『半分くらいが犬になった話ワン』【再掲載】
※この作品は「入間の間」に過去掲載された小説の再掲載になります。
そんなとこだろうと薄々予想はできていたけど、犬になったのはぼくの方だった。
さてどうするかな、とまだ眠っている彼女の周りを徘徊する。彼女はありとあらゆる生き物に冷たいので、寝起きにぼくを見つけたら尻尾でも引っこ抜かれてしまうかもしれない。
まぁ元に戻ったらぼくに尻尾なんてないのだから、一時的に痛いだけで済むかもしれない。
それならなんとかなりそうだ、と思う。痛みには多少慣れている。
もちろん、痛くないのが一番だけど。
痛みがある方が生きている気がするなんて、そこまで強くはいられない。
どうするどうすると部屋の中を往復する。意外と動きやすいな、犬の体型。
しかしこんなにうだうだと考えて、そんじょそこらの犬にはこの芸当はできまい。
今世界で一番賢い犬なんじゃないかぼく、と勝ち誇る。
てっぺんとったぜ!
嘘だけど。
ぼくより賢い犬って絶対いるよなぁと思う。それは人間に戻ってからの話も含めて。
ぼくは、色んな選択で大分愚かなものを選んでいる。多分。
分かっていて、他では生きられない。
陸に上げられて、それでも死ななくてもがいている魚は、今日もどこかを求めて跳ねている。
そして時折、犬になったりもする。
最高に愉快だった。
「ははは仕方ないなー犬になったイトコはエリオさんが面倒を……あれ?」
意気揚々と部屋に飛び込んできたエリオが俺を見て固まる。
「イトコが犬になってなーい」
あれぇ? と大きく首を傾げる。そうねぇ、と犬になっていないエリオを見つめ返す。
「半分くらいがって話だし、俺たちどっちも漏れたんじゃない」
「なにー」
どこかの居候みたいな反応を見せる。すてててとこっちに近寄ってきて、じーっと俺を見下ろす。
「なぜだー」
「なぜと聞かれても」
「犬になれー。なるのだイトコー」
耳たぶを下に引っ張るな。
その日は一日中、くっついて犬になる呪いをかけられた。
ならなかった。
女性が朝目覚めたのは、毛に叩かれてのことだった。
口もとにもさっとしたものを押しつけられて、二度それが上下して、女性が半分寝ぼけながらも目覚める。同居人はそうした悪ふざけをするような性格ではないし、自分を起こすようなこともないと思い出して、頭が急速に冷える。誰かが侵入してきたという可能性に、ベッドの上で飛び退きそうになる。その女性の予想は当たらずも遠からずだった。
女性を起こしたのは、犬だった。
女性が目を丸くしながら、きょろきょろとする。
同居する女性の姿がなく、代わりに犬の姿が枕の側にあった。
柴犬かな、と毛並みの色合いを眺めて女性はまず思う。
それから、どこから入ってきたのかと女性は驚きつつ、犬の様子を見てゆっくり、重ねるようにもう一つ驚く。
その犬は、右前足が欠けていた。
「もしかして……」
唐突な変身ながら、女性がすぐに答えに行き着く。犬は不機嫌そうに皺を寄せている。そして姿勢を維持できないらしく、すぐにその場にへたり込む。
女性は理解が追いついてから、にこーっとする。そうすると犬はますます面白くなさそうに、そっぽを向いてしまう。女性がその犬の頭を撫でようとすると、吠えて威嚇してきた。
「あ、やっぱり喋れませんか」
犬が返事のように鳴く。女性は空いている隣のベッドを一瞥してから、ふふふ、と笑う。
なにが面白いとばかりに犬が歯を見せても、まるで意に介さない。
「どうしてこうなったかは分かりませんけれど」
本当だよと犬は言いたげに唸る。そんな犬の反応を見て、女性が、手を伸ばす。
「大丈夫ですよ」
女性が、犬を抱き上げる。犬は抵抗しようと身を捩るが、まったく効果がない。
そのまま、女性の腕の中に抱かれて落ち着くことになってしまう。
「大丈夫、大丈夫」
女性が子供をあやすように、言葉を繰り返す。
「無責任って思いました?」
思った、と犬の尻尾が揺れる。
「でも誰かに大丈夫って言ってもらえると、少しくらい楽になりません? 私は、そういう軽薄で、責任を取れない、他人の優しい言葉に何回も救われてきました」
だから、と女性が無責任を重ねる。
犬はそれに対してなにかを言おうと、口を開く。
だけど犬なので、なにも言えないのだった。
「大丈夫ですからね、ちょっと、ゆっくりしましょう」
女性が犬の背を丁寧に撫でる。犬は目を迷わせながらも、最後は口を閉じて。
