『んっ』【再掲載】

 ※この作品は「入間の間」に過去掲載された小説の再掲載になります。



 夢の中で意識がはっきりしているというのも奇妙な話なのだが、今の自分には地面に立っている感覚があり、背を伸ばしている確かな感触があり、そして夢だった。

 町は水色の色彩に包まれていた。建物、道路、空。境界なく水色に染まり、そして剥がれるように失われていく。波のように引いては寄せて、その度に俺の手足も同じ色に移ろう。指を動かすとその色に触る、感触めいたものがあった。しかし手のひらに引き寄せようとしても、それはつかみ所なく遠くへと消え去ってしまう。

 見慣れない色合いの中、町の景色には郷愁めいたものを覚える。建物が森の木々のように生えたそこには見覚えがあった。ただし、その住民に対しては覚えなんてものじゃない。

 町を歩くのはスマキンだった。スマキンとは上半身に布団を巻き付けた謎の生き物、或いは妖怪的な存在である。露骨に異質なそれが右に左にと溢れかえっている。これが夢でないなら人類は三日で滅亡する。いつの間にこんなに増えたのだろう。

 げっそりした感覚を味わっていると、その中の一人がぺたぺたと近寄ってきた。例外なく全員、素足である。布団から二本の生足が生えているのである。そして布団の上側の隙間からは、水色の髪の毛がはみ出ていた。他のと見分けのつかないスマキンが目の前に立つ。

 布団を介しての声は、その遮りをなかったことにするように鮮明だった。

「ようこそ、スマッキン・スターへ」

「はぁ」

 未知のエネルギーに一刀両断されそうな名前である。

「わたくし、町の案内役を仰せつかったスマキンでございます」

 よろしく、とぐねぐね身体を捻る。声こそ誰かさんそのままだが、口調は丁寧だ。

 違和感が酷い。

「案内役さんですか。じゃあ早速伺いますが、どっちに行くと現実に帰れますかね」

 中途半端に目覚めてしまうかもしれないが、その方がマシだろう。

「夢もまた、あなたの現実の一部。あなたはいつもそこにしかいないのですから、どこにも帰ることはできませんし、その必要もないのです」

 スマキンが見た目の柔さに反してきっぱりと否定する。

 哲学的なのはいいが、微妙に受け答えをごまかしているように感じるのは気のせいか。

 スマキンは続けた。

「ここはあなたの心の中にある国」

「許可なく建てるな」

 いつの間にこんな無法地帯をこさえたというのか。

「そもそもこれ絶対俺の心じゃないよ」

 多分今、隣の部屋で寝ている人の心象風景だと思う。

 しかしスマキンは再び、俺の言い分を否定した。

「いえここはたしかにあなたの心にある場所なのです」

「……いやに自信あるじゃないか」

 現実のスマキンも布団を巻くと強気になるけど。

「この姿をわたしたちは見ることができません。外の視線、外の在り方。わたしたちの外を構成する大きなものがあなたなのです。故にこの姿を取る者はその精神の中にスマキンがいるはずもないのです。なにしろ布団の内側は暗黒、自らの姿もまた見えるはずがないのです。己の心の中に自分は在らず。自らを形作るのは人の注目あってこそ。心の中にある国スマッキン・スターはそうして必然の中に生まれた、あなたの国と言えるのです」

「………………………………………」

 俺も少し擦れた大人になったのか、疑う気持ちというものが先行してしまう。

 まじめに聞いたことがムダでないと思いたいので、試してみた。

「今のもう一回言ってみて」

 スマキンが硬直する。俺との間に沈黙が生まれて、奇妙な威圧感を醸す。

 そして無視された。くるりと反転して背中を向けてくる。

「ついてきてください、王の元へご案内しましょう」

「スマキンの王ってあれか、スマキングだろ。ちょっとがんばってもクイーンエリーとかだ」

「こちらです」

 続けて無視されて、少しやるせなかった。この手応えのなさ、懐かしくすらある。

 初期のスマキンの中身は本当に意思疎通が取れなかったものだ。

 夢の世界の歩き方や勝手も分からないので、その後ろにくっついていく。ひたひた、ぺたぺたと足音が重なる。見れば俺も裸足だった。着ているのも寝間着なので、現実を反映しているのだろう。そういうところは自分で言うのもなんだが細かい性格が出ていると思う。

 裸足で町を歩くのは落ち着かない。足の裏がアスファルトに滑るようだった。

「俺、その王様に会わないとダメなのか?」

「王に会うご名誉を捨てる理由がないでしょう」

 毎日顔を合わせている気がするのだが。

 車道を駆けていく路線バスの中にはスマキンがぎゅう詰めとなっている。床から生えているかのようだ。他の人に見られたら俺の精神状態を疑われそうである。運転席に座るのも当然、スマキン。すれ違いざまでの確認だったが運転している気配もないので安心した。あれでは操作する方が怖い。どうやって動いているとかそういう整合性は気にしないことにした。

 そうして景色を眺めて歩いている間も、町や足下を水色が吹き抜けていく。頭の上に水色の星でも浮かんでいるのかと見上げても、曖昧な彩色の空が広がるばかりだ。雲も白ではなく、薄い水色を保っている。見つめていると昼夜という概念が想像できない。

「あ、そうそう」

 スマキンがくねっと振り向く。その仕草に応じて水色の粒が揺れたように見えた。

「ご昼食は太巻きとロールケーキのどちらがよろしいですか」 夢の中で意識がはっきりしているというのも奇妙な話なのだが、今の自分には地面に立っている感覚があり、背を伸ばしている確かな感触があり、そして夢だった。

 町は水色の色彩に包まれていた。建物、道路、空。境界なく水色に染まり、そして剥がれるように失われていく。波のように引いては寄せて、その度に俺の手足も同じ色に移ろう。指を動かすとその色に触る、感触めいたものがあった。しかし手のひらに引き寄せようとしても、それはつかみ所なく遠くへと消え去ってしまう。

 見慣れない色合いの中、町の景色には郷愁めいたものを覚える。建物が森の木々のように生えたそこには見覚えがあった。ただし、その住民に対しては覚えなんてものじゃない。

 町を歩くのはスマキンだった。スマキンとは上半身に布団を巻き付けた謎の生き物、或いは妖怪的な存在である。露骨に異質なそれが右に左にと溢れかえっている。これが夢でないなら人類は三日で滅亡する。いつの間にこんなに増えたのだろう。

 げっそりした感覚を味わっていると、その中の一人がぺたぺたと近寄ってきた。例外なく全員、素足である。布団から二本の生足が生えているのである。そして布団の上側の隙間からは、水色の髪の毛がはみ出ていた。他のと見分けのつかないスマキンが目の前に立つ。

