第3話

河野智美と伊藤幸一は同級生だった。


 学校に行かなくなり、世界のすべてから自らを隔離してはいても、彼女を忘れることはなかった。伊藤幸一の中の河野智美は十五歳のままで、永遠だった。


 背が高く、色白でほっそりとした河野智美は美術部に所属する物静かな少女だった。


 どちらかというと大人びた空気をまとっていて、ぴんと伸びた背筋には同級生の誰にも想像できないような凛とした意思が存在するかのようだった。


 伊藤幸一はそんな河野智美の後ろの席だった。


 中学二年で同じクラスになり、最初に決められた座席の目の前に河野智美の背中があった。


 河野智美は長い髪を二つに分けて三つ編みにする校則をきちんと守っており、露わになったうなじの白さと細さに伊藤幸一は思わずはっとした。


 綺麗な子だというのが第一印象だった。


 伊藤幸一はその頃すでにいじめの真っただ中にいて、教室の誰かと不用意に口をきくことはできなかった。だから河野智美ともろくに目をあわせなかった。うっかり口を開こうものならどんな目にあうか分からないので、ただ一日を地蔵のように沈黙し、体を固く縮こまらせていた。


 教室のイニシアチブを握る男子生徒の群れが、伊藤幸一を小突きまわしたり、休み時間に読んでいる本を取り上げて笑いながら窓から放り投げる時、彼らに類する女子たちもまた笑い声をあげて伊藤幸一の小太りな体型や、思春期特有の脂っこい顔を嘲り、まるで汚いもののように糾弾し、存在のすべてを否定した。


 伊藤幸一は自分を攻撃してくる男子生徒たち同様に、教室の女子たちも嫌いだった。忌み嫌われ、甲高い声で彼女たちからも攻撃的な言葉で滅多打ちにされる時、伊藤幸一はその一人一人を心の底から呪った。


 といっても、彼が誰かを呪わない日はなかった。伊藤幸一は苦しい時いつも今すぐに学校に爆弾が落ちて何もかもを吹き飛ばしてしまえばいいと思ったし、暴力を振るう男子グループの体がまっぷたつに分断したり、脳漿が飛び散ったりすればいいと思った。あのちゃらちゃらした女子たちも、内臓が引きずり出されればいいと思い、中学生にしてすでに化粧に必死な顔もピカソの絵のように歪み、抉れてしまえばいいと思った。ようするに、死を。そして不幸を。


 けれど、学校が爆発したりすることはなく、不幸は結局伊藤幸一一人のものだった。


 しかし、である。そんな暗黒の日々にたった一筋の光を見せたのが河野智美だった。


 かといって彼女が伊藤幸一を救おうとしたとか、そういうわけではない。彼女はただ、彼女自身であったに過ぎない。それを目の当たりにした伊藤幸一だけが彼女を生涯ただ一人の天使だと思っただけだった。


 まだ一学期が始まったばかりの頃。伊藤幸一はその日の日直で、国語教諭から集めておくように言いつかったノートを机に山と積み上げ、名簿と照らし合わせて提出者に丸をつける作業を行っていた。


 その中で一冊だけ名前の記載のないノートがあった。伊藤幸一は常ならばそのままノートを職員室へ持って行き、無記名のノートがあった旨を報告するだけで自らその持ち主を探そうとすることはなかった。できるはずもなかった。


 が、伊藤幸一はクラス全員の名前に丸がついているのに河野智美だけチェックがないことに心づいた。


 伊藤幸一は目の前の席の女子生徒が休み時間に本を読んだりしていることになんとなく親近感のようなものを感じていた。と同時に、他の女子生徒と違って静かな調子で受け答えする様子やそっと密やかに微笑するところに「彼女は善良な人間だ」と決めつけていた。


 話しかけるだけで汚いものを見るような目で人を睨んだり、天然痘のような致命的なうつる病気の者に近づかれたかのような悲鳴をあげ、飛んで逃げて、その後に仲間たちと笑うような酷いことはしない、と。


