『もふ』【再掲載】
※この作品は「入間の間」に過去掲載された小説の再掲載になります。
大人になるなんてことの理解が曖昧なまま時だけが過ぎ、いつの間にやら娘までいる所帯を構えるようになっていた。いやまあ、住んでいる家は俺が建てたわけではないので所帯というのが適切な表現ではないかもしれないが……取りあえず、嫁もいるし子供もいる。あと妖怪と自称宇宙人も住み着いている。うむ、よく分からない。分かるのは娘の愛らしさだけだ。
子供ちょうかわいい。かわいいなーと、見守る。
今日みたいに休日だと、ずっと側にいて面倒見てしまう。
くりくりした瞳がじーっと俺を見ていて、うーん、かわいい。それ以外の言葉が浮かばない。
うちの娘は野菜や甘いもの、お菓子は率先して食べるが肉類は嫌がる。両親のどちらにも似ていないが、いっぱい食べて元気に活動しているのでまあ大丈夫かなと考えていた。
野菜と果物ばかり食べているけどめっちゃ元気だった人もいたし。
娘は現在、一歳と三ヶ月。多少よろめくこともあるが歩き回れるようになって行動範囲が広がる。つまり一層目が離せなくなる。今は少し遊び疲れてか、大きめのビーズクッションに埋もれて大人しくしていた。その娘の前に、廊下を通りかかったエリオが寄り道してくる。
「おかーさんですよー」
パッと飛び出して笑顔と両手で花を咲かせる。娘は喜ぶように声をあげた。さすがにまだ喋ることはできない。だがこちらからの言葉はある程度理解できているようだ。
エリオの目が左右に泳ぐ。そしてもっかいポーズ。
「かっこいーおかーさんですよー」
「うちの子に変なこと教えるのはやめなさい」
「変とはなんだー。たとえば将来、あのおかーさんかっこいいねーと友達に言われて、娘がえーそうかなーとか思っちゃって恥ずかしい感じにならないために、今の内に真贋を見極めさせないといけない。エリオさんはそう思うのだった」
「……そ、そうかな……」
「ん」
自信満々に頷かれた。まぁ……娘のことを考えては、いるの、かな?
娘が身体を起こして、エリオに向けて手を伸ばす。
エリオは抱っこでもせがまれていると思ってか、嬉々として屈む。
「なにぎゃー」
娘がエリオの前髪を掴んだ。引っ張って、じぃっと間近で見つめる。
その瞳を覆う輝きは、母の髪の色と同一のものを宿していた。
「引っ張ってはいけません」
だめー、と手のひらを突き出すと娘が真似するように手を出した。あらかわいい。
「きゅああああーかーわーゆーいー」
「え」
頭の脇で女々たん(四十代後半)の声を聞いた気がしたが見当たらない。まあ幻聴か、声だけ送ってきたのだろう。それぐらいはできるので殊更驚かない。一度、人間の枠組みから外して意識するようになれば何事もへーそうなんだーと、心の表面を乾かせる程度の微風になるのだった。
そして娘は言いつけを守るように、引っ張りこそしないが髪を握ったままである。側に来るエリオの髪の先端を、きらきらした目で眺めている。エリオは頭を傾けたままじっとしていたが、やがて助けを求めるように俺を見る。
「離してくれない」
「色が気に入ったんじゃないか」
娘も同じ髪の色だけど。きっと成長したら、目の前の母親のようになるのだろう。
……んー。布団を巻く癖は真似しなくていいかな。
「おかーさんのかっこよさに痺れてるのかな」
「そっすねー」
ぺたぺたと、別の足音が聞こえてきた。音は大人のそれよりずっと小さい。
「む」
頬の丸くなったそいつと目が合う。ヤシロだった。
箱に紛れて隠しておいた、貰い物の草団子の串が右手にあった。見つけてきたのか。探すな。
見かける度になにか食べている気がする。
「小さいのがいるぞ」
ヤシロが娘に近寄る。前にも会ったことがあるので、覚えていたのか、娘がそちらに向く。あっちはあっちで髪が白銀色だから気に入っているのかもしれない。エリオの髪もパッと手放して解放されるが、エリオはすぐに離れない。きょろきょろして、娘の目がヤシロに向いていることを察して、あせあせする。
「お、おかーさんの髪ですよー」
ひらひらー、と束ねて振って娘の気を引こうとする。困っているんじゃなかったのか。
しかも娘の興味はヤシロに移ってしまったらしく、一瞥するだけでほとんど関心を示さない。しばらく振り振りしていたがやがて、担いで携帯する(するな)布団にくるまって壁際に転がった。
「辛いもふ」
「いじけるなよ……」
なかなかめんどくさいお母さんだった。
「うーむ、いつ見ても小さい」
団子を飲みこんだヤシロがまじまじ、不躾なほどに覗き込む。