 布団を介しての声は、その遮りをなかったことにするように鮮明だった。

「ようこそ、スマッキン・スターへ」

「はぁ」

 未知のエネルギーに一刀両断されそうな名前である。

「わたくし、町の案内役を仰せつかったスマキンでございます」

 よろしく、とぐねぐね身体を捻る。声こそ誰かさんそのままだが、口調は丁寧だ。

 違和感が酷い。

「案内役さんですか。じゃあ早速伺いますが、どっちに行くと現実に帰れますかね」

 中途半端に目覚めてしまうかもしれないが、その方がマシだろう。

「夢もまた、あなたの現実の一部。あなたはいつもそこにしかいないのですから、どこにも帰ることはできませんし、その必要もないのです」

 スマキンが見た目の柔さに反してきっぱりと否定する。

 哲学的なのはいいが、微妙に受け答えをごまかしているように感じるのは気のせいか。

 スマキンは続けた。

「ここはあなたの心の中にある国」

「許可なく建てるな」

 いつの間にこんな無法地帯をこさえたというのか。

「そもそもこれ絶対俺の心じゃないよ」

 多分今、隣の部屋で寝ている人の心象風景だと思う。

 しかしスマキンは再び、俺の言い分を否定した。

「いえここはたしかにあなたの心にある場所なのです」

「……いやに自信あるじゃないか」

 現実のスマキンも布団を巻くと強気になるけど。

「この姿をわたしたちは見ることができません。外の視線、外の在り方。わたしたちの外を構成する大きなものがあなたなのです。故にこの姿を取る者はその精神の中にスマキンがいるはずもないのです。なにしろ布団の内側は暗黒、自らの姿もまた見えるはずがないのです。己の心の中に自分は在らず。自らを形作るのは人の注目あってこそ。心の中にある国スマッキン・スターはそうして必然の中に生まれた、あなたの国と言えるのです」

「………………………………………」

 俺も少し擦れた大人になったのか、疑う気持ちというものが先行してしまう。

 まじめに聞いたことがムダでないと思いたいので、試してみた。

「今のもう一回言ってみて」

 スマキンが硬直する。俺との間に沈黙が生まれて、奇妙な威圧感を醸す。

 そして無視された。くるりと反転して背中を向けてくる。

「ついてきてください、王の元へご案内しましょう」

「スマキンの王ってあれか、スマキングだろ。ちょっとがんばってもクイーンエリーとかだ」

「こちらです」

 続けて無視されて、少しやるせなかった。この手応えのなさ、懐かしくすらある。

 初期のスマキンの中身は本当に意思疎通が取れなかったものだ。

 夢の世界の歩き方や勝手も分からないので、その後ろにくっついていく。ひたひた、ぺたぺたと足音が重なる。見れば俺も裸足だった。着ているのも寝間着なので、現実を反映しているのだろう。そういうところは自分で言うのもなんだが細かい性格が出ていると思う。

 裸足で町を歩くのは落ち着かない。足の裏がアスファルトに滑るようだった。

「俺、その王様に会わないとダメなのか?」

「王に会うご名誉を捨てる理由がないでしょう」

 毎日顔を合わせている気がするのだが。

 車道を駆けていく路線バスの中にはスマキンがぎゅう詰めとなっている。床から生えているかのようだ。他の人に見られたら俺の精神状態を疑われそうである。運転席に座るのも当然、スマキン。すれ違いざまでの確認だったが運転している気配もないので安心した。あれでは操作する方が怖い。どうやって動いているとかそういう整合性は気にしないことにした。

 そうして景色を眺めて歩いている間も、町や足下を水色が吹き抜けていく。頭の上に水色の星でも浮かんでいるのかと見上げても、曖昧な彩色の空が広がるばかりだ。雲も白ではなく、薄い水色を保っている。見つめていると昼夜という概念が想像できない。

「あ、そうそう」

 スマキンがくねっと振り向く。その仕草に応じて水色の粒が揺れたように見えた。

「ご昼食は太巻きとロールケーキのどちらがよろしいですか」

「和食と洋食ぐらいの感覚で聞く組み合わせじゃないと思う」

 スマキンの町なら常食はピザじゃないのか。少し見回すと、蔓の生い茂った店の中でスマキンたちがピザを囲んでいるのを見つけた。放り投げて布団の上側から取り込むという懐かしくも気味の悪い食べ方を全員が実践している。巻いた布団は渦を巻き、そこへとピザが呑まれていくようだ。

「ピザあるじゃん」

「あれはわたしたちのご飯で、お客様用ではありません」

 俺はお客様なのか。……あれ?

「ここって俺の心の世界なんだろ?」

「そのとおりです」

 それならお客様扱いどころか、俺こそ王じゃないのか。なりたくないけど。

 スマキンがどうやって建てたのか分からない、古臭い匂いのするビルの前を通り道路を進んで、町の郊外までやってくる。そこにある四角い大きな建物を足で指して、「こちらです」とスマキンが示した。

 外見は少し潰れかけたホールケーキのようだが、中は現代建築にそぐわない洋風の城の作りとなっている。水色にやや緑色が混じった床と壁、そして赤い絨毯の先には王の間があった。

 真っ直ぐ進んだだけで辿り着く単純な構造である。

 玉座ではなくボールチェアに腰かけるスマキンが正面にいる。その脇も大臣だかお付きの人らしきスマキンが固めていた。ただボールチェアに座るスマキンは他と布団の柄が異なる。

