第7話
コンビニ強盗事件があり、河野智美が死に、けれども伊藤幸一の生活そのものはなんら変わりはなかった。
事件に関する報道は少しずつ減っていき、新たに芸能人の不倫の話題が世間を騒がせるようになっていた。人々の関心は流れる水の如く留まるということを知らない。
伊藤幸一がコンビニへ行ったのはあの一日だけで、その後は毎日雨が降った。
梅雨は本格的になり、空は常に灰色をし、庭の土は乾く間もなく濡れたままだった。
母親は日々洗濯物をいかにして乾かすかに腐心しており、部屋干しされた衣類には日がな一日扇風機の風が当てられていた。
伊藤幸一の部屋は湿気でますますじめじめし、そこはかとなくかび臭いような臭気を放っていた。しかし伊藤幸一はそんなこと気にも留めていなかった。
次第に少なくなっていく事件に関する情報を収集することに忙しかったし、河野智美について調べることにも余念がなく、彼女のソーシャルネットワークを洗いざらい閲覧してまわり、その交友関係にも手を伸ばして少しでも彼女の関わったものについて知ろうと必死だった。
ネット社会に溢れる膨大な情報の中から彼女の断片を探し出す作業は、伊藤幸一に俄かに生きる目的のようなものを生み出していた。
それは何ら生産性のない、無意味な行動だったかもしれないが、彼が目的をもって何かをするということが一つの奇跡だった。
河野智美を刺殺した犯人は依然として逃亡を続けている。地域の不安はまるで解消されない。事件に関する報道は減っても、周辺地域の状況がまるで変わらないということに伊藤幸一は微かな喜びを感じていた。
全世界の人々にとってこの小さな町のコンビニ強盗は何の関係もないことだけれど、せめてこの町の人たちだけはトラウマになるぐらい彼女を覚えていてほしかった。忘れることは本当の死を意味するから。
伊藤幸一はこれまで小馬鹿にしていた「死んだ人が心の中で生き続ける」などという安っぽいセンチメンタリズムを初めて「そういうこともあるかもしれない」とわずかに肯定する気持ちになった。実際、彼女の存在はこの十年の間も伊藤幸一の中に住み続けていたし、恐らくこの先もそうだろう。そういった意味で死は彼から何も奪いはしなかったのだ。
一週間ほど雨が続いた日のことだった。
伊藤幸一はインターネットの掲示板サイトなどを閲覧していると、河野智美が巻き込まれたコンビニ強盗事件に関して気になる記述を見出した。
コンビニバイト店員殺害事件ヨウギシャフジョウ、キターーー。
警察は防犯カメラの映像はもちろん、近隣の防犯カメラ、駅のカメラなど町中の記録を解析。それらの画像から一人の人物が浮かび上がった。そのような内容だった。
最近のカメラの映像というのはとてつもなく精度が上がっている。昔のように白黒のシルエットしか分からないようなものと違って、かなりはっきり写るし、それを拡大し調べることもできる。
伊藤幸一は大いに期待し、引き続きネットの情報を漁っていた。犯人逮捕は近いのか、警察はどこまで犯人に迫っているのか。
パソコンのキーボードを叩く音とマウスをクリックするかちりかちりという音が時間を刻むようにひっそりと部屋に響く。
河野智美を殺した人物が誰であれ、絶対に許しはしない。心神耗弱だの精神鑑定だのクソくらえだ。捕まったら絶対に裁判は死刑判決を下すべきだ。いくばくかの年月を服役したぐらいで、彼女の死を償うことなどできはしない。
伊藤幸一はまだ見ぬ犯人を呪うように、口の中でぼそぼそ呟く。死ぬべきなのだ、犯人は。
凄まじいネットの情報は、逃走経路、車を使用したのか、いや機動性から考えるとバイクかも。凶器となったナイフを持ったまま逃走しているがどこへ廃棄したのか、とっくに他府県へ逃走しているだろう、整形もしているかも。身分証明を偽造することなど金さえ積めば容易い。が、コンビニ強盗を働くぐらいだから、金銭は持っていないだろう。ならば遠くへは逃げられない。となると、案外、実はまだ近くにいて潜伏しているのかも等々。素人推理のさまざまな追及。丹念にそれらの発信を読み進めて行くうちに、伊藤幸一はぎくりとして手を止めた。
殺された女の同級生にあやしい奴がいる。
なにそれ。
ヨウギシャフジョウ? リアルに?
テレビで流れた犯人の映像、似てる。やばい。
マジで。ヤバイ。
中2から不登校なって学校来なくなったやつ。あれ、そっくり。十年たっても面影ってあるじゃん。
不登校ってどゆこと。いじめ?