小さいとはいうが、お前も小さい。……小さい。おかしい、俺と初めて会った頃はそこそこの背があったのに、今や完全に子供のそれまで縮んでいる。幼児ぐらいの背丈に落ち着いていた。服もこの家のものを当たり前に来ているし、前と変わらないのは食事量くらいだった。
女々たんという地球外生命体(予想)の前では霞むが、こいつも十分な異邦人だった。
ヤシロが右に走ると娘が目で追う。左に行っても同じように追う。
てってってとヤシロが走り回ると、なぜか娘は拍手した。友好の意を示しているようだ。
「ふむ」
ヤシロがぷにぷにと娘の頬を突っつく。
「おい気安く突っつくな」
「うるさいやつだ」
ヤシロがすぐに興味を失ったように、自動車の玩具を手に取り、ネジを巻く。床に置くと、自動で走り出す。
ほうほうと、車の玩具を四つん這いで追いかける。そして一緒に仲良く壁にごっつんこした。
こてーんと、ヤシロが仰向けに転がる。
子供が一人増えたかのようだった。
「なにしてんのお前……お?」
娘がクッションから起き上がる。よろめきつつ立ち上がり、そしてだだだだ、とヤシロに続くように壁へ走り出した。
「いやいやいや、きみはぶつかっちゃだめよー」
慌てて娘を抱き上げて止める。すると振り向いて、めー、とばかりに手のひらを突き出してくる。覚えてしまった。抱き上げて軽く揺すると、機嫌が直ったらしくにまーっとする。
にまー。
「ほー、そんな風にすると楽しいのか?」
こうかこう、と側で俺の真似をするようにヤシロが腕を曲げる。
「……お前もやってみるか?」
あまり高くはないけど。
「うーむ」
ヤシロが開いた両手を交互に眺める。赤子のように未熟な指先だ。
「ちょっと待て。少し大きくなってくる」
普通に生きていてまず聞く機会のない『待て』だった。
てててと廊下に走っていく。そして物陰に潜むこと数秒。
でででと戻ってきたヤシロはあわや部屋の入り口で頭を打つような巨漢になっていた。
「おい加減しろ」
伸びた餅みたいな体型になっているぞ。ひょいっと娘を軽々抱き上げる。
ぐわーっと、娘があっという間に天に昇っていった。
「ははは、たかいたかーい」
「高すぎるだろ……」
二メートルはあるんじゃないかこいつ。しかも頭の大きさや胴の長さに変化がなくて足だけ異様に成長しているのでバランスが悪いなんてものではない。そんな不安定な体型で娘を抱き上げたままぐるぐる回るので、見ているこっちがはらはらする。もしヤシロの腕から娘が落ちても受け止められるように、一緒にぐるぐると回るしかなかった。
そんなお父さんの心配とは無縁に、うちの娘は未知の高さを体験して大はしゃぎだった。わっきゃきゃと要領を得ない喜びの声をあげて、満面の笑顔だ。
どんな好物を口にするよりも、その喜びが勝る。
「……高いところ、好きなんだな」
そんなところまで母親にそっくりだ。
いつか母親の見た星の夢を、この子が引き継ぐのかもしれない。
単なる親ばかだろうけど、そんな予感がした。
それはさておき、自称とはいえ宇宙人にあやされる娘というのも、なかなかいないだろう。
ヤシロも満更ではないようで、こうして時々娘の相手をしている。
意外と面倒見はいい。普段はこの家に居着いて世話されっぱなしだが。
「ふー疲れた」
へなへなと畳むように萎んだヤシロから娘を譲り受ける。抱き上げると、えへぇっと娘が先程までとはまた異なるように微笑んでくれた。
お父さんもとろけそう。
「おいマコト」
「ん?」
「おやつはまだか?」
がんばっただろほらとばかりに、伸びた足をばたばた揺らす。
「……その手にあるのはなんだ」
「これは隠しアイテムだ。拾ったので装備した」
わけの分からないことを言いながら残った団子をもちゃもちゃ頬張る。
娘までお菓子を要求するようにあーあー言って、にょいんと反る。うちの娘が催促するときの癖らしく、後ろに身体を大きく反るのだ。所構わず反るので、棚に頭をぶつけそうになることもあって少し困る。怖いほど反り返って、身体の柔らかさには何度見ても驚かされる。
若いっていいなぁを通り越した、生命の瑞々しさがあった。
「おーやー、つー」
「はいはい……はい」
ヤシロは目を離した隙にまた元通りに縮んでいた。自由すぎる。
「……なんとも、まぁ」
しがらみが一切なくて(勿論よくない)、羨ましいことだ。
背が伸びるにつれて、選択を縛るものは増えていった。
だからだろう、時々、重力を忘れて生きたいと思ってしまう。
「………………………………………でも、まぁ」
横になった娘に合わせて沈むビーズクッションを眺めていると、重くあるのも案外、悪くないと思うのだった。
「もふ」
「……まだ転がってたの?」
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