 見慣れた菖蒲柄の布団を巻いているのは恐らくその王様だけだった。

「よくぞ我が国に来たもふ、イト……知らない人」

 王様があっさり正体を明かしそうになったが、不自然に言い直した。

 旅の人とか客人とか、もう少し他に言い方はなかったのか。

「わたしがこの国を治める王」

「滅亡まで秒読みですね」

 床に届いていない右足がぴこぴこ動く。

「すまきんぐもふ」

 そのままだった。ふふふ、と案内役のスマキンが前に出てくる。

「あの語尾こそ王たる証。王だけが持ち得る言葉なのです」

「そりゃよかったな」

 みんなもふもふ言っていたら王様とその他の区別がつかないし。

「というかエリオじゃん」

「みだりに名前を呼んではいけないもふ」

 もふー、と王様が憤った。多分。後ろのお付きもつま先立ちになって胸を張る。

 エリオであることは否定しないらしい。

 王様になったエリオ。本当にこれは俺の夢か? 本人の願望丸出しじゃないか。

「して、この国に何用もふ」

「用があって来たわけじゃない。気づいたらここにいたんだ」

 望んだ夢なんか見たためしもない。俺は夢の世界の地図を持っていなかった。

 もーふー、とスマキンが二度頷く。ふむふむと言っているのだろうか。

 右足がぴこぴこ所在なく揺れる。

「いつもどおり探し物のようもふ」

「いつもの?」

 以前にこんな夢を見た覚えはない。夢を全部把握できるはずもない、と言えばそれまでだが。

「イトコがここへ迷い込むときはいつも、忘れ物を探すときもふ」

「……ふぅん」

 外の世界での探し物。ここ数日悩んでいることもあり、心当たりを見つけるのは容易だった。

 しかし、こんなところに俺の探しているものがあるとは思いがたい。

 そして正体も隠さなくなったので、あっさりとイトコ扱いである。

「そんなイトコに道を指し示すのも王の役目もふ」

「はぁ」

 前方の視界も開けていないやつに道を教えて貰ってもなぁ。

 すまきんぐはこちらの困惑もなんのそのと胸を張り、偉ぶる態度を保持しながら。

「町を巡り、八つの音を集めてくるのだもふ」

「どこかで聞いたことある展開だが、町の中だけで済むのか……」

 身近な冒険であり、散歩ともいう。この町の外に世界が広がっているのかも分からないから、そうなってしまうのではないだろうか。

「でも面倒だったら三つぐらいでもいいもふ」

「いい加減な道だなおい」

「大事なのは音を八つ集めるのではなく、その音がなにかに気づくこともふ」

 いいことを言った、と言いたげな雰囲気を布団の向こうから感じる。

 反応待ちなのかジッとして動かない。お付きの連中からも無言の圧力を感じた。

「……含蓄のあるお言葉ですね」

「ん、そーだろそーだろー」

 すまきんぐが足を揺らして喜ぶ。現実にいるやつと反応がまったく一緒だった。

 お付きの連中もわーきゃー言って踊る。きっと中身は全部エリオなのだろう。

「……しかし、音……音?」

 不思議な音を集めてなにが変わるとも思えない。

 とはいえ目的があるわけでもないので、拒否する理由がなかった。

「観光でもしてくるつもりで、少しうろついてくるよ」

 夢の中をはっきりとした意識で認識するのは珍しい。なにもせず起きるのも勿体なかった。

 うむ、とすまきんぐが縦にぐんにょり曲がる。

「さぁ行くのだ、夢から覚める前に。……もふ」

 語尾を付け忘れたようで一拍遅れた。ごまかすようにもふもふと続く。

「分かった分かった。ところで王様、質問していいですか」

「申せもふ」

 偉そう。

「昨日のお昼ご飯は?」

「おにぎり。お母さんが握ったお弁当をおばあちゃんと食べたもふ」

「ほぅ」

「具はわたしの好きな梅ぼしだったもふ」

 喜びを表現するようにバタ足する。ほぅほぅなるほど。

「エリオじゃん」

 王様がしばらく固まる。脇のスマキンたちがぐねぐねと心配そうに身を捻る。

「早く行けもふ」

 右足がぴこぴこ動いた。こんな威厳のない王様、飾りにもならない気がする。

 しかしいっぱいいる付き人がまだわーわー言っているので、慕われてはいるようだ。

 俺はなにを期待してこんな国を作ったのだろう。

「………………………………………」

 エリオのために国を作った、とか。作るって気持ちなら分からなくもなかった。

 が、これちょっと違う。これスマキンの国。

 王の間から引き返すと、ここまで道案内してきたスマキンも一緒に城から出た。

「では引き続いて案内を務めさせていただきます」

「よろしく」

 スマキンとの道中も慣れてきた。慣れたもなにも、いつもと変わらないし。

 町は変わらず、時々本来の色を見失う。水色が埋め尽くす度、町は別の風景を描くようだ。眺めていると町の染まる音を幻聴として聞く。それは布が静かに降りかかるような、小さく不確かなものだった。

 ぺったぺったという足音に反応して、目を下ろす。スマキンの足があった。

 見慣れているその膝裏をまじまじ眺めて、ふと気になって尋ねる。

「これ、どこに行ってるんだ?」

 音探しを命じられたけど、地図もヒントもなかった。

「足のおもむくままです」

 そんな格好つけた言い方しても、適当に歩いていることに変わりはない。

「案内役が機能していないな」

「案内もなにも」

 スマキンが振り向く。前後が分かりづらいけど、多分俺に向く。

「ここはあなたの心の中。あなたが知らない場所はありませんよ」

「……まじめに返すと、自分の心だからってなにもかも分かるわけじゃないぞ」

 そんな風にできているなら、人間って誰とも話さずに生きていけると思う。

 だって人間って自分が一番好きだから。その自分を余すところなく理解できたなら、人は他人を必要としなくなると思う。広がらないけれど、傷つきもしない。そういう風に完結する。

 それは孤高と呼ばれるものだ。寂しくも気高い。が、俺はそんなものになりたくない。

 俺には周りにたくさんの人が必要だった。少し大人になって、切に感じる。

「いえ知ってはいるのです。忘れているか、見ないフリをするだけです」

「ふぅん?」

「心に領域はありません。であるなら、なにかを捨てる意味もないのです」

 発言が哲学的なスマキンだ。これも俺の持つスマキンへのイメージの一部……のわけがない。

 多分、エリオが『こういうのに憧れていそう』という格好つけを俺が想像することで生まれた、二度手間なスマキンなのだろう。その少し遠回りなスマキンの布団が揺れる。

 現実のあいつより少々背丈が低いのは、生まれたときにでも関係しているのだろうか。

 そうして疲れと行き先を知らないまま歩いていると、この町で初めて布団を巻いていない人を見つけた。……いや本当、どこにでも現れるのな。呆れるが、女々たんがいた。

 歩道を真っ直ぐ進んだ先にいて、こちらには気づいていないようだった。

「おぉ、あれは王の中の王」

 女々たんの背中を見て、スマキンが背伸びするようにつま先立ちとなる。

 そういう分かるようでいまいち判然としない位置づけなのか。

 あの人の兄こと俺の親父が『あいつが妖怪だと俺もそうなるからなぁ』と壁に向かって呟きながら懊悩としているのを見たことがある。今はその姿を俺も背負うかのようだ。

 自然に女々たんとか表現するあたり寝ている間に脳を弄くられたのではと心配な昨今だが、その女々たんをスマキンが追っているようなので、俺も続く。歩いている最中もハンドバッグを振り回して落ち着きがまったくない。たまに立ち止まってエアギターのように腕を動かし、「うぉーうぉーう」とか軽く頭おかしくなるのはいつものことだった。だけどそのいつもの姿にも、ほんの少しの差異があった。それは背中側を見ているだけでも感じながら、具体的にあげることができない。

