第4話
河野智美の葬儀の日は土砂降りの大雨になった。
伊藤幸一は彼女が殺害された現場となったコンビニの前に花が手向けられる様子や、近所の人だか同級生だかが彼女の人柄についてコメントするのをテレビを通して見つめ続けていた。
大学を卒業し一度は就職するも、絵画などの自由な創作活動の為に退職。コンビニでのアルバイトを始めたばかりで、まだ一か月もたっていなかったとテレビが教えてくれた。
厚くたれこめた雲が世界を灰色に覆い、雨音の激しさがかえって静寂をもたらしていた。庭先のテラコッタのタイルに打ちつける雨ははねかえり、窓ガラスをびしょ濡れにしていた。
雨に煙る窓越しにもはっきりと分かるほど、庭木の埃は洗い流されみずみずしい緑が美しかった。
さすがにこんな日は猫もやってこないだろう。伊藤幸一はテレビに映し出される河野智美の葬儀のリポートを静かに見ていた。
なぜこんな風に人の死を、悲しみを、聞かずとも分かるようなことを尋ねてまわり、その泣き顔を映像に収めて全国に披露しなくてはいけないのだろう。何の為に。
河野智美について涙ながらに語られる時、伊藤幸一は彼女の死を悼むよりはむしろ鼻白んだ気持ちになった。
茶番だ。これはお涙ちょうだいのエンタメ映画の一場面を模倣しているにすぎない。嘘っぽい。彼女の友人だとかいう人物が現れて、泣きじゃくる場面さえも演出に思える。一体この中で誰が本当に河野智美の死を悲しんでいるんだろう。
伊藤幸一は、ふと、自分だけが彼女の死を心の底から悲しんでいるように思った。
彼女の存在の永遠の喪失は伊藤幸一にとって決定的なまでに絶望的だったし、これまでの引きこもり生活で生きているのか死んでいるのかも分からない暮らしを重ねてきたけれど、この際もう死んでもいいような気持ちがしていた。
もともと河野智美と会うことなど二度となかった。少なくとも彼女と再会するなんてありえないことだと分かっている。なにせ伊藤幸一は十年間誰とも会っていないのだから。けれど、彼女が死んだ今となっては「ありえない」と思っていたはずの現実の中に1%の可能性があったように思えて、惜しくてならなかった。彼女の死は伊藤幸一からそのたった1%の希望を奪ってしまったのだ。「もし」「いつか」「万が一」「遠い未来で」心の奥底にひっそりと横たわっていた希望たち。
希望を失った先にあるのは、絶望のみ。伊藤幸一は引き続き、防犯カメラが捉えた犯人の映像が公開されたというニュースを見ていた。
雨は一層激しさを増し、ニュースの合間に時折警告音のようなアラームが鳴って、画面上部に警報のお知らせが流れた。
猫は、こんな日はどこで雨を、危険をやりすごすのだろう。雨を避けてどこかで身を小さくしているのだろうか。濡れながら、さまよったりしているのだろうか。
野良猫たちは常に死の危険と隣り合わせになりながら、頼りない生を、逃げながら、隠れながら生きている。それはかつて伊藤幸一が学校や攻撃的な同級生たちから逃げ、自室に隠れるように生きてきたのと同じに思える。
ひどく孤独で、それでいて安らかな日々。死の危険は神経をすり減らすだけのものではないのだ。諦観の念で受け入れることができればそれは安らぎにとって代わる。死は終わりなのだ。終わるということの安らかさよ。
けれど、今。河野智美が死んだ今では。
気がつくと伊藤幸一は膝に置いた拳を、気がつくと固く握りしめていた。
防犯カメラの捉えた映像に映っていたのは帽子を目深にかぶり、マスクとサングラスで完全武装した痩せた男だった。
この映像を公開して、いったい誰に犯人の顔が分かるというのだろう。
服装はありきたりなジーンズにTシャツ。足元はスニーカー。背格好からして若い男のようだが、だったら尚のことこの無個性な姿から人物を特定するのは不可能に思える。
それとも警察には、プロには分かるのだろうか。例えば、もっと細かしい特徴を捉えるだとか、サングラスとマスクで顔を隠しても表情の輪郭は窺い知れるとか。
警察は検門を行い、犯人逮捕に向けて力を注いでいるという。それらの姿勢が報道される一方で、河野智美がなぜ逃げようとしたのに執拗に追われ、幾度も刺されなければいけなかったのか。その理由が、推測が、テレビの中では盛んに行われていた。
伊藤幸一はテレビを消すとおもむろに立ち上がり、庭に面した窓を開けた。雷雲がごろごろと不穏な音を響かせている。遠くに稲光が閃くのが見える。
河野智美が死ななければならない理由など、どこにもない。伊藤幸一ははっきりとそう思った。なぜ彼女がコンビニ強盗に遭遇し、刺殺されなければいけなかったのか。もはや理由などどうでもいいことだ。彼女を殺した人間がいて、それがまだ捕まらずにこの空の下で息をしている。伊藤幸一はその事実に耐えがたい苦悩を味わっていた。
もしも犯人を見つけることができたなら。伊藤幸一はそんなことが自分にできるとは思わなかったけれど、でも、もしできたとして、そうしたら警察に突き出したりせずこの手で殺すだろうと思った。自分の中の明らかな殺意は激情的なものではなく、淡々として、落ち着いたものだった。伊藤幸一にとって殺意が復讐と言う名の希望にとって代わる瞬間だった。
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