第2話
伊藤幸一の生活には昼も夜もなかった。
目が覚めると耳をすまし、階下の様子を探る。部屋を出て階段の下り口まで行き、気配を窺う。
父親は日中は当然会社に行っていたし、母親も働いている。誰もいないことを確かめると伊藤幸一はそろそろと階下へ降りて行く。
以前は母親は働いていなかった。出産を機に仕事を辞め子育てに専念していたのだが、その育てた息子が学校でいじめにあい不登校になり、そういう子供たちが行くカウンセラーのいる特別な学校にも行かず、高校にも進学せず、立派なひきこもりとなった時に彼女は「子育てに専念」してきた立場からの脱出を図った。
これまで息子が再び笑い、社会に参加し、身を立てていくことをどれだけ願ってきたか知れない。その為ならどんなことでもするつもりだった。が、家族との会話も避け、部屋で寝ているのか起きているのか、何をしているのかもさっぱり分からない状態の息子にそんなつもりが毛頭ないと分かると、一体どのような努力をすればいいのかその方法も分からなくて、夫が出かけた後に居間で息子が息をしているのか、死んではいないか息をつめて窺い、怯えることに彼女は心底疲れ果ててしまった。
もうずいぶん長いこと息子の部屋には入っていないが、夜中に起き出して冷蔵庫から食糧を漁り、自室に引き上げていくのは知っていた。その残骸がそのまま部屋に散乱していることも。
彼女は息子を野生動物のようだと思った。自分の寝ぐらでひっそりと息を凝らし、そっと獲物を奪い去ってまた自分の巣へ帰る。ごくまれに息子が階段を駆け上がるその残像を見ると、あれが自分の育てた息子なのかと胸が潰れそうになった。
親子といえどもこのまま同じ空間に二十四時間居続けることは到底できないと思った。
再び会社勤めをしたいと申し出た時、夫は一瞬驚きはしたものの、静かに受け入れた。恐らく同じことを考えていたのだろう。息子が二階の部屋で風呂にも入らず異臭を放ちながら、生活しているというより「棲息」していると言った方が正しいような状態でいるのを眼前に突きつけられて生きて行くのはこちらにしても苦しいものだということを。
二人は心の奥底で思った。息子の問題については、時間が解決してくれるかもしれない、と。そんな事があるわけもないのに。そうと分かっていてもそれが唯一の希望だったのだ。彼らもまた息子同様に絶望の中に生きていた。
両親不在の家は伊藤幸一にとって静かな森のようだった。
埃まみれでゴミだらけの部屋に対して、掃除の行き届いたすっきりとした階下は緑なす豊かな森。伊藤幸一はリビングのソファに腰を下ろすと、静かに瞼を閉じた。
伊藤幸一自身は、母親が仕事に行き始めた理由を知らない。いつだって彼は何も知らないのだが。
台所には母親が買い置きしているインスタント食品や菓子、清涼飲料水の類いがあり、伊藤幸一を常に満たすようになっていた。
リビングの窓にはレースのカーテンがかけられていて、カーテン越しに庭が見えていた。
姫林檎の木があり青い小粒な実がなっていて、テラコッタのタイルを貼ったテラスにはハーブの鉢が並んでいた。塀際には雪柳が植えられているが、とうに花は終わり、今はこんもりとした緑の塊となって四方にその枝先を伸ばしつつあった。
塀の向こう側は住宅街の静かな道が整然と続く。
塀は伊藤幸一にとっては堅牢な城壁だった。この外に最後に出たのはいつだったろう。もう思い出せない。
梅雨入りしたばかりで蒸し暑い空気が外の世界を覆っている。伊藤幸一はエアコンのスイッチをいれた。
まったく太陽を浴びないので不気味なまでに白く、体を動かすこともしないので筋肉は極端に衰え、かつては健康的にぽっちゃりしていた体躯も萎びたようになっていた。何もしないのでほとんど空腹は感じない。なんとなく口寂しくて「食べる」という行為をするだけで、伊藤幸一からはかつての面影は一切感じられなかった。
こうして生きているのか死んでいるのかも分からない生活をしているのに、彼の爪や髪は伸びるのが早い。我ながら不気味なので爪は数日おきに切る。髪は肩より長くなっていたが、これも時々台所の鋏で適当に切る。脂じみて汚れた髪束を台所のごみ箱に捨てる時、伊藤幸一は自分の死体を葬るような気持ちになった。さっきまで成長していた生命の残骸。そして思うのだ。髪が伸びるということは、自分はまだ生きているのだな、と。