そのまま眠るように目を瞑り、女性に身を任せる。
女性は微笑みながら、その犬の背を、いつまでも撫で続ける。
「おやぁ? 犬が増えてる」
「………………………………………」
「いつものわんこは……いるね、いるいる。じゃあやっぱり別の犬だ」
「………………………………………」
「どこから来たのかな?」
「………………………………………」
「まぁいっか。ししょーが来るまで寝てよう」
「………………………………………」
「へぶしっ」
陶芸家の弟子が犬にビンタされる。弟子はそのビンタを受けて、ようやく事態を把握する。
「ししょーが犬にっ!」
弟子が大げさに驚愕する。しかし一瞬で素に立ち戻る。
「あってます?」
そうだよ、と師匠が鳴く。最近は師匠と呼ばれても否定するのが面倒になったので受け入れていた。なんだかんだと色々教えてはいるので、弟子でも間違いではない。
山の上、陶芸家の工房とその住処。そこに住み込みで生活する弟子と、犬となった師匠。
犬になってもししょーはすらっとしてるなぁと弟子が思う。
「このタオルとかそれっぽいですねぇ」
頭に巻いている短いタオルを弟子がつんつんする。師匠は黙っている。
「耳とか蒸れないんです?」
タオルに包まれたそれを指摘されて師匠が催促するように吠える。弟子に話させていると、いつまで経っても事態が動かない。弟子はびくっとしてから、「あせあせ」と呟く。
その顔に勿論、汗などまったく浮かんでいない。
「ししょーが犬に……困りましたししょー。あたし一人だとなんにもできませんよ」
本当にな、と師匠が溜息を吐きそうになる。謙遜など抜きになにもできない弟子である。できるのは陶芸に関することだけで、逆にひょっとしてこいつ、本物の天才なのでは? と師匠は時々思う。しかし同業者としては複雑なので指摘したことは一度としてない。
「困ったなぁ……うぅう」
弟子が師匠を抱えながら工房内をうろうろする。こまっちゃーうーよーと歌う。するだけで具体的になにも起こさない。師匠もこの弟子に期待したくはないのだが、山の上なので他に人もいない。あといるのは犬だけである。
その犬は工房の机の下に潜り込んで、いつものように大人しくしている。偶然目が合い、師匠がやぁと前足を上げる。犬は一瞥して、ふがふがと鼻を動かすだけに留まった。
「あたしも犬になりたい。責任を捨てたい」
弟子がへなへな躍りながらなにか言い出す。師匠がその様子を眺めていると、弟子は段々と膝を屈めて、床に手をつき、「あーあーあー」と喉を整える。そして。
「うーっわんわんっ」
「………………………………………」
「へぶしっ」
再び師匠のビンタが炸裂する。
「目が覚めましたししょー」
うむ、と師匠が頷く。しかし正気に戻ったところで特に頼りにならないのが問題だ、と師匠が思っていたら。
「そうだ、ここは誰かに助けてとお電話だ」
なに、と師匠が無表情に驚く。弟子にしては賢すぎる、実は弟子の見た目をした犬かなにかではないだろうかと疑う始末である。「ぺぽぽ」と音を真似しながら、弟子がどこかへ連絡を取る。
「へいへーいへるぷみー。どんちゅーせーい」
「………………………………………」
謎の会話を終えて、弟子が「ぺぽぽ」とまた電話をかける。断られたのかな、と師匠が静観していると、「へいへーい」それを何回も繰り返す。そうして長々と猫背で電話した後、弟子が振り返る。
「ししょー十五人くらい助けに来てくれることになりましたっ!」
あ、やっぱり中身は弟子だと師匠が諦念する。
こんな狭い小屋と家に何人呼んでいるんだこのお馬鹿、と師匠は言いたい。弟子は「話し疲れた……エネルギーが……」と呟いて工房の床に寝転がる。師匠が踏みに行っても「ぐえー」と反応するだけで起き上がろうとしない。犬になっていなくても、呆れて物も言えないだろうと師匠は考えた。
しかしその一方で、そんなに助けが来るなんて、やるじゃないかと師匠は感心した。
誰の目から見てもまったくもって頼りないせいだろうか。
そういう生き方もあるのだと思う。
つまり頼る相手のさっぱりいない私はその逆なのだな、と師匠が思う。
「………………………………………わへ」
師匠はほんの少し、得意げに。
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