白豚眼鏡でキモヲタだからしょーがない。
喋んないし、本ばっか読んでるコミュ障。
いい加減なこと言うと炎上する。
炎上上等。
や、でも、これマジで地元では有名な話。
マジか。ほんとヤバいなこれ。
警察も追ってるらしい。
それじゃほぼ確定じゃん。
同級生から犯罪者出るとかマジ迷惑。つか、うざ。
でもなんで殺っちゃったわけ。
さー。誰でもよかったんじゃね? 最近ありがちのやつ。
最低。死刑希望。
伊藤幸一の咽喉の奥がぐうっと奇妙な音を立てた。……なんだこれ。
不登校になった白豚眼鏡。いくつも連なる言葉を一つにつなげていく。かつて白豚眼鏡と呼ばれていた記憶がまざまざと蘇ってくる。気がつくと伊藤幸一はびっしょりと汗をかき、キーボードに乗せた手が小刻みに震えていた。
数人の男子生徒に囲まれ、小突かれ、侮蔑的な言葉を浴びせられた日々のことは忘れたことなどない。年月は何も解決しない。伊藤幸一にとって忌わしい記憶は常に血の吹き出る傷でしかない。十年たとうと二十年たとうと、それは絶対に変わらない。
衝撃は次第に怒りに変わり、伊藤幸一はきつく拳を握りしめた。
誰だ。この無責任な放言は。一体誰がこんなことを。あいつか? それともあいつか? 伊藤幸一の脳裏に鮮やかに浮かぶ、中学二年生の時のいくつもの顔。無論、その後の人生は知らない。
伊藤幸一は思い浮かぶ顔を順番にSNSで狂ったように片っぱしから検索し始めた。
同窓会のコミュニティ、同級生の名前を見つければその交友関係のすべてを閲覧し、徹底的に、探して探して探して、次々と画面をスイッチさせ、眼球がどうにかなりそうなほど文字と画像を追った。
そこにあるのは殺意だった。いや、今初めて芽生えたものでは、ない。ずっと伊藤幸一の中に熾火のようにくすぶっていたものだった。
もうずっと思っていた。あの時自分をいじめた人間の誰一人として許すことはできないし、みんな不幸になればいいと願っていた。死ねばいいと思っていた。そして今はこの手でと思うほどの殺意が燃えあがり、伊藤幸一は噂の全貌を探るのに全精力を傾けていた。
目は血走り、全身が強張っていた。
いつもそうだった。なんの罪もないのに、ありもしない噂をたてられ、迫害され、中傷されてきた。自分が一体何をしたというのか。
いじめる側にはいつも理由はなかった。伊藤幸一がそこに存在していること、それ自体が許せなかったのだ。
だったら。こちらも同じことだ。伊藤幸一は彼らの存在を全否定する。
十年の歳月を経てどんな大人になっているのか知らないけれど、幸か不幸か知らないけれど。全力で否定する。
運動したわけでもないのに汗が流れ、興奮のあまり息があがり今にも卒倒しそうだった。
なぜそっとしておいてくれなかったのだろう。なぜ今もそっとしておいてくれないのだろう。どうして今になって思い出したりしたのだろう。十年の歳月を経て、河野智美の死と引きこもりの伊藤幸一を結びつけることがどうしてできたりするんだろう。
それは想像力ではない。根拠のない抽象でも、ない。彼らは面白がっている。そうだ。彼らは一人の人間の死を盛り上げようとしているのだ。
ひとわたり情報を集めると、全身全霊でキーボードをた叩いた。
お前らみんな死ね。お前ら人間のクズだ。河野智美の死を楽しんでるんだろう。お前らが死ねばよかったのに。
指はそのままエンターキーの上で止まった。伊藤幸一は吐き気を堪えるかのような嗚咽を漏らした。涙が後から後から溢れて止まらなかった。
自分が河野智美を刺し殺した犯人だと噂されている。それはショックを通り越していた。次いで激しい憎悪を伊藤幸一にもたらした。ぶり返した悲しみに伊藤幸一は号泣した。
彼女の死を悼む気持ちと、あの頃の自分への涙だった。
今も、何も変わらない。なにひとつ変わっていないのだ。上辺だけの、口先だけの謝罪と反省。彼らはあの頃のまま大人になり、人を傷つけることに何の躊躇もなければ罪悪感も感じない。倫理も道徳も持ち得ないまま大人なり、けれども、それでも、恐らくは普通の一社会人として当たり前の生活を送っている。それは恐ろしい現実であり、伊藤幸一にとってはかつてと同じ絶望だった。
自分一人が変わらないまま、変われないまま社会から取り残されているような孤独が常につきまとっていたが、本当はそうではなかったのだ。自分が変わらないのと同じく、彼らもまた変わらないまま生きているのだ。
散らかり放題の部屋に響く伊藤幸一の嗚咽は野生動物の咆哮のようだった。雨が窓を叩く音がしている。伊藤幸一の泣き声は時々雨音にかき消されたが、いつまでも低く呻りをあげ続けていた。
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