 そうしてビルが乱立する繁華街のような場所を歩いていたはずなのに、気づくと住宅街が左手側に広がっていた。見ない間に入れ替わるようだった。女々たんに連れられたのだろうか。その立ち並ぶ家の一つへ女々たんが入っていく。家も、周辺の風景にも、見覚えがあった。

 今まで見知らぬ町だったのに。急に現実がやってきて、でもそこもまた、水色に染まる。

 しばらく、道路の真ん中に立って家の屋根を見上げていた。

 女々たんの姿が見えなくなってから、スマキンが尋ねてくる。

「入ってみますか?」

「ん、あぁ……そうしようか」

 スマキンに促されて、家の門をくぐる。玄関の扉を開くのに許可はいらないはずだ。

 だってここは、俺の家だ。実家なのだ。舗装された白い地面と、家屋の左奥に長細く続く緑色のガレージ、洗濯物を干すための空間。家の入り口はやや右側に扉を構えて、違うのはそのあたりに停車させている俺の自転車が見当たらないことだった。

 家の塀代わりに並列して植えてある植物もまだかわいらしいもので、それがなにを意味するのか朧気に理解しながら家の廊下へ上がる。出迎えてくれる人はいない。廊下の奥から親父が出てきて、それが若くて今の俺に似ていて驚いたけど、こちらが見えていないように通りすぎていく。無視されたわけでないとするなら、本当に見えていないのだろう。

 そこまで来れば自分の立場を察する。

 俺はきっと、この記憶の傍観者なのだ。

 靴も履いていないのでそのまま上がって右手の部屋を覗くと親父に母親、そして女々たんも揃って小さなベッドを覗き込んでいる。柵のついたベッドには、赤子が転がっていた。

 ……若干、M字のハゲだった。思わず自分の頭を触る。

 寝転んで大人に囲まれている赤子の顔には、まったく覚えがなかった。

 そりゃあそうだ。自分の顔なんて、意識する年齢じゃないのだから。

「呼ばれてもいないのになんで来たんだ」

 自分のことを言われているのかとどきりとしたが、親父が話している相手は女々たんだった。

「呼ばれてないから来たのに」

 うふふ、と女々たんがあどけなさを意識して微笑む。親父が諦めるように俯いた。

 親父や母親はともかく、女々たんも若々しい。なぜだろう。

 記憶の中の再現であるのなら、女々たんの若い頃を知っている道理はないはずだが。

「いつもより、自然に若いな」

 人の夢の中に入り込んで好き勝手しているのか。以前にもそんなことがあったので(おかしい)訝しんでいると、スマキンが「そりゃそうでしょう」と答えてくれた。

「あれはあなたの記憶にある昔の女々たんですから」

「……俺の?」

「あなたは一歳の頃、女々たんと会っているのです。しっかり覚えていたのですね」

 うむうむ、とスマキンが納得したように身体を捻る。

 女々たんの背中、そしてベッドの中の赤子を見つめて、理解したものを呟く。

「やっぱりこれは、俺の昔の記憶なのか」

「そういうことになりますね」

 スマキンが頷く。この俺が一歳前後とするなら、その頃に見たものをここまで鮮明に覚えていたのだろうか。当時から目はあるし、頭も働いているし、無理ではないのだろうけど。

 俯いて考えて、気づくとスマキンが隣からいなくなっていた。

「まことちゅわーん、べるべろびびぶぁー」

 舌が這い回るのではと思うほど顔を近づけて、女々たんが赤子を怖がらせる。本人としてはべろべろばーしているつもりのようだが、これではベロベロババ以下略。赤子がびくりと硬直する。固まったまま、正面を覆う変な人を見つめていた。明らかに怯えている。

 こりゃあ、記憶の底に染みつくはずである。

 親父が女々たんの首根っこを掴んで「教育に悪い」と隣の部屋に引きずっていく。赤子は泣きこそしないが、露骨に安堵していた。俺も同じ気持ちだ。

 遠くで音が鳴る。家の裏手あたりからの音だ。それを聞いて、親父に「見ていてね」と言い残して母親が走っていく。それを受けて動こうとするが、「見てるー」「なんでお前の面倒まで見ないといけないんだ!」女々たんの前進を防ごうと親父が躍起になって壁を作る。

 がんばれ親父、と密やかに応援してしまった。

 などとやっている間に独りにされて心細くなったのか、赤ん坊が泣き出す。

 女々たんより独りぼっちの方に怯えるなんて、なんだか、見ていてむず痒い。

 泣き声を聞きつけて、洗濯物を抱えた母親が「あぁごめんねごめんね」と駆けてくる。「幼子が女々たんを呼んでいる、求めている!」と妖怪が都合よく解釈して後ろに続こうとして「違うそうじゃない」と親父が阻止するために立ちはだかる。そうして取っ組み合っていると、うるせぇ二人ともあっち行けと母親に尻を蹴られていた。見ていて、顔を覆いたくなる。

「おにいたんのせいで追い出されちゃった」

 足を伸ばして座り込む女々たんが唇を尖らせて頬をぷくーと膨れさせる。

 親父が凄くなにか言いたそうにのど仏のあたりを震わせたが、眉間に指をくっつけて堪えた。

「いいな、お前はそこにいろ。真が落ち着くまで来るな」

 飼い犬にでも命じるように、女々たんの額を押さえながら親父が言う。

「にゅるん」「すり抜けるな!」その手を蛇のように身をくねらせてすり抜ける女々たんを、必死になって親父が止める。本物の蛇の如く妨害の手を避ける女々たんの「ふほほ」という笑い声が部屋内を自由に飛び交い、先に息が上がって膝に手をつくのは親父の方だった。

