僕はぬけがらだけ置いてきたよ

三村小稲

第1話

1.

 六畳の部屋は南に向いて窓がひとつあるが、その窓のカーテンが開けられたことはもうおおかた十年はなく、部屋中いたるところに厚く埃が積り、フローリングの床はその板材が見えなくなるほど雑誌や食べ散らかした菓子、ペットボトル等が散乱していた。


 空気は淀み、身の置き所があるとすれば薄汚れたベッドだけ。昼も夜もなく電気がつき、消え、テレビがつき、消え、暴力的なゲームの操作音と動作音が繰り返される。


 赤裸々なセックスを映し出すDVDが流れては消え、そうしている間にも夜は明け、朝が来て、また陽が暮れて夜が来る。時間だけは残酷なまでにすべての人間に平等に訪れ、規則正しく流れて行く。


 閑静な住宅地の一軒家。その二階に生息する伊藤幸一の上にも十年という歳月は確実に流れていた。


 伊藤幸一が自室にこもり、世界との関わりを一切遮断したのは彼がまだ十五歳の時だった。そこから十年。彼にとって十年という時間は変化もなければ、なんの積み重ねもない、色も匂いも形もない漠然としたものにすぎなかった。


 近隣住民は完全に「ひきこもり」となっている彼の存在に半ば恐怖を感じていた。彼がいつか何かやらかすのではないか、具体的に言うと両親を刺殺するとか、性犯罪を犯すとか、自室で首をつるとか、とにかく不穏な事柄のすべて。彼の存在が闇に包まれているだけにその可能性は極めて高いものように想像され、誰もが伊藤家を嫌な目で見ていたし関わりを持ちたくないと思っていた。


 偏見や歪んだ想像ではなく、近年の荒んだ近親間で起こる犯罪傾向、幼女に向けられる変質的な性愛の衝動的行動といったニュースを日々聞かされている人々にとって切実かつ、非常に現実的な懸念。


 それは同じ家に起き居する両親にしても同じ気持ちだった。いや、彼らこそが最もその可能性を否定したくともできない疑心暗鬼の中にいて、だからこそ十年の長きに渡って社会と一切のコミュニケーションを絶った一人息子が今さら「ひきこもり」という状態を脱することも、ネットを利用しての社会生活への参加にもむしろ消極的だった。今になって彼を社会へ出したとして、そこには心配しかなかったし、想像できるすべての最悪の事態に現実味が帯びてくるだけだった。


 彼らが一人息子に無関心だったわけでは、ない。


 事態はそんなに単純なものではなかった。ただ彼らは可能性について考え、常に心臓を緊張させ、心もとなく震えていた。


 親としての責任を問われれば、彼らは「ひきこもり前」と「ひきこもり後」の様子を思い返し、首を振るだろう。彼らだって何も好き好んで息子をひきこもりにしたわけではない。学校に行くぐらいなら死んだ方がいいと言った息子の生命を守るには、その言葉の通りにするより他なかったのだ。


 あのまま無理を通せば息子が死ぬこともさることながら、他の誰かを殺すことも十分に考えられた。彼らは親としてできること、その時の最善を尽くした。そしてその結果として息子のひきこもりは十年にわたった。彼らが望んだのはただ一つ。息子の生命を守ること。それのみだった。


 伊藤幸一が十五歳の時。実際にはもっと前から、彼は学校と折り合いが悪かった。有態に言えば、彼は陰惨ないじめの嵐のど真ん中にいた。そしてそれは誰にどうにかできるというものでもなかった。


 両親は幾度も学校に足を運び、教師たちは汲々として事態を解決しようとし、当事者(伊藤幸一本人)と、いじめている側の複数人を呼び、話しあいを持ち、家庭訪問を繰り返した。が、そのどれもが事態を好転させることはなく、結果はすべて真逆をいった。


 大人達が間に入って彼の生命を、人生を救おうとすればするほどいじめの嵐は激しさを増した。


 残酷な子供達は巧妙に伊藤幸一を連れ出し、大人の監視の目を盗んでぼっこぼこに彼を殴打した。湿ったトイレの床に彼を蹴り倒し、便器に顔を突っ込んでは水を流した。教科書はびりびりに破かれ、体操服は盗まれ、財布から金を巻き上げられた。


 そうされることの理由がなんだったのか。それは誰にも分らなかった。たぶん、伊藤幸一を迫害した者たち自身でさえも。


 伊藤幸一は小太りで眼鏡をかけていて、その奥の目は小さく、小動物を思わせるように怯えていた。おとなしく、教室ではいつも本を読んでいるような生徒で、成績は優秀だった。スポーツはその体型のせいもあって全般苦手だったが、そんな生徒は他に何人でもいた。だから彼のかしこさや鈍くささがいじめの理由ではなかった。


 当初は友人もいくらかはいた。同じように読書などの趣味を持つ内向的な友人達。しかし伊藤幸一が教室のイニシアチブを握る一団から目をつけられ、迫害されるようになると幻のように消え去った。


 彼らは伊藤幸一と関わることで自分も攻撃されるのを恐れたのだろう。ようするに、自らの保身の為に伊藤幸一との交流を断絶したのだ。


 伊藤幸一は裏切られたと思った。誰ひとりとして彼に味方する者はなく、ましてや保身のために彼をなぶる側に加担したのだから、それを裏切りでなくてなんだというのだろう。伊藤幸一はいじめを受けるのと同じくらい、友人達の手によってひどく傷つけられた。伊藤幸一は完全に孤立した状態で一年半ほど過ごした。この頃からもう彼は他人を信じるなどということは実に馬鹿げたことだと思うようになっていたし、友情のようなものを信じていた自分を愚かだとも思った。


 そして十五歳になり決断したのだった。もう二度と、永久に、学校になど行くことはしない。誰とも関わりたくない、と。


 それが後の人生にどんな結果をもたらすかは考えなかった。例えば学習の遅れや進学の問題、社会に出て行くであろう将来のことなどは。そんなことを考える余裕はなかったし、将来に対する希望はかけらもなかった。ただ、今を生きる、それだけで精いっぱいだった。


 結局、誰も彼を救うことはできなかった。彼はそのことに絶望していた。ならば自分で自分を救うより他にない。それが彼の人生の終わりと始まりとなった。

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