服を脱ぐのはいかがですか?」

「えー脱げってそんな、大胆な……いえでも、あなたの為ならどっちでも脱ぎますよ!」

「では、すぐにお持ちしますので」

 話し終えると、美人おねーさんは引き返さずにそのまま曲がっていってしまった。ぼくの方には来ないようで、ちぇっ、と舌打ちを漏らす。曲がり角からも聞こえてきた気がした。

 結局、今日は美人おねーさんと一回も話せそうにない。あれが休日の密やかな楽しみなのになぁ。でもそういう日もあるよね、と諦めてまた歩き出したところで。

 すぐに、足の指が廊下をえぐるように踏みしめて停止する。

 曲がり角からひょっこりと出てきた、ひょろりと背の高い男を目にしたことで。

「あー暑い暑い。六月はホント、嫌いだ」

 明らかに自分の格好に問題があるのに、それを無視するようにぼやいて。

 しかめ面しながら、額の汗をハンカチで拭き取る男。

 瞬間、脱水症状でも起こしたように目の前がぐにゃりと歪み、目の下から血の気を失う。

 黒い長袖を着て。

 水色のハンカチ。

 汗を拭き拭き。

『やつ』だ。こいつが、カミヤミカの出会った(自称)殺し屋だ。

 思わず鉄パイプを握り締める。こんな場所で急に遭遇するとはまるで考えていなくて、混乱が芽生える。額に血と汗が集って、どくどくと心臓を形作っているみたいだ。どうする?

 コロシヤはまだ廊下の前方に注目せず、窓に映る夜景に唇を尖らせている。ぼくとの距離は大人の足でも十歩以上あって、不意打ちはとてもできそうにない。……いや、そうじゃない。

 ぼくはここで、コロシヤと戦う必要なんかないんだ。

 慎重に、一歩ずつ。けれど不自然にならないような速度で足を動かす。今はまだ戦わない、やり過ごす。ぼくに与えられた命令は情報収集なのだから、それをやり遂げるべきだ。

 決戦は明日、仲間と共に。ぼくは一人でなにもかも解決できるほどのヒーローじゃない。

 だからこの鉄パイプはまだ、なんにも殴っていないのだ。

 コロシヤも別段、ぼくに注意を払わない。見えているものより、目に映らない湿気の方にご執心みたいでキョロキョロと左右に目をやりながら、ぶつぶつと不満を愚痴っている。

 コロシヤとの最初の遭遇は、実にあっさりとすれ違うことで終わりを迎えようとしていた。

 ……が。

 すれ違ってから、三歩目。

 ぼくが曲がり角に消えようとする寸前。

 黒ずくめの男はわざとらしいほどゆっくり、頓狂な声をあげた。

「おやぁ?」

 背中の右を走る筋が引きつった。それでも首筋をちぎるように力を込めて、振り返る。

 廊下の中央に立つコロシヤがぼくを見下ろして、顎に手を当てていた。額に新しい汗を滲ませて。背景の薄暗さと相まって、黒ずくめの格好は夜が固形物となったみたいだった。

 ……なるほど、カミヤミカがでへへとなるぐらいにはいい男かも知れない。

「随分と物騒な少年だなぁ、きみ。そんなもの持っちゃって」

 鉄パイプを指差してくる。あんたはどうなんだ、と言いかけたけど口を噤む。コロシヤだから武器は、ナイフ? 拳銃? それとも創作物にないなにかを携えているかも知れない。

「これは、お守りみたいなものだから」

 コロシヤ(未確定)と会話している、という状況に高揚と動揺を同時に覚えながらも、舌は案外くるくると回る。大人たちと戦ってきたことは多少なりとも、ぼくに度胸をつけさせたみたいだ。コロシヤは「ふぅん」と元から大して興味がないような反応を見せる。

 ぼくは意を決し目を輝かせて、無邪気を装い、コロシヤに問いかけた。

「あの、」

「ん?」

「観光ですか、こんな田舎に」

 コロシヤが人当たりの良い、町のどこにでも馴染めそうな笑顔で首を横に振る。

「いや、仕事でね。確かにここ田舎だね、きみぐらいの歳だと遊び場がなくて退屈じゃない?」

 そう話を振られて、都会スイシン派のやつらの顔が頭に浮かぶ。ぼくは咄嗟に「いえ」と否定。

「友達はいるから」

「そうか。うん、それは素晴らしいことだよ、大事にしたまえ」

「そう、ですね。それじゃあ、お仕事、がんばってください」

「おぅ、ありがとー。励みになるよ」

 はっはっは、と朗らかに笑ってコロシヤが去っていく。水色のハンカチで顔を拭くのは欠かさないけれど。あれだけ汗だくだと、いい男も帳消しだな。汗くさい男としか思えない。

「……ふ、ふ、ふぃー」

 コロシヤが廊下の奥へ消えていくのを見届けてから、三段階に息を吐く。緊張した。やばいなぁ、明日はアレと戦うのか。勝てるかな、と雲行きの怪しさに苦笑い。今回のは、今までの大人と違って逃げるのではなく、正面から戦わないといけないわけだから。

 つまりこれが、本当の戦いなのかな。

「………………………………………」

 鉄パイプを構える。廊下の壁に向けて振り上げて、ギュッと、握りしめる。

 明日の『敵』を前にしたとき、ぼくたちは本物のヒーローになれるのだろうか。

 振り上げた鉄パイプをゆっくりと振り下ろし、「ちょーっと待った」「っ!」

 血液が、頭上に重ねられたものにすべて吸い上げられたようだった。重力を失って、首の裏にぶつぶつと鳥肌が立つ。肩がかくんかくんと外れて、そのまま腕が廊下にごとんと落ちてしまいそうな脱力感に襲われる。そんなぼくの状況に構わず、その手が、ぐるりと捻られる。

 廊下からいなくなったはずのコロシヤがいつの間にか、まったく気配を感じさせずぼくの背後に立ち、頭に手を載せていた。コロシヤが膝を屈めて中腰となり、ぼくと目線の高さを同じにしてくる。にこりと微笑むコロシヤの額から鼻にかけて、一筋の汗が流れ落ちた。

「な、なに?」

「いやね、ものは相談なんだけど」

 そこで焦らすように言葉をくぎって、鉄パイプを一瞥する。握りしめているのを確かめてか、息を短く吐くようにコロシヤが笑う。額に張りつく前髪が、今は妙に恐ろしい。なぜだ。

 そしてコロシヤはぼくの顔をまじまじと、舐めるように眺め回してから、とんでもないことを提案してきた。とんでもすぎて多分、聞き間違えたんだろうと、最初は思うぐらいに。

 やつの言ったことは、こうだ。



「きみさ、俺の代わりに女の子を殺してみない?」

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