 息を乱しながら、親父が妹に悪態を吐く。

「お前にも柵つきのベッドをくれてやりたいよ」

「赤ん坊の内から色んな人と触れあわせないと人見知りの子になっちゃうわよ」

「世の中知らない方がいいものもある」

 それには同意だった。「女々にゃんの美しさね」無視して親父は部屋に戻った。

 対応が未来の俺とほとんど同じで、それが逆に女々たんが俺をからかう理由になるのだろうなぁと察するものがあった。

 一人残された女々たんが、正確には俺もいるのだが「びゅーん」とやる気なく泣き真似する。

 当然、こっちには誰も来ない。むしろ親父にシッシと手で払われる。

 踵を床にどこどこ打ちつけた後、突如、女々たんが振り向いてぎょろんとこちらを凝視してくる。

 え、なんで。知らぬ存ぜぬじゃないのか、と驚いていると普通に声をかけられてしまった。

「マコ君にもかわいい時代があったのよ!」

「あの、」

「おぉっと、今のわたちはこっちのマコ君を知らない設定だった!」

 ミステイク、と自分の額を叩く。

「……今更だけど、もうなんでもありですね」

 この人だけ舞台の外で大暴れしているかのようだ。

 本当の地球外生物って、こういうものを指すのかもしれない。

「わたちゅー」

 言い直さなくていいです。むちゅーる、と唇をすぼめる。そのままじりじり近寄ってくるので、ずりずり後退した。思い出の存在なのに自由に動きすぎだろう、この人。

 それからむちゅーるに飽きたのか、女々たんが咳払いをした後に俺を指差す。

「やり直すと、誰じゃお前はー!」

 見えるところに変更はないらしい。これ付き合ってとぼけないとダメなのかな。

「さては未来のマコ君ね! なぜこんなところにいるのだー!」

「……あの、面倒なんですけど」

「わたちゅも飽きちゃった」

 ちゅーる、と唇をすぼめる。当時の癖なのだろうか。女々たんが俺をまじまじと見る。

「な、なんですか」

 食べる気か、と身構えると。微笑まれて、ぐわっと仰け反りそうになる。

 しかし続く発言は案外と普通なものだった。

「今はあんなに小さなマコ君が、こんなに大きくなるのね」

 女々たんが手を伸ばしてくる。ビクッとしたけど、前髪を撫でるだけだった。

「人間って不思議ねぇ」

 俺はあなたが不思議です。お互い、意味は異なれどもにっこりとする。

「うちの小さなかわいいエリオもこんな風に育つのね。あぁ、今から楽しみだわ」

 女々たん、もとい女々さんが心からの笑顔を浮かべて、ここにいない娘の未来を祝福する。

 その笑顔、態度。どれを取っても俺の知る、この人の母親の面であって安心すると同時に胸に爽やかなものが吹き込まれるようでもあった。けどその一方で気がかりもある。

 その娘にいずれ待ち受ける災難を知っているのだろうか。俺は教えるべきだろうか。

 ここで言ったところでどうにもならないのだろうけど、暗いものが夜を広げるように覆う。

 そんな俺の様子をどう捉えたのか、女々さん、もとい女々たんが顔を近づける。

 ぐ、年齢的には今の俺と差がないからか。不覚にも見惚れかけた。

 こう見ると、エリオに目もとが瓜二つなのだ。髪の色があまりに違うので印象薄いが。

「むちゅーる」

「それはもういい」

 その吸引するような唇に萎えた。

「あっちのマコ君にしてこよーっ」

「おいコラやめて」

 止める間もなく俺の寝ている部屋へと駆けていった。「んが!」と親父が赤子の方から女々たんへと振り向いて再び小競り合いを起こす。しかしむちゅーる女々たんには腰が引けていた。

 そうやって親父と女々たんが遊んでいる向こうに、母親がいた。

 その腕の中で安らいでいる俺を見て、目が震える。

 ぐずる俺が母親に抱かれて、あやされていた。

 時折、水色の風が吹くように世界が染まる中で、淡い光と共にその風景があった。

 母親は、俺が滅多に見ることのない顔をしていた。柔らかく、角がなく。

 純粋に微笑んで、慈しんで。俺を抱いて支えてくれていた。

 俺が知る母親は、そういう顔を人前にさらす性格ではない。

 いつも陽気に笑っている印象が強く、その慈愛に直接触れるような機会はまずなくて。

 だから、ここにある母親の表情は他所の時代からの借り物ではない。

 覚えていたのだ。

 自分がどんな風に抱かれて、どんな言葉をかけられていたのか。

 その仕草、優しさ、揺れる心地よさ。

 ここにあるということはすべて、覚えていたのだろう。

 感覚がどこかしら曖昧になりそうな中、胸が明確に温かくなる。胸の奥に生温い液体が染みこんでは流れ落ちていく感触に肌が震えた。喉が鳴る。気を抜くと目が白みそうで。

 これから先、なにがあっても『生きていていいんだ』と思うのに十分な祝福があった。

 自分の微かな泣き声と、母親の優しい声。いつまでも、忘れたくないと願った。

 その音を自分の奥にしまい込みながら、部屋を離れる。ここにいつまでも俺がいてはいけない。そうした空気を感じ取ってか親父と遊んでいる女々さんが振り向いて、見送ってくれた。

「また後でねー」

 随分と遠い後での再会を願って手を振る女々さんに、苦笑しながらも振り返しておいた。

 家を出て少ししてから振り向くと、建物は消えていた。思い出は輪郭を失い、空に蒸発するように溶けてしまった。でも女々たんは呼んだらどこからともなく出てきそうだ。

 代わりにまた、どこからか現れたスマキンが横に並ぶ。気を遣ったのだろうか。

「たくさんの音を手に入れたようですね」

 スマキンが言う。見ていないのに分かるものなのか。まぁ夢だからな。

「ん、まぁ」

「むちゅーる」

 そんな音は組み込みたくない。そもそもあれ、記憶にない音だぞ絶対。

 歩き出すと住宅街の風景は蜃気楼のように失われて、また繁華街に戻る。スマキンを載せたタクシーが走り抜けていくし、スマキンぎゅう詰めの電車も遠くで出発していることだろう。

 それと町にはやたらにカフェが多い。雨降りを想定していないように屋外の席が多く、どこもスマキンで賑わっていた。若干暑苦しい感じもする。皆、マルゲリータだのクワトロフォルマッジだの思い思いのピザを注文しては囲んでいる。

 最近は注文しなくなったがやはり、俺の中でスマキンといえばピザなのだろう。白い豆腐めいた建物の表には世界選手権四位と看板が書かれていた。世界って、どこまでのことを指すんだ?

