第62話
三階建ての寄宿舎の屋根の上からは、街がよく見渡せた。竜蝕の、夜のような暗さの中に、ランタン草の光が無数にきらめいている。黒い布地の上にきらきらしたビーズをちりばめたような景色だった。そして、その中央にはひときわたくさんの光が集まって列を作っていた。きっとあそこでパレードをしているんだろう。その喧騒がかすかに聞こえてくる。
「本来なら、今頃俺は、あそこでレースの優勝者としてちやほやされてるはずだったのにな」
彼はパレードの光をじっと見つめながらつぶやいた。
「少なくとも、少し前まではそうなるものと信じてたよ。レースで優勝して、フェトレに祝福されて……そんな光景を夢見ていた。それがどうしてこうなっちまったんだろうな。つくづく世の中ってものは上手くいかないもんだな」
「……そうだね。本当に世の中ってのは思い通りにはいかない」
僕は苦笑いした。ここ数日で嫌というほどそれを思い知らされたばかりだ。
「まあ、まさか俺の代わりに君がレースに出るなんて、夢にも思わなかったけれどね。また随分と無茶をやったもんだな。君はバカだ。それもとびきりのバカだ」
「バカは一回でいいよ」
「そうだな、君は本当にとてつもないバカだ」
僕達は笑った。
「そして、俺も同じくらい、いや、それ以上のバカだった。自分がこの世で一番不幸だと思いこみ、何も見えなくなっていた。今日君と飛んで、ようやく気付いたよ。俺は何もかも失ったわけじゃなかったって……」
「ワッフドゥイヒ、君は――」
そこでようやく僕は気付いた。フォルシェリ様がなぜ感覚共有の術とやらを使ったのかを。
「ヨシカズ、君と一緒に飛べてよかった。俺は今日のレースをずっと忘れない。何があっても。どんなに時がたっても」
彼は僕の手を握った。その力にはむらがあり、指先は少し震えていた。そして、うつむいたまま彼が言った「ありがとう」という言葉は、とてもかすかな響きだった。顔は見えないが、どういう表情をしているのかはよくわかった。「ああ」とだけ短く答え、手をひっこめ、前に向き直った。きっと今は僕に顔を見られたくないだろうから。
僕達はそのまま、祭りのパレードを見続けた。やがて、黒い空の端に光の切れ込みが入っているのに気づいた。それは次第に太く、大きくなっていく。ああそうか、竜蝕がもう終わるんだ……。
黒い天蓋の向こうから現れた空はオレンジ色で、まるで夜明けのようだった。実際は夕方で、これは黄昏の色だ。そして、夕陽が差しこんでくるとともに、街を覆っていたランタン草の光は精彩を失ったように次々と目立たなくなっていった。しかし、パレードはますます活気づいているようだった。人々の歓声がより大きく響いてきた。
「そういえば、君は遠くの世界から来たって言ってたな」
ふいにワッフドゥイヒが口を開いた。
「いったい、どういうところだ? そこにはこんな祭りはあるのか?」
「それは……えっと……」
何て言ったらいいんだろう。うまい言葉が見つからない。
「一つ言えるのはさ、こことは全然違う世界だってことだよ。そう、まるで……違う本の中の世界っていうか」
とっさに、夢で見た図書館のような場所が思い浮かび、こんなことを言ってしまった。
「本?」
「うん。世界の数だけ本があって、それぞれは全く違う世界で、みたいな?」
「もしかして君は『世界の紡ぎ手の子』の話をしているのか?」
「なんだよ、それ?」
「この国に古くから伝わる言い伝えのようなものさ」
彼はその言い伝えを詳しく話してくれた。なんでも、この世界のすべては『世界の紡ぎ手』によって一冊の本に記されているとされ、彼らは男女、二人で一つの存在だそうだ。男が本の文章を書き、女が絵を描く。そうやって、彼らは無数の世界を紡ぐ……まあ、それだけならよくある神々の世界創造話だ。だが、彼らには子供がいた。そして時々、両親の紡いだ世界の本にいたずらをするのだという。それにより、時々人間には理解しがたい不思議な現象が起こるとされ、それを指して、昔から「世界の紡ぎ手の子の悪戯」と呼ぶのだそうだ。
「きっと君は、彼女によってこの世界に導かれたってことなんだな」
「彼女?」
「ああ、世界の紡ぎ手の子っていうのは、小さな女の子と決まってるんだ。泣き虫で、さみしがりで……だから悪戯をする」
「……なるほどね。それで正解かもしれない」
夢で見た少女、トリックスターの泣き顔がよみがえってきた。あいつのことは相変わらずよくわからない。けれど、今、たった一つだけわかった。あいつが僕をからかったり、煽ったりしてたのは、寂しかったからだ。あいつは僕にしか見えないやつだった。きっと、誰よりも孤独だっただろう。
思えば僕も少し前まではそうだった。誰とも上手く話せず、孤独だった。だからこそ、僕にはあいつが見えたのかもしれないな……。
「ワッフドゥイヒ、僕はそろそろ、自分の世界に戻るよ」
彼に腕輪を手渡しながら言った。僕はもう悟っていた。この世界で自分の果たすべき役割が終わったことを。
「またここに戻ってくるのか?」
「……わからない」
あのノートに、また僕は何か書けるんだろうか。そして、再び、ヨシカズ・サワラはここに来られるんだろうか。本当にそれはわからないことだった。
「俺はずっと待ってる。君が戻ってくるのを」
「ああ」
僕達は固く握手した。彼の端正な顔を見ていると、次第に胸が熱くなり泣きだしたい気持ちになってきた。
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