第6話

伊藤幸一が深夜に家を抜けだし、それも玄関からではなくわざわざ勝手口から出て行ったこと。それについて母親は気づいていないようだった。


 勝手口から出た拍子に裏の家の塀の上にいた野良猫が慌てて逃げ出したので、夜に響き渡る大きな物音に当の伊藤幸一自身が心臓が止まりそうなほどどっきりした。


 むうっとしたぬるい空気が肌を撫でる。常に快適な温度に保たれた部屋にいた身としては、その不快感も懐かしさと新鮮さを併せ持っていた。


 庭と隣家の塀の間を通り、裏口を出るとそこは閑静な住宅地の狭い遊歩道だった。


 音を立てないようにそっと扉を閉める。鍵を持っていないので外から施錠できないことが心配だったが、すぐ戻るのだからとそのままにして伊藤幸一は歩き始めた。


 それは実に十年ぶりのことだった。


 伊藤幸一は自分が生まれ育ったはずの町を、まるで新世界のように見まわした。


 それもそのはずで、十年の間に世界はすっかり姿を変えていて、かつての面影を残すものといえば小学校へ向かう途中にある公園や、公共施設の建物ぐらいなもので、地域に住んでいる人々は少しずつ微妙に変わり、新しい家が建ち、小さかったはずの苗木は大きくなり、大きかった街路樹は立ち枯れ始めていた。


 自分の足音だけが響く通りを行く。足元がふらふらして体に力が入らない。無理もない。十年間、一度も家から出なかったのだから。歩いたり、走ったりなんてこともなく、名実ともに箸より重いものを持たずにきたのだから。


 伊藤幸一の体は徹底的に衰えてのろのろと歩くのがやっとという感じだった。


 いや、もっと言えば「靴を履く」ということが十年ぶりなのだ。下駄箱の奥にひっそりとしまわれていた靴を取り出すのは骨董品を見出すような、または遺跡から出土品を発掘するようなものだった。


 即ち、歴史という時間の中から遺物を取り出すということ。なんということはないスニーカーだが、それは昔の自分の健康さの象徴のようだった。ぽっちゃりとして、食欲があって、太陽の恩恵を受けていた頃。こんな未来を一体誰が想像しただろう。


 風が吹いても倒れそうな不安な歩みで、伊藤幸一はコンビニへやってきた。


 暗い、暗い、夜の中、すでに通りには車もなく、人通りも無論なく、人類滅亡の夜のように生き物の気配のない静かな夜だった。信号の向こうに見える明かりを目にした時、伊藤幸一は砂漠の中にオアシスを見つけたような気持ちになった。


 ぽつぽつと点在する街灯の光がコンビニへ正しく伊藤幸一を導くように光っていて、その先でコンビニは闇に浮かび上がるように輝いていた。


 近づいて行くと店の入り口にたくさんの花が供えられているのが分かった。花は新しいものもあれば、すでに熱気と湿気でしなびて腐ったようなものもあり、とにかく数が大量すぎて花なのかゴミなのか分からない様相を呈していた。


 伊藤幸一は無言でその前に立ち、これらすべてが彼女の死に対して捧げられたものなのだと思うと、悲しいよりはむしろ憤りを感じた。花など何の意味もない。彼女が死んだという事実を見せつけるような花だ。


 伊藤幸一は花から視線を逸らし、入口を見やった。コンビニは今や彼女の墓標だった。


 コンビニは営業しておらず、ブラインドがおりていた。なのに店内の明かりは全面的に点いていて。何の為に明かりを点けているのか分からなかったし、なぜ営業しないのかも分からなかった。やはり殺人の現場となった場所では営業できないのだろうか。


 伊藤幸一は夢想した。ゆっくりとコンビニの自動ドアを通り、陳列される無数の食品や日用品のを見渡す自分を。もしもっと早くここへ来られたなら河野智美に会えただろうか。生きている彼女に。生きていた彼女に。


 入口のガラスに「閉店のお知らせ」の張り紙がされていた。


 ああやっぱり閉まるんだな。伊藤幸一は溜息をついた。目の前のガラスには痩せて青白い自分自身が映っている。伊藤幸一は河野智美がどのように立ち働き、強盗と対峙し、この店のどのあたりで絶命したのか、息を詰めて何かを感じとろうと試みた。