「そろそろお昼ご飯にしましょう」

 その店の前でスマキンが足を止めて提案してくる。ちょいちょいと足の指がカフェを指す。

「今、昼なのか?」

「いえべつに。わたしがお昼好きなだけです」

 表の席に店へ一声もかけないで座る。いいのかと思いつつ向かい側に腰かけた。すると途端、店の中からスマキンが出てきた。布団の上から出た短い手にはピザの載った皿がある。そのまま特に挨拶もなくピザをテーブルに置いて去って行った。

 夢の国では焼き上がりの時間などというものがないようだ。少し羨ましい。

「夢の中で飯を食うのもいい経験か……な……っておい」

 俺が手を伸ばすと、スマキンがすすっと皿を引っ込める。ちなみに皿に触れてもいない。

「なんだよ」

「先程も言いましたがお客様にはピザを出せないことになっています」

「単にスマキンで食事を独占したいだけじゃないのか?」

「お客様には太巻きかロールケーキを用意するのが習わしなのですが」

 そういえば、どっちか指定しただろうか。

「あなたはどっちも選ばなかったので、ロールケーキを海苔で巻いてみました」

「率直に言わせてもらうが、なに考えてんだお前」

 はい、とスマキンが本当に真っ黒なロールケーキを差し出してくる。受け取りたくない。でもスマキンが腕を上から突き出したまま動かないので、やむなく手に取った。表面のざらついた手触りから、本物の海苔が使われていることを悟る。持っていると案外、ずっしりした。

「なんとこれは王手ずから巻いたのですよ」

「そりゃあ名誉なことだが、王様の行動になにか疑問はないのか」

「すばらしい!」

 やはり理性的であろうとも中身はスマキンだった。

 しかしすまきんぐには手がまったく見えなかったが、どう巻いたのだろう。

 そしてエリオの料理ということで、納得するものがあった。

 真っ黒いロールケーキというのもあまり見かけない。イメージに反するからだろうか。

 なにはともあれかじりついてみる。夢の中だから味などないだろうと半ば舐めていた。

「お口にあいますか?」

「……パリッとしてる」

「それはよかった」

 よくねぇよ。

 その後海苔がしっとりした生地によってふやけて張りつき、ぐにゃりと崩れて大変なことになった。急いで食べようと口の周り、指と悲惨なほどに被害は拡大してべっとべとになってしまった。指先に固まって張りつく海苔がなかなか剥がれないことに泣きそうだ。

 一方のスマキンはピザを堪能するように、ゆっくりもちゃもちゃしている。と言っても食べ方は例に漏れず、放り投げたピザを布団の上側から吸い込むというアレだ。ポップコーンぐらいの気軽さで熱々のそれをよくも投げられるものだ。ぽんぽんと、カフェの前をピザが飛び交う。

 その曲芸の練習みたいな風景から目を逸らすと、えらく小さいスマキンが歩いているのが目についた。元気はいいが、どこか頼りない。短い足を動かして俺の前を通りすぎていく。

 布団から僅かにはみ出て見える髪は黒色だった。自分の前髪を摘む。

 同じような、色の濃い黒色だった。

 小さなスマキンを自然と目で追って、交差点まで来たところで視点が重なる。

 そのスマキンの目線で道路を見て、足下を見つめて。その角度を思い出していた。

 あ、と思わず手を伸ばしながら口を開く。

「あいつ、転ぶぞ」

 その次に起きることを咄嗟に呟いてしまう。防ごうにも視点は既に今の俺に戻っていて、どうにもならない。予想通り、小さなスマキンは転んでしまった。自分の右足の踵に左足を引っかけるというマヌケな転び方で、親指の爪を内出血したあげく膝まで擦りむいたはずだ。

「……本当に俺の心の場所なんだな」

 俺はその小さなスマキンを知っていた。なにが起きるかも分かっていた。

 俺だ。幼い頃の俺が、なぜかスマキンになっていた。転び方は自分の体験したとおりで、そういえば怪我は下半身に集中していたけど、そうか俺は布団を巻いていたから無事だったのかと冗談を思い浮かべる。

 喧嘩の一つもしていなくて、両親に大切にされてきた俺にとって初めて痛みというものを強く意識した瞬間だったんじゃないだろうか。俺たちの表面は思いの外繊細だ。そしてなにより転んでも、誰も助けてはくれない。親だって神様じゃないのだから、目が届かないところではどうにもならない。

 いつだって都合よく親の愛が届かないことを覚えて、泣いたものだった。

 今も通りかかるスマキンは誰も手を差し伸べようとしない。まぁ、手は出てないけど。

 俺もまたテーブルの前から動かないで、座り込んでいるスマキンを眺める。

 失敗から学ぶこともある。敢えて手を貸さないで、成長を促すときもある。

「………………………………………」

 分かっているけど、だけど。

 席を立つ。

「助けるのですか?」

「どれくらい痛いかは覚えているからな」

 俺まで、自分を見放したくない。

 小さな俺を助け起こす。もふーとか言い出さないでじめじめ泣いていて、すっきりとしない。

「転んだら痛いってよく覚えておけよ」

 失敗することの意味を知っておかなければいけない。

 それを知らなければ、よりよい自分を目指そうと努力しないものだ。

 助け起こした俺のことが見えないように、小さな俺が走っていってしまう。

 なんだ、案外元気じゃないか。鼻を掻いて、大げさな泣き方の自分に苦笑いをこぼした。

 あんなこと言った割に、痛みを大げさに記憶していたようだ。

 あまり思い出したくないことも、こうやってあるものだ。

 だけど思い出はどうやっても捨てることができない。弱くなっても、強くなっても。

 背負って歩くしかない。そしてその重さに慣れて、だけどふとしたときに背負っているそれが自己主張して肩にずしりとくる。そういう思い出は大抵、心の底をかっさらうように据わりを悪くするのだった。これも、その一つなんだろう。

 ピザを飲み終えたスマキンがすっくと立ち上がる。

「ではそろそろ行きましょう」

「慌ただしいな」

「あまりのんびりしていると、探し物を見つける前に目が覚めてしまいますよ」

 お会計も省いてスマキンがまた歩き出す。俺は雑踏に消えた小さなスマキンを少し探して、見つかるはずもなく、今ここにいるだろうと胸を叩いてからスマキンの後に続いた。

「また音探しか」

「探さなくても至る所にありますよ。王も仰っていましたが音を見つけることが目的ではありません。あなたは別に地球を救う勇者というわけでもありませんし。大事なのは、その音がなにを意味するのか、どこへ繋がるのか。それを知り、自分なりの結論を出すことです」

 スマキンが歩きながら、その片手間のように長台詞を紡ぐ。

 目を丸くしていると、スマキンが俺の反応を窺ってきた。

「どうしました?」

「……スマキンの見た目と知性が噛み合っていない気がして」

「王のよき影響を受けているのです」

 ふふふのふ、とスマキンが左右に揺れる。

 賢いはずなのに、前提に王様万歳があるので無理があるのだった。

 それから通りすがり、中学生の俺も見かけた。滝本だか滝田だったか、そいつに殴られている場面だった。確かに無難に生きていると、誰かに顔を思いっきり殴られることなんてそうそうない。印象に残るのも当然だろう、これは今でも忘れていなかった。今なら、どうだろう。殴り返すだろうか。

