『始まりと終わりと始まりと終わりと始まりと終わりと始まりと…………』【再掲載】
※この作品は「入間の間」に過去掲載された小説の再掲載になります。
田んぼ沿いの、舗装もされていない細い道を二人で歩いていた。
吹く風の冷たさと、澄み渡る空が冬であることを知らせる。細かく、鱗を装うような雲が広がっていた。田んぼは冬枯れを迎えたように作物が見当たらなく、地面は荒れて、視界を遮るものは少ない。大きな鉄塔と、そこから伸びる電線が頭上を走り回っていた。
足を前に動かしながら、えぇっと、と横を見る。
隣の女の子は黄色いゴムボールを抱えるようにしている。
長い髪が動きに合わせて、ゆらゆらしていた。
……ああ、そうだった。小さい頃の、わたしのたった一人の友達だ。
この景色は本当に体験したものだっただろうか?
不確かな足もとが固まるにつれて、心が幼く後退していく。
スッと、首の後ろになにかが入り込んだように。目線の高さに慣れて、鮮明になる。
「クリスマスって、なにかぶわーっとしたことする?」
女の子がボールを両手で振り回しながら、わたしに聞いてくる。
「ぶわぁ?」
「ごいすーなこと」
余計分からなくなる。取りあえず、クリスマスになにかするかって聞いているみたいだ。
「うちはね、ケーキたべる」
「それくらいうちだってしますー」
いぇいぇい、とあまりやる気なさそうに女の子が勝ち誇る。女の子は表情や仕草、喋り方、どれを取ってもふわふわしていた。他の子や大人と違って、ゆるい。触ったらその部分がすかっとして、雲を手に取るように錯覚するような……なんていうか、テレビ画面みたいだった。
とても近くにいるのに、なにかを挟んで見ているようで。
わたしはそんな女の子の雰囲気が気になって仕方ない。
だから追いつけもしないのに、いつも隣にいようとした。
「ほかにはー?」
「からあげたべるよ」
「なんで?」
「クリスマスっていったらとりじゃん」
わたしが言うと、女の子は、え、そうなのみたいに目を丸くする。女の子は町も歩かなければ、テレビCMも見ないのだろうか。
「じゃあなにたべるの?」
「やきそば」
「……なんで?」
二人して首を右に左に傾げる。
「あれ、ことしはカレーだったかな」
「あー、うん。そうなの」
女の子と一緒で、お家も変わっているみたいだった。
首を傾げるのを止めて、また歩き出す。
「ケーキたべたいなー」
ぼーっと前を見つめながら、女の子が呟く。ケーキの話をしたからだろう。
単純だった。
「クリームをくちのおくでぎゅーっとすると、あまくてたのしいよね」
「よくわかんない……」
「あれー?」
「うちにおっきいのあるよ。たべにくる?」
「いいねぇ」
女の子がゆるゆると笑う。声に少し遅れて、付け足すように目を細める。
いつものその笑い方が、わたしは好きだった。
女の子とクリスマスを過ごせたら、きっと、とても楽しいだろう。
心は弾んで、冬の風がまとわりついても震えることはなくなる。
夢は花開こうとしていた。
でも、すべて上手くはいかない。
「うー」
女の子が首を縮めるようにして唸る。あ、と思ったときには隣から消えていた。
一歩目は力強く。
そこからは軽快に、土を蹴る。
あっという間に、わたしの追いつけない速さで離れていく。
ボールを放り出して、腕を思い切り振って。
女の子はまた、わたしを置いて走り出してしまう。
いつだって、そうだった。
首が上に引き上げられるような焦りがわたしを追い立てる。
「まってよ、」
追いかけようとする前に、目の両端が急速に真っ白になっていった。
「そろそろ機嫌直したら?」
こたつに入りっぱなしもそろそろ熱くなってきて、電源を切るなり足を出すなり動くなりといきたいところなのだけど、そういう空気ではなかった。毛布の片付いていないソファを一瞥する。
お茶屋の奥の部屋で、いつものようにわたしと姪がいる。のだけど。
姪は、怒っていた。
「怒ってません」
「怒ってるやつはみんなそう言う」
既視感があった。横を向くと、窓もないのに自分が映っているようだった。
うたた寝していて姪に起こされたのだけど、寝ぼけて昔の知り合いの名前を呼んだらしい。
らしい。覚えていない。当たり前だ、そこまで意識がはっきりしていたら失敗はしない。姪はそれがいたくお気に召さないみたいで膨れている。名前以外にも色々と口走ったのかもしれない。寝言に泣き言でも混じっていたのだろうか。さっぱり覚えていない。
その前に見た夢のせいかもしれない。そっちもまるで記憶にないのだけど。
ただ、今胸の中に残る小さな侘びしさは、どんな夢を覗き見たかの答え合わせに思えた。
付き合いだして……付き合うというのも二種類があってやや気恥ずかしくもあるのだけど……高校生の姪は、そのお付き合いが深まる中でやや嫉妬深いのだと知った。わたしは人間関係が希薄であるので、ヤキモチ妬くような相手も今はまずいないのだけど……稀にこんなこともある。過去は思い立ったように波を起こして、浜辺に迫る。