 彼女の血はどこに流れ、広がったのだろう。夥しい量の血だったに違いない。彼女は悲鳴を上げただろうか。命ごいをしただろうか。


 伊藤幸一はもう一度深く息を吸い込み、長く吐き出した。考えれば考えるほど、例えようもない怒りと悲しみと焦燥とで体が震えてくるのが分かった。


 普通なら誘蛾灯のように暇を持て余す若者を引き寄せるコンビニも、今は廃墟のように打ち捨てらている。


 コンビニの無機質な明かりは伊藤幸一を一層青白く、不気味に見せていた。何をしに来たのか。本人にも目的は定かではなかった。ただここに来たかった。それだけだった。河野智美が死んだ場所へ。彼女の死をより近く感じられる場所へ。


 当然のことながら彼女の血は徹底的に拭き清められ、事件の痕跡は消し去られ、当たり前のコンビニのあるべき姿がそこにあるだけ。コンビニが事件の為に閉店に追い込まれた事実はさておき、それでも事件を感じられるものは何もない。……彼女が生きた痕跡でさえも。


 ここで生きていたという事実も、死んだという事実もまるごと消え去ってしまう現実。伊藤幸一は不意にここへ来た自分が虚しくなった。


 十年の間、虚無感の中を生きてきたわけだけれど。家にいようと、世界に参加しようとも、生きたことの痕跡を残すことなど一体誰にできるというのだろう。すべて忘れ去られてしまうのだとしたら。生きているということそれ自体にどんな意味があって、この命というものがどこへ向かおうとしているのか。


 河野智美を刺殺した犯人も、そうなのだろうか。はした金を求めてコンビニへ押し入り、従業員の女を刺し殺し、逃走し、そしてそれらの事実を忘れて生きて行くのだろうか。


 伊藤幸一はゆっくりとその場を離れ、やっぱりふらつく足取りでのろのろと歩き始めた。


 国道沿いにはいくつものコンビニがある。駅の方に行けばやはりコンビニがある。伊藤幸一はどこへ向かうというあてがあるわけでもなく、ただ歩き続けた。そしてコンビニを見つけると手当たり次第に中へ入り、何を買うでもなく店内をぐるりと一周した。


 事件現場となった同じチェーンのコンビニにも立ち寄る。微妙な違いはあれどもどこも同じ作りで、同じ陳列棚に同じ商品が並んでいて、自分が現在どこにいるのかを見失わせる。それは河野智美が死んだというのが誤報で、本当はこのいくつものコンビニの中のどこかにいるのではないかと思わせるような、並行世界を旅するような気分だった。


 そうやって一体何軒のコンビニを彷徨っただろう。次第に空は明るみ始め、濃い闇は透明感のある藍色から白みがかった青へ光を伴って変りつつあった。


 ひさしぶりに歩きまわった伊藤幸一は疲れ果て、最後に立ち寄ったコンビニの冷蔵ケースの中からプラカップに入った生クリームのついたプリンを手にとった。


 何も買わずに出て行くこともできたのだけれど、伊藤幸一は十年ぶりに家から出たという事実を、その痕跡をせめて自分の中に残したいと思った。大袈裟だけれど、コンビニでスイーツを買うという行為は記念すべきもののようで。


 レジで金を払う時、伊藤幸一は終始うつむいていた。うっとうしく伸びた前髪と、不精ひげが彼を暗く、胡散臭く見せていた。伊藤幸一本人は自分が他人からどのように見えるのかなんて考えてもみないのだけれど。


 伊藤幸一はレジで一瞬だけ河野智美もこんな風に、こんな感じでレジに立っていたんだろうなと思った。見たことないけれど。でも、いた。生きていた。そして死んだ。


 もし彼女が生きている時にコンビニに来ていたら。河野智美は十年の年月を経ていても伊藤幸一を見出しただろうか。気づいただろうか。中学の時に自分の前の席にいた小太りの少年が目の前にいると。


 会計を終えてもビニール袋を手にしたまま俯いて立っている不気味な男に店員は不審感と恐怖感を覚えたのか、数歩後ずさった。


 その瞬間伊藤幸一ははっと我に返り、ゆっくりと体の向きを変えると、来た時と同じようにふらふらした足取りでコンビニを出て行った。


 伊藤幸一は思った。河野智美は自分に気が付きはしなかっただろう、と。そしてそれは悲しいことではなく、当たり前のことだとも思った。


 彼女が自分を思い出すことなどなくても、いい。ただ生きていさえしてくれれば。他に何も望まない。自分の存在なんてどうだっていい。伊藤幸一はそのことを自分の中に確かめる為に今晩コンビニへ来たのかもしれない。


 去っていく伊藤幸一の背中を店員がいつまでも睨むように見ていた。

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