 誰かに殴られる音。誰かに恨まれる音。そういうものもある。

「いいものも、悪いものもある。そういうものだよな、思い出って」

 いつだって最良の道を生きてきたわけじゃない。良し悪しなんて自分では決められない。

 ままならないのが運命というもので。

 その中でどれだけ、後悔しないようにあがくかだ。

 それには自分の選択を信じることが不可欠となる。

「お気をつけ下さい。自分を信じることと人を信用しないことは混合しやすいものです」

「肝に銘じておくよ、知性派スマキン」

 なにも話していないのに忠告してくれた。この空も建物も、すべてが俺の心の一部であるのなら筒抜けなんてものではないのかもしれない。意識すると、恥ずかしいものだった。

 心にスマキンの素足が触れているのだから。

 スマキンと共に真っ直ぐ道を行き、景色のモーフィングのような変換も受け入れてただ進む。

 そうして行き着いた先にあったのは藤和家だった。

 夢の中でも、俺はここに帰ってくるのか。

 スーパーナントカワールドの裏面をクリアした後みたいに変色していること以外は、いつものあの家だった。だけどここが俺の記憶の宿る場所であるなら、いつの藤和家であるかは定かじゃない。表を眺めている限りでは変わりないが、納屋を覗くと、赤錆の目立つ形の酷い自転車が見えた。俺が引っ越してきてから乗っていたそれは、今や海の藻屑と成り果てているはずだ。そいつが残っていて、そしてそいつがここにあるということは自ずと時期が限定される。

 予感と共に玄関の戸を開けると、あぁ、と顔を覆いそうになる。

 本家本元のスマキンが、玄関に横を向いて転がっていた。

 初めて見たときそのままだった。

「おい、王様転がって……あ、またいない」

 一緒に来ていたスマキンが退散していた。王の威厳を保つために逃げたのか。

 或いは俺の思い出に強く踏み込むことはできないのかもしれない。

 ここにエリオが転がっているということは、そろそろ来るのか。振り返ると丁度、重なるようにやってきた高校生の俺が呆気にとられている。俺としてはこのあたりから大して変わっていないと感じているのだが、実際に相対してみると『わけぇ!』と驚いてしまうものだった。

 外見もそうだし、スマキンへの対応もそうだ。今ではスマキンしか住まない町を歩いても平然としていられるが、当時の俺がこの国に迷い込んだら怯えてどこにも歩き出せなかっただろう。そう考えるとこれは立派に順応しているわけだ。成長では断じてない。

 しかしこれが初対面か。振り返ってみると、交流が生まれること自体奇跡に思える。

 そこから早送りのように、この家でのエリオとの思い出が再生される。ピザを食べた日、海へ連れて行った日。自転車の錆みたいに噴出していくそれが、一つ一つ、染みる。

 地下労働施設で食べる肉じゃがくらい胸に染みいるのだった。

 人にのしかかるスマキン、部屋に転がるスマキン、スマキン……ばっかりじゃねえか。なぜもっと美しい場面をダイジェストしないのか。溜息をつきつつも、俺はスマキンを追う。

