『旅に出る話』【再掲載】

 ※この作品は「入間の間」に過去掲載された小説の再掲載になります。



 その1



「長い旅に出るぞ!」

 ある日、リュックを背負ったヤシロがいきなりそんなことを言い出した。

 休日に浸っていたので、反応が鈍くなる。ぼけーっと眺めていたら、「でるでるでーる」と目の前でステップを踏んでアピールしてきた。仕方なく相手する。

「はーそれはそれは」

「せんべつくれ」

 ささっと小さい手を差し出してくる。餞別ねぇ、ときょろきょろして貰い物のせんべいの箱を渡す。餞別にせんべい。せんべいつ。別に冗談ではない。

「うむ」

 背負っていた小さな鞄にせんべいの箱をごそごそしまう。

「では行くぞ」

「はいはい」

「おひるごはんできたよー」

 廊下に顔を出した娘が呼ぶ。「今行くよー」とにっこり答えてから、足を止めたヤシロを見た。

「行ってらっしゃい」

「食べてから行くか」

 鞄を下ろして、てってってとご機嫌に走っていった。

 ヤシロは今日も人の二倍くらい食べた。この小さな身体のどこに入っているのだろう。

「げぷ」

「ヤチー、はをみがきなさい」

 お姉さんぶる娘に連れられて、ヤシロが歯を磨く。こいつ用の歯ブラシまでなぜかあった。

 そんな二人と並んで歯を磨いていると娘が増えたみたいでぞっとしない。

 で、歯を磨いた後、リュックを背負うこともなく座り込んで、うつらうつらしている。

「うーむ、眠くなってきた……」

 ちょっと寝てから行こう、とこたつに潜ってしまう。そして夕方過ぎまで寝た。

 むく、と日が沈んでやや経ってからようやく起きる。目を擦りながら、のろのろ鞄を背負う。

「では行くか」

「イトコ、晩ご飯できたぞー」

「あいよー……おいそっちの」

 声を聞いたヤシロが背負いかけていた鞄を下ろす。

「食べてから行くか」

「……オチが読めてきた」

 もちろん夜も、人の三倍は食べた。食費以外は一切なにもかからないが、その食費がかかるやつである。変な生き物住まわせているよなぁと思うが、本当に嬉しそうに菓子やらなんやらを食べているのを見ると、追い出すのもなぁと思ってしまう。

 そんなやつが旅に出るとか言ってはいるのだが。

 腹いっぱいになって「うーむ」とかまた座り込んでいる。

「ヤチー、おふろにはいりなさい。あたまあらったげる」

「めんどい」

「ゆるさーぬ」

 娘がヤシロを引きずっていく。娘で持ち運べるって、体重いくつなのだろう。晩飯どこに消えた。

 で、風呂上がりのヤシロは暖まったせいか、乾ききっていない白銀の髪と共にうつらうつらしている。

「眠くなってきた……」

「やっぱり」

「旅は明日からにしよう」

 鞄もそのままに、二階の布団に走っていった。そして、やつは今日一歩も外に出ることなく寝た。

 翌日。

「今日こそ行くぞ!」

「ふーんへーほー」

「というわけでせんべつくれ」

「そろそろ朝飯だよ」

「わー」

 鞄を放って走っていく。

 更に翌日になるともう鞄すら背負っていない。

 餞別詐欺に遭っただけだった。



 その2



 荷物を纏めている間、小学生の頃のあだ名を思い出していた。

 私はスシヤと呼ばれていた。実家が寿司屋だったからだ。

 そのままである。安直につけたクラスメートのせいで、私の本名は大体の友人に必要のないものとなってしまった。発音次第では名字のようにも聞こえるのが、流行った原因かもしれない。つけたやつは近所に住んでいて、わりかしよく遊んだ。悪戯好きなやつで、よく意地悪をされた。好奇心旺盛なところは、私と気があっていたのかもしれない。

 時々、家族に連れられてうちの店に来るのは嫌だった。なにが、なぜかは未だ持って分からないけれど変な気恥ずかしさがあった。向こうもそういうときに私を見かけると反応に困るように、俯きがちに笑うのだった。まぁ、仲はそれなりによかった。

 スシヤというあだ名は大いに不服だったけど。

 そのあだ名は小学五年生のとき、モト・スシヤへと変化した。寿司屋を畳んだからだ。その後は焼き肉屋に変わったけど、あだ名がヤキ・ニクヤに更新されることはなかった。中学生となって卒業するまで、知った顔にはずっとモト・スシヤで通ることになった。

 次のあだ名がなかったのは、あだ名をつけていたやつが死んでしまったからだ。小学六年生の修学旅行の最中に、はしゃいで、階段を踏み外して、転落した。観光地を巡る途中で、確か、しとしと雨が降っていた。落ちたそいつはすぐに死ななかったけど、病院に運ばれてしばらくしてから息を引き取った。見舞いには行かなかったけど、葬式には出席した。

 それなりに仲のいい私は泣かないで、あまり話したこともなさそうなクラスメートの方が泣いていた。もちろん、泣かない男子女子も大勢いた。私は飾られた写真よりも、子を亡くして泣き崩れている両親の方をずっと見ていた。なにかを失うというのは、こういうことなのだ。

 私はこのとき、そのなにかを失ったのだろうか?

