第5話
初めに異変に気がついたのは伊藤幸一の父親だった。
異変といっても一般家庭においては大したことではないのだろうけれども、この家にとっては大事件だった。
同じ町内のほんの目と鼻の先のコンビニで強盗事件がありアルバイトの女の子が刺されて死んだことから、町は不穏な空気に覆われていた。犯人が逃走中であることの緊張感と血なまぐさい臭いが常に漂っていて、誰もが暗く、そして疲れた顔になっていた。
伊藤幸一の父親は死んだ女の子が中学以来の引きこもりの息子の同級生だとは知らなかった。そもそも息子と他人を結びつけて考えることはできなかった。息子には他人と交わるということが一切ないのだから。
それについてもうずいぶん長いこと考えてきた。どうすれば社会に参加できるようになるのか。どうすれば他人とうまくやっていけるのか。親は何をしてやればいいのか。
十年の間、妻と話し合い、時には喧嘩し、そうして得た結論は「何もできない」ということだった。
同じ男として、息子が家から一歩も出ないということをせめて学力や、得意なことに特化した能力なり資格なりを身に付けて、普通の子供たちとの間のハンディを埋めて、その上で社会人として身の立つようにと考えていたが、周囲がどんなに口を酸っぱくして言ったところで息子にはなんの意欲もなく、家から出る気はさらさらないようだった。
ようするに本人にやる気がなければ、どうにかしなければという危機感がなければ、事態は何も変わらないのだ。なぜって、学ぶことも働くことも、ひいては生きて行くことそのものが当人の意志によるものでしかないのだから。
親が生きている間はいい。でもこの先、次の十年、そのまた先の十年後に自分が死んだら。息子はどうなるのだろう。そのことを考えるとまんじりともしない気持ちになる。そこまで知ったことかという気持ちと、何とかしなければというジレンマと。
このような親としての悩みに疲弊した妻はもう息子を更生させる気はさらさらないらしく、目を背けるようにして専業主婦だったのをやめて働き始めた。
妻もまた社会から隔離され、閉鎖的な暮らしからの脱出を図った一人の人間だったのだ。
確かに家に息子と二人きりでいることは耐えがたい苦痛だろう。妻を責めることはできない。となると、もう、誰の事も責めることなどできはしないのだ。
同じ家に住みながらほとんどまったくと言っていいほど姿を見かけない息子のことを、伊藤幸一の父親は今や幻の生物のように感じていた。
会社帰りに事件現場となったコンビニの前を通ると無数の花が供えられ、手を合わせる年配の女性の姿を見かけた。
花に包囲されたコンビニのブラインドはすべておろされていたが、店内の照明はついていて煌々と明るかった。
連日の報道で事件のことは知っていた。
亡くなった女の子が美大卒であること、広告会社に就職したこと。辞めてアルバイトを始めたばかりだったこと。写真も何度も見た。目の大きな綺麗な顔立ちをしていた。
過熱する報道は彼女と逃走中の犯人とに面識、または何らかの関係があったのではと捜査しているとのことだった。でなければレジから逃げ出した女の子を追って、その背中に飛びかかり幾度も刃物で刺すなどということはしないだろうとの見解だった。
それらのニュースを見る度に伊藤幸一の父親はそんなこともないだろうと思った。
近頃の陰惨な事件の数々を思えば、まるで面識のない赤の他人を襲ったり、通りすがりに刺殺したりする事件がどれだけあったことか。そして逮捕された犯人は口をそろえて同じことを言うのだ。誰でもよかった、と。
だったら。だったら自分で自分を殺せばいいのに。
誰でもいいから誰かを傷つけたい衝動の存在について、伊藤幸一の父親はもっと早くから気づいていた。
それは息子が中学でいじめにあっていた時のことだ。
いじめは悪質を極めた。何度も保護者会だの面談だのを重ねた。そしていじめた側の子供たちから出た言葉は「別に理由はない」だった。
おもしろ半分に。ノリで。なんとなく。なんの感情も持たずに人を傷つけることが日常的に行われているのだ。ぞっとした。彼らの保護者がどんな人間かも気になったが、もっと気になるのは彼らがどんな大人になるのか、だった。
理由もなく人を殴り、嫌がる姿や泣くところを見て笑えるという人間性を、子供特有の残酷さや幼児性という言葉で片付けてしまうには彼らはもう大きくなりすぎていた。
ということは、矯正することもできないだろうということでもある。
その時の彼らが大きくなって、その結果として今こんな時代になっているのだとしたら。
あの中の誰が殺人鬼になったとしても別段不思議ではない。あの頃の彼らの中にすでにその可能性は多分にあった。伊藤幸一の父親は世の中を憂えながら、当時のことを考えずにはおけなかった。
コンビニを通りすぎて家に帰ると、妻は寝室に引き上げたらしく、リビングはしんとしていた。
「ただいま」
誰にともなく帰宅を告げると、素早く黒い影が階段を駆け上がって消えた。野生動物のような動きだった。
テーブルにはコーヒーを飲んだ形跡があった。そして伊藤幸一の父親はコーヒーカップの横に置かれた物に目を留めた。
コンビニのデザートの容器。今食べたばかりらしく、クリームはまだ濡れ濡れとしていて、甘い残り香さえ深夜のリビングに漂っている。
夜を吸い込んだように黒い窓ガラスが鏡の役割を果たして、立ちつくす姿を映し出している。
風のない夜なので庭の木々は静かに直立不動のままだった。それは自然界の平和な静寂だが、伊藤幸一の父親には恐ろしい沈黙に思えた。
この家にコンビニのデザートなどあったことは、ない。妻はこういったものは買わない。買ったことはない。自分も買ってきてはいない。
では、誰が?
伊藤幸一の父親は咄嗟に階段の上に目をやった。物影から息子がこちらを隠れつつ窺っているような気がして。けれどそこには誰もおらず、やはり恐ろしい沈黙があるだけだった。
プラスチックの容器を取り上げ、そっとゴミ箱に捨てる。一体いつから自分は息子を幻の動物のように感じるようになったのだろう。まるでこの世に存在するはずのない、奇妙で、いびつなもののように。
おっとりして、素直で、かしこい子だった。たった一人の我が子。しかしもうその姿を探すことはできない。泣きたいような気持ちが胸を覆う。
伊藤幸一の父親は暗澹とした気持ちのまま台所へ行き、冷蔵庫を開けてビールを取り出した。息苦しさを覚えるが、その理由をはっきり言葉にすることはできず、もやもやしたままでプルトップを引き抜く。夜は、ひどく長い。
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