 かつての俺は今と同様に、あれこれと世話を焼く。

 スマキンとはそういうものだ。

 あぁ面倒見てやらないとダメなんだよなと、強く感じる。

 そこに俺の源泉があるのだと、再確認できた。

「なるほど、なるほど……」

 スマキンの床を転がる音、もふーという鳴き声。そして。

 布団から僅かに出した目もとで訴えると共に聞こえる、その呼び声。

 イトコ。

 その声に応えたいと。後悔することなくありたいと。そう、思ったのだ。

 失敗はあるかもしれない。間違いがそこにあるかもしれない。

 だけどそれに勝る思い出を作っていきたいと願うなら、俺の答えは決まっていた。

 探すまでもない思いに突き動かされて、記憶に漂う藤和家を後にする。

 外ではスマキンがいて、混在する記憶の家から心の国へと案内するように前を行く。

「もういいのですか?」

「十分すぎたよ。久しぶりにいいものを見せてもらった」

 忘れてはいない。でも鮮明に見せてもらえて、胸は弾んだ。

 そしてこの続きは、外で見てくることにしよう。



「先程説明し忘れましたが、こちらの王の住まいはクイーンエリー城というのです」

 すまきんぐの城の前まで戻ってきたところで、スマキンが言う。

「あぁ、城の名前はそっちを使っているのか。……ちぐはぐだな」

 むしろ、すまきんぐという名前だけが町の在り方から浮いているのかもしれない。

 その王様に挨拶でもしておこうと思って進むが、スマキンは入り口から動こうとしない。

 少し歩いたところで振り向く。

「来ないのか?」

「はい」とスマキンが真っ直ぐ立ったまま返事をする。

「そろそろあなたが夢より覚めるようです」

「ん……そうなのか」

 なんとなく見回してみるが、周囲の景色に変化はない。意識が立ち上るにつれて溶けるように消えていくかと思ったが、そうでもないのか。

 思い出がどれだけ遠くとも心のどこかで生きるように。

 夢もまた、消えずに残り続けるのかもしれない。

「わたしがご案内できるのは夢のほとりまで、ここでお別れです」

 そう言ってスマキンが恭しく一礼する。現実のあいつに見習わせたい礼儀正しさだった。

 年々舐められている具合が増すからなぁ、俺。

「ありがとうな」

「いえいえ。では外にいるわたしにもよろしく、もふー」

 もふーもふーとどこかへ走り去っていった。役目が終わった途端、普通のスマキンに戻ったようである。役割を持たされて、それに応じた能力が割り振られる。

 もし運命というものがあるのなら、現実だって似たようなものかもしれない。

 見送って、一人で歩いた。

 王の間に向かうと、様子が少し様変わりしていた。先程会ったときにはなかった王冠が王様の布団の上に乗っている。あと、布団にヒゲも書いてある。

 申し訳程度の王様要素が追加されていた。どうやってヒゲ書いたんだろう。

「よくぞ我が国に来たもふ」

「それさっきやった」

 見ると脇にフルーツの盛り合わせも増えていた。安直な王様像である。

「我が国はどうだったもふ」

「刺激的だったよ」

 鋭さのない針をゆっくり、少し強引に差し込まれたような。暗く小さな痛みのある世界だ。

 住民の見た目と裏腹に案外、まじめに思い出が構築されていた。

 郷愁と、後悔。至福と羞恥。よかったのも悪かったのも、等しく俺の中にあった。

 そこを回ってきて、得たものは確かにある。八つの音で言い表すこともできる。

 それは巡るまでもなく自分の中にあったものだけど、形を見定めることができた。

 鼻の下を指で擦ってから、むず痒いものを感じつつも聞いてみる。

「集めた『音』っていうのを、お前にも伝えた方がいいのか?」

「その必要はないもふ」

 すまきんぐが頭を横に振った、ように見える。でも頭がどこにあるのか分からない。

「ここはイトコの心にある国、そしてわたしは王様。すべてお見通しもふ」

 もふー、と息荒く得意がる。わー、とお付きが盛り上がって踊る。

 あがるかけ声が緩いせいか、本気なのか判別しかねる。

「ほぅ、そりゃあ凄い」

「もふふふ」

 エリオのバカー、と口だけを動かしてみた。するとすまきんぐの上半身がもぞもぞと動き、右足がぴこぴこ揺れた。

「どうした?」

「今なにか不穏な空気を感じたもふ」

 おぉ、現実のスマキンより少し鋭い。でも結局見通せてない。

 そのあたりに気づいたのか定かじゃないが、すまきんぐが話題を元に戻す。

「見つけたものは起きてから使えばいいもふ。心から外へ持って帰れるのはそれだけもふ」

「覚えていられるといいけどな」

 前にここへ来たときは、全部忘れて目覚めたようだ。

 それとも、来たことを覚えていなくとも探し物はちゃんと持って帰ったのだろうか。

「心配するな、もふー」と語尾が怪しいながらも太鼓判を押してくるすまきんぐを見るに、大事なものはなくさないようにできているのかもしれない。

 そう都合よくいくのか、と思う。だけど行くのだろうとも感じる。

 なにしろここは夢の世界。思い通りに行かないことなんか、ないのだ。

「……さて」

 頭をもたげるように、意識を自分の意思で操作できるのが分かる。首の後ろにくっついているものが揺れているのだ。こいつを持ち上げれば、今すぐにでも浮上していくようだ。

 スマキンが言ったようにそろそろ、心の国ともお別れである。

 その前にこれだけ要求しておこうと、王様に直訴する。

 実質、これを言うために寄ったようなものだ。

「そうそう。今度もし来たら、ちゃんとした昼飯を用意しておいてくれ」

 遊び心満載の料理じゃないぞ、分かっているな。

「分かったもふ」とすまきんぐが頼もしく請け負う。

「ロールケーキにイトコの好きなものをいっぱい入れておくもふー」

 違う、そうじゃない。

 呆れつつも、笑う。

 料理は勉強中のエリオに、そういう期待はまだ早いと。



「……なんか、寝た気がしないな」

 目覚めるとまったく眠気を引きずっていなくて、そのせいか疲れも取れた気がしなかった。

 変な夢を見た気もするが、その骨子を見つめることはできない。

 頭がスッキリとしていて、それがかえって落ち着かない。清涼ではなく、中身が足りていない感じだった。起き上がってから布団の上で座り込み、頭を押さえて俯いた。

 自分の足と布団をぼぅっと見つめる。目の端には壁の色が滲んでいた。

 この部屋に移り住んでもう何年になるだろう。高校を卒業して、大学に進んだけれどその間も生活の基盤はここにあった。海外へ出ていた両親もとっくに帰ってきているのだが、それでも俺はここにいた。ここにいる理由が、たくさんできたのだ。

「あ、イトコもう起きてる」

 部屋の入り口からひょこっと、エリオが頭を覗かせた。首の動きに合わせてばらけた水色の髪から粒子が流れ落ちる。心の国を照らす光と同じその輝きはもしかすると生涯その正体を突き止めようと追いかける、俺にとってはそんな光かもしれなかった。

 忍び足で来たのか姿を見せるまで足音はなかった。が、起きていると分かった途端に小走りで駆け寄ってくる。すてててー、と足が短いわけでもないのになぜか小刻みに動いているように聞こえるいつもの足音は健在だった。ベッドの前へやってきて、ぽこぽこ肩を叩いてくる。

「イトコ、生意気だぞー」

 いつもみたいに俺を起こせなかったのが不満らしい。ぐりぐりと、腹に額を擦りつけてくる。間で髪が擦れて痛い。よくやってくるのだが、どういう意図でお仕置きにそんな振る舞いを見出したのだろう。いや痛いけど。

 離れたエリオの額は微かに赤く、そして俺の腹部に水色を残す。

 指を掬い入れるように伸ばすと、小さな光が人差し指を軸に踊った。

「はんせーするように」

「早起きを反省しないとダメなのか……」

 うむ、とエリオが偉そうに頷く。なんか、さっきもこういうのを見た気がする。

 ちなみに普段の起こし方は人の掛け布団の上に飛び乗って、そのまま転がって身体に布団を巻き付けるというものである。そして出来上がったスマキンを下まで運ぶのが俺の役目だ。

 毎日やっているので感覚が麻痺していたが、冷静になるとなにもかもおかしかった。

 今日はスマキンじゃないので、エリオが「イトコより、ずっとはやい」と自画自賛しながらすてててと走っていく。その背中を見ていて、丁度いいかと呼び止めることにした。

 夢の内容はほとんど忘れた。が、恐らくは胸の内より見つけてきたものだけが残っている。

 それを忘れないうちに、言っておこうと思った。

「ちょっと待った」

「ん?」

 エリオが振り返る。む、スマキンの影を幻視して重なる。見慣れすぎているからだろうか。

「ここ座って」

「ん」

 ベッドの上にご案内する。エリオが素直にとことこやってきて、ぺたんと座る。

 そうしていると、会った頃から時間が経ったなんて嘘みたいだ。

 本当に二十代で俺と同い年なんだろうか。

「ずぃー」

 効果音つきで見つめてくる。そこは母親譲りだった。

「あー、なんだ」

 頭を掻く。正面からじぃっと見つめられて、言葉が尻尾を巻いて逃げそうになる。

 大きく、淡く。濡れたように輝く双眸が俺を捉えて離さない。

 話しづらいから布団ちょっと巻いてくれねぇかなぁ。

 ……そういうわけにも、いかないんだろうな。

「イトコ?」

 エリオが待っている。傾げた小首と、流れる髪。指で掬って、その美しさに見惚れた。

 今どうすれば最良の未来に繋がるか、いつだって悩みながら道を選び抜いている。

 そして今、選んだ先を突き進んでいけば、倍々に悩みは膨れあがっていくことだろう。問題は個人から領域を広げて、もっと多くの人の意思、未来が関わることになる。

 だけど俺は、それを願った。

 心の領土を広げたいと、なけなしの勇気が集ったのだ。

 きっとその前向きな気持ちを生み出したのは、後悔するばかりの思い出なのだろう。

「前から言おうと思っていたんだが」

「んむ」

 寝起きからずっと手元で光る、そんな寄せ集めのものが擦れ合う。

 鈴を鳴らすように、それぞれが音を奏でて。

 その八つの音を集めて、紡ぎ合わせた。

「けっこんしてくれ」

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