 当たり前だけど旅行は途中で中止だった。

 不幸な旅行という印象だけが、参加した生徒とその親に残った。

 そんなことを延々と、丸まったテープの裏と表を追いかけるように思い出していた。

 確認した後、纏めた荷物を抱えるように運んで家を出た。少し表に出てから振り返る。

 実家の焼き肉屋も今は色褪せた、古い建物となっている。モト・ニクヤと呼ばれたことはない。あくまでも、あいつが付けたモト・スシヤで留まっていた。あだ名の話題やそういうものを見かける度、連想する。多分これからも、ふとした拍子に思い出していくのだろうという予感はあった。人はなにかを残すために生きるという。あいつは一つ、確実に残していた。

 私には多分、まだそういうものはない。

 ちゃんと呼吸して、歩いて、生きていなければ、生まれたことさえなかったことになってしまいそうだった。

 色々な事情が重なって、私は旅に出る。それは仕事の事情かもしれないし、個人の動機の決着かもしれないし、新婚旅行かもしれないし、物見遊山かもしれなかった。最近様々なことがありすぎて、どれが自分の身に降りかかったことなのか区別を付けるのも面倒だった。

 とにかくたくさんの理由のために、遠くへ歩き出さなければいけなかった。

 旅に対するイメージは修学旅行のそれで固まり、決して、心の晴れるものではない。

 外の風は旅立ちに相応しくない冷え込みだった。吹かれていると内側というものを連想する。開放的とは到底思えないってことだろう。背を丸めるように縮めながら、のそのそと歩く。

 途中まで歩いたところで、信号待ちでもないのに歩道で立ち止まる。

「………………………………………」

 思い立って方向を変えた。向かう先は町の中央よりも、自然が剥き出しだった。

 田舎の家の庭に突き刺さった、羽根付きペットボトルが軽快に回っている。モグラ対策らしいけど機能している節はない。でも、風流だな、としばらく見上げていた。

 そうして、公園の側にある小さな墓地に辿り着く。本当に小さい、向かい側の床屋と同じくらいだ。側に大きな道路があるので、走り抜けた車の風が強く吹きかかる。髪を押さえながら、奥へ向かった。私にあだ名を付けたやつの眠る墓が見えてきた。

 家が近所だったので、他の子供よりも長く葬式に参加した。あと、仲もまぁまぁよかった。

 けっこうかもしれなかった。

 忘れているだけで、かなりかもしれないのだ。

 墓の前で屈む。添える花は用意していない。管理するような人もいない小さな墓地なので、かえって添えない方がいいのだろう。添えられた花が枯れていくのを見るのは、気持ちのいいものではないと思う。幽霊の都合も、存在も分からないけれど、もしいるのなら墓は家だ。そして墓から身動きが取れないとしたら、花が枯れていくのをずっと見るしかないのだ。

 しかし決して広くない一族の墓にみんなで暮らすのは……賑やかそうだ。

 黙祷する。

 それから、こいつは多分、私の名前を覚えていなかっただろうなと思うと少し笑ってしまった。もし生きていたら、どんな風に私のあだ名は変わっていっただろう。

 そして今の私にはどんなあだ名を付けるだろう。

 少し考えて、なるほどと思った。

 自分が昔失ったものに、ようやく気づく。

 安易なあだ名、安直すぎてなんとなく笑って、どことなく親しむきっかけになる。

 学校の友人たちとの繋がりは、そのあだ名のお陰だった。

 振り返れば、すごく助かっていた。もっとも、付けた本人にそんな深い考えがあったとは思えない。でもそれでいい。出会ったこと自体、深い理由はなく偶然だったのだから。

 いつでも、意図しない善意に助けられているのだ。

 旅に出た先で私は、そういうきっかけを自分で作っていかなければいけない。

 まぁそれは、仕方ないな、と受け入れる。

 これまで楽をさせてもらったのだから、これからは、少し厳しく生きていく。

 そんな当たり前の話だった。

 ありがとうと、聞こえはしないだろうけど言葉を残す。

 最後にもう一度、目を瞑ってから立ち上がる。舗装されていない足もとから、土の乾いた匂いが風に紛れて舞い上がる。風が強まり、耳を覆うように音が増していく。

 けれど歩き出すと、その風が下唇の側を気持ちよく撫でる。

 冷たいままだけど、清新でもある。

 歩いて行けそうだ、と世界に少し遅れて心が晴れた。

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