 それを信じられるだけ彼女はきれいで、混じりけのない純粋な澄んだ水のようだと伊藤幸一は思っていた。


 声をかけるのには大変な勇気がいった。もし、万一彼女に嫌な顔をされたらと思うと内臓が抉られるような痛みを感じたし、話しかけるところを他の生徒たちに見咎められ、からかわれたりしたらと思うと全身からどっと冷たい汗が噴き出した。


 自分のせいで彼女に迷惑をかけたり、彼女が傷つくことがあったら。伊藤幸一はその時は死んで詫びなければならないと思った。それが伊藤幸一の一世一代の覚悟でもあった。大袈裟だがその時の伊藤幸一にとっては切実で、真剣な思いだった。


「河野さん」


 伊藤幸一は消え入りそうな震える声で彼女の背中に声をかけた。


「河野さん」


 二度呼びかけると彼女は振り向いた。


 伊藤幸一は振り向いた彼女の顔になんの感情もないことを認めると、安堵と共に、ひどく気恥かしくてそっと視線を逸らした。


 青い表紙のノートを差し出し、

「これ、河野さんのだと思うんだけど……。名前がないから……」

 と、ぼそぼそと言った。


 河野智美は「あっ」と小さく声をあげると伊藤幸一の手からノートを受け取った。


 伊藤幸一の耳からは教室の喧噪は消え去っていた。ただ目の前の河野智美の顔や息遣いだけが存在していて、他に何も見えなかった。自分の鼓動に自分自身で驚き、このままぶっ倒れたりしたらどうしようと思うほどだった。


 河野智美は自分の机に向きなおりノートに名前を書き入れると、再び伊藤幸一を振り向いた。


 そして言ったのだ。


「かわのじゃなくて、こうの。ともみじゃなくて、さとみ」

「えっ」

「変でしょ。でも、そうなの。わざと読みにくくさせてるみたいよね」

「……」

「伊藤君は読みやすい名前でいいね。誰も間違えない」

「あ、うん……」


 河野智美はにっこりと微笑んだ。


 伊藤幸一はノートを受け取り、彼女の名前に視線を落とした。


 始業のベルが鳴ると河野智美はもう一度微笑んでみせた。


 それからというもの、彼女の存在だけが学校へ行く唯一の「理由」となった。


 特別親しくなったわけでは、ない。そんなことできるわけもないのだから。でも河野智美は朝は自然と挨拶をしてくれたし、プリントを受け渡しする時に伊藤幸一と指先が触れても嫌な顔をしなかった。一ミリでも距離を離したいといわんばかりに机をずらすこともせず、ごく自然な調子で、他の誰にするのにも同じようにして接してくれた。


 学校という世界で河野智美だけが伊藤幸一を同じ人間として扱ってくれていた。


 まとまった話をしたことはないし、伊藤幸一が教室の悪童から殴られたりする場面を河野智美も見ていた。情けない涙も、腫れた顔も。それでも彼女はなにも変わらなかった。それがどれだけ伊藤幸一を救ったことだろう。


 学校に行かなくなっても、伊藤幸一は河野智美のことだけは忘れなかったし、折に触れてはSNSを辿って同窓会などの情報を探り、彼女の行く末を見守っていた。


 そういう行為の不気味さはさておき。伊藤幸一は河野智美の幸せだけを願うようになっていた。


 もはや恋だとかいうレベルではなかった。河野智美に女性性を求めるだとか、性的欲望を覚えるだとかはなかった。そんなことを考えることが罪に思えて。


 伊藤幸一はそういう自分の心情をまるで宗教のようだと思った。彼女に対する感情は「信仰心」だと。彼女の汚れなき心や優しさに対する憧れ。


 そんなわけでしょっちゅうではないにしても、伊藤幸一は河野智美の進学した高校や大学のことは、詳しくはないにしても知っていた。


 美大に進学した彼女が、なぜ今になってコンビニでバイトしていたのか。そこまでは伊藤幸一も知らなかった。でも、あんなに心の美しい河野智美が不幸になるわけがないから、どこかで幸せに、充実した人生を送っているものとずっと信じていた。今の今まで。


