第63話
翌日、山岸は眠り病から回復した。僕達はそのまま元の世界に帰った。戻ってみると、そこはやはり僕の部屋で、僕と山岸はうつ伏せになって重なっていて、妹の智美が変な目で僕達を見ていた。何もかも、来る前そのままの状態だった。
その後、山岸はすぐに帰宅した。部屋に一人残された僕はあのノートを開いた。やはりそこには『ワッフドゥイヒ・フォン・レザルツは、彼自身の家の事情でラーファス学園竜都を去ることになった』と書かれていた。僕はシャーペンを取り、その続きにこう書き足した。『だが、それは彼の友人ヨシカズ・サワラにより、未然に防がれ、事なきを得た』とても簡潔だが、そう書いてしまうと、とたんにすべてが終わった気がした。そうだ、彼の友人はもう、彼の物語には登場しない……。ノートを閉じ、机の奥深くにしまった。
その日から、僕と山岸はもうラーファスに行くことはできなくなった。彼女に平手打ちされても痛いだけだった。僕はその理由がなんとなくわかっていた。ラーファスでの経験はそのまま僕の胸の中にあり、停滞していた。それはもう物語ではなくただの記憶だった。
僕達は教室などで顔を合わせる度に、断片的にそれを語りあった。二人で話しているところを他の生徒に見られることもしばしばだったが、もうその視線は気にならなかった。学校の帰り道、ガラの悪い若者がコンビニの前にたむろしていても、僕はその前を素通りすることができたし、家に帰って妹の友達がたくさん遊びに来ていても、普通にあいさつできた。
山岸にも変化があったようだった。彼女はある日