そんな姪の対応に面倒くささはなく、古い鏡を覗くような気分だった。
わたしも、こんな風に不機嫌な記憶ばかりだ。
わたしの見ている相手が、わたしを見ていないことをずっと分かっていたから。
「なにしたら直る?」
姪の髪を指で梳きながらお伺いを立ててみる。姪がちらりと、横目でわたしを窺う。その肩を流れるように落ちる髪を手のひらに掬い取って、感触を楽しむ。いいね、と撫でる。
姪は学校の制服、取り分け冬服がよく似合う。落ち着いた色合いは、見飽きない。
「ほらせっかくのクリスマスだし。楽しい方がいいのかなと」
せっかくと言ってもクリスマスなのに出かける予定はないし、フライドチキンだって用意していない。唯一、申し訳程度に存在するクリスマス要素は読んでいた旅行雑誌の表紙くらいだった。イルミネーションに飾られたもみの木が夜景にぽつんと映っている。電飾は華やかに撮られているけれど、奥の木は少しだけ寒々しく、そして寂しそうだった。
「叔母さんの初恋の人なんですけど」
わたしの質問を半ば無視するように、姪が気になっていたであろうことを口にする。
前にも少し話したんだけどなぁ、と苦い思いが湧く。
「今も、仲良いんですか?」
姪がこちらを向いて、真っ直ぐ見つめてくる。
若さ故か、姪の視線は常にひたむきだ。
まるで浮気でも疑われているみたいで、少し逃げたくなる。
「さぁ……あ、ごまかしてるとかじゃなくて、連絡取ってないから」
だからか最近、姿より声が思い出せなくなっていた。
「別れてから?」
「あんたが言うような別れじゃないけどね。うん、それから」
あの日、唐突にいなくなってから一度も。
「ま、もう終わったことだよ」
だから安心しなさい、と姪の脇腹を突っつく。身を捩りながら俯く姪の口端が、うっすら緩む。
「終わったこと……」
姪が反芻するように呟く。そう、終わったのだ。姪が終わらせたようなものだった。
赤んぼうの無邪気さが、乱暴に引き裂いたのだ。
「……………………………………」
ただ。終わったというのは、全部がなくなるってことじゃない。
そこを時々、忘れそうになる。忘れかける度、彼女のことを思い出す気がした。
「いつもぼけーっとしてるやつだったからね。そのまま、夢に落っこちたのかも」
あれからまるで連絡もなくて……生きているという確信はあった。夢見た世界で、今もわいわい賑やかに、楽しそうに。そんなイメージはありありと浮かぶ。
でもそこは多分、わたしが目指す場所じゃない。
今のわたしが向かうべきは。
「ケーキ買いに行こうか」
そんな気分だったので提案してみる。姪は目を丸くしている。
驚き方に、なにかが重なるように思えた。
「大きいケーキを食べよう」
甘いものを食べながら怒るのは難しい。姪の不機嫌も砂糖菓子のように溶けるだろう。
「あ、ケーキを景気よく……やっぱりいいや」
思いついたことを取りあえず口にしてみるのはそろそろ自重するべきだと思った。
「寒いなら待っててもいいよ?」
先に立ち上がって聞いてみると、姪は髪を邪魔そうに払いながらすぐにこたつを出る。
「もちろん、一緒に行きます」
大分機嫌は直っているみたいで、これならケーキはいらないかな、と一瞬考える。
でもケーキを囲む自分と姪の様子を想像して、やっぱり必要だって思った。
「この家は木の匂いがしますね」
隙間風に晒されるような廊下に出て寒がるかと思いきや、姪がそんなことを言った。
「古いからね」
「囲まれてると落ち着きます」
低い天井を見回すようにしながら、姪の口が小さく動く。
「叔母さんの匂いに似てるのかも」
「わたし?」
そこでわたしに繋がるとは思っていなくて、つい尋ねてしまう。
独り言めいたそれを拾われると思わなかったのか、姪が動揺を示す。
「えっと、その……肌に」
「そりゃあ、肌の匂いだろうね」
他の場所の匂いって、わたしの匂いなのか?
姪が頬を仄かに色づかせながら、ごにょごにょなにか言っている。肌の匂いなんてどこで嗅いだとかまぁそういうね、あれねがあるね、みたいなところだろう。……それはさておき。
「木か」
「はい」
「木臭いかわたしは」
「そこまでは言ってませんけど……」
「いいな、それ」
どこが、と不思議がる姪の声に小さく笑う。
この家にはクリスマスツリーなんてないから、わたしがその代わりになれたらいい。
姪との、せっかくのクリスマスなのだから。
ツリーにケーキを用意して、ほら少しだけそれらしくなってきた。
世間に遅れて、夕焼けも間近に迎えながら、そろそろクリスマスを始めよう。
なにかが始まる。そのなにかが終わる。
何度終わっても、すぐに次が始まる。
今日のわたしができるのは、今日を終わらせて明日を始めること。
昨日に戻らないよう、歩いていくこと。
今のわたしが歩きたい、その子の隣で。
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