 伊藤幸一は事件のあった日から四六時中、昼も夜もなくテレビでニュースを追い、インターネットで事件の報道を網羅した。


 地方都市のコンビニ強盗は巷でよくある事件の割に途切れることなく報道され続けていた。


 事件から三日後のことだった。伊藤幸一は誰もいない家で事件の経緯をワイドショーで見ていた。犯人は防犯カメラの映像があるにも関わらず依然として逃走中であること。警察はカメラの映像を公開し、捜査にあたっているということ。もう何度も繰り返し見た情報だった。


 伊藤幸一は庭を何かが横切る影にふと視線を移した。その拍子にテレビの中でキャスターが「新しいニュースです」と横から差し出された紙きれを受け取った。


 庭を通りすぎたのは近所の野良猫で、テラスで一度立ち止まってどういうわけかガラス越しに室内を見つめて、伊藤幸一の姿を視認してからゆうゆうと歩き去って行った。時々見かける太った猫だった。どこかで飼われているのか、餌をもらっているのか、野良猫にあるまじき大きさで、毛足が長く、滑稽なことに顔の造作がぎゅっと真ん中に寄っているので伊藤幸一は秘かにその猫に「ぶさいく」と名をつけていた。


 テーブルに置いたコーヒーはすっかりぬるくなり、菓子の包みが散乱していた。


 犯人が捕まっていないことで近隣住民は不安に陥り、小学校では集団登下校を実施、町は厳戒態勢の如くあちこちに警察官を配備しているのが幾度も画面に映し出される。


 皮肉なことに、長らく家から出ない伊藤幸一はそれらの映像によって町の微細な変化を知った。


 例えば、国道沿いにあったはずの大衆食堂が全国展開するチェーンのラーメン店になっていたり、ファミレスが回転寿司に姿を変えていたりといった具合に、伊藤幸一の預かり知らぬところで世界はまわっているのだという事実がそこにはあった。


 街路樹はいつの間にか大きくなり、花壇の植栽は植え換えられ、駄菓子屋は消滅し、中学の制服さえも変わっていた。


 伊藤幸一はこれらの事実の前で初めて自分が世の中とはまったく関わりのない、別な世界で生きているのだなということに考えが至った。


「連日報道しておりますコンビニ強盗事件の被害者、河野智美さんが今日未明死亡しました」

「えっ?」


 キャスターが「新しいニュース」を読み上げた瞬間、伊藤幸一は思わず頓狂な声をあげた。


 次いで画面にはまるであらかじめ河野智美が死ぬと分かっていたように、周到に準備された彼女の顔写真が映し出された。


 同級生の誰かが流出させたのだろう河野智美の顔写真は、中学ではなく高校の制服姿で、長い髪も澄んだ瞳も変わらず美しかった。


 キャスターは引き続き事件の際の河野智美が犠牲となる様を克明に述べ、彼女の死因を沈痛な面持ちで付け加えた。


 刃物による傷の大量出血。意識不明。傷は数か所。犯人は逃げようとした河野智美を狙ったかのように執拗に刺し、傷の一部は肺近くにまで達した。警察では犯人が河野智美を狙って犯行に及んだ可能性も視野にいれ捜査している。


「……えっ……」


 伊藤幸一は魂が抜けるような声を漏らした。わずか一瞬だが目の前が真っ暗になった。


 もしやそうなるのではないかという気はしていたのだ。意識不明の重体と聞いてからずっと。大抵の場合その後に死んでしまうから。


 無論、彼女の死を待っていたわけでは、決してない。が、死んだという情報をいち早く聞きつけるためにニュースにへばりついていたというのも否定できなかった。


 犯人逮捕が先か、彼女の死が先か。伊藤幸一の心臓が次第に早い鼓動を鳴らし始めた。


 テレビの中では現場となったコンビニの映像と、犯人の特徴が述べられている。伊藤幸一は目をかっと見開き、それらの情報を漏らさず脳に焼きつけようとしていた。


 河野智美が死んだ。見開いた目から、涙が零れ落ちた。河野智美が死んだ。胸の中、いく度も繰り返し呟く。


 思えば伊藤幸一がこんなにも激しく涙を流したのは学校へ行っていた時以来だった。彼の平和な、閉じられた世界は大切な人の死によって図らずも開かれようとしていた。

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