冷蔵庫から麦茶を取り出して飲む。カーテン越しに近所の野良猫が庭に降り立ちテラスで寝そべるのが見えた。
猫たちはこの家が終日無人であると思っているのだろう。自由に行き来して、くつろいでいく。伊藤幸一は室内からそれを見つめるのが常だった。
両親が思うほど彼は夜通し起きているわけではなかった。
インターネットの動画サイトを見たり、映画を見たり、ゲームをしたりしても午前三時を過ぎる頃には気がづくと眠っている場合が多く、そして昼前に目が覚める。昼間はリビングでテレビを見たり、庭の猫を眺めたりする。それだけ。
何かを考えるということは、ほとんどない。今の自分の生活について。または将来について。こんな生活が一生続けられるはずもないと頭では分かっているものの、だからどうするのかとかいう具体的な考えは何一つ浮かばない。やりたいこともない。それ以前にできることが何もない。願うとすれば世界が滅びればいいということぐらいだった。そうすれば自分の将来もそこで労せずして終わるのだから。
麦茶を飲みながら、テーブルにあった煎餅の入った缶を開ける。ざくざくと音を立て煎餅を齧りつつ、伊藤幸一はテレビのスイッチをつけた。
お昼のワイドショーが最近の芸能界のゴシップや政治家の言動、政策、殺人事件や詐欺について時に怒りをこめて、時に嘆き、そして全体的には明るく楽しげに、所詮他人事のエンターテイメントの如く垂れ流していた。
どんな事件も当事者でない限りは他人事なのだ。伊藤幸一はそのことを誰よりも知っていた。
指先についた煎餅の塩を舐めながらリビングのソファに落ち着き、ぼんやりと画面を眺める。庭ではすっかりくつろいた野良猫がぐうぐう寝ていた。
テレビの画面にはコンビニの店頭と非常線が張られた光景が映し出され、司会者が真剣な表情でコンビニ強盗のニュースを説明していた。コンビニが伊藤幸一の家から近いことから、彼はニュースを注視した。
強盗は明け方、調度コンビニの前に商品を満載したトラックが乗りつけて、慌ただしく商品の補充を行っている時にどさくさに紛れるように押し込んできたとのことだった。
画面が切り替わると現地リポーターの女が緊迫した様子で現場となったコンビニを背景に、興奮しながら犯行の様子と犯人の逃走を喋っていた。
コンビニのアルバイト店員が刃物で刺され、意識不明の重体です。女は最後にそう結んだ。
伊藤幸一は彼らが事件についてひどく興奮し、かつ、半ば嬉しげに高揚しているように思えて鼻白んだ。
こんな事件を扱う時でさえも彼らは必要以上に劇的な表現で、口調で、まるでショーを盛り上げんとするかのように語る。人が一人死にそうだというのに。
やはりそれも所詮「自分に直接関係がない」からだろうか。
かつて自分がいた環境もそうだったなと、ふと伊藤幸一は思った。
自分がいじめられていた時、学校はその実情を調べるべく生徒たちに聞きこみをし、面談を行い「伊藤幸一と彼をめぐるいじめ問題」を語らせた。
沈黙を守る者がいる一方で、妙に興奮していじめの現場を詳細にべらべらと喋る者、悲劇的な様相で伊藤幸一に同情を寄せるコメントを述べる者。その誰もがほとんど常軌を逸しているような興奮の中にいた。そのくせ実際には関わる事を恐れ、あくまでも傍観者の立場で伊藤幸一を無視していた。
自分に関係のない事件は対岸の火事を見るのと同じだ。事故現場をわざわざ見に行く野次馬根性だ。
結局、人の不幸は楽しいということなのだろう。伊藤幸一は軽く頭を振った。
チャンネルを変えようと思った時だった。
引き続き報道されているコンビニ強盗の、その刺された被害者の名前が画面に出ていた。
河野智美。こうのさとみ。二五歳。アルバイト店員。
「かわのじゃなくて、こうの。ともみじゃなくて、さとみ」
伊藤幸一の頭にその声が蘇った。
驚いて立ち上がった拍子に麦茶の入ったコップが倒れて中身が盛大にこぼれ、床にまで滴り落ちた。
テレビの中では被害にあったアルバイト店員の名が繰り返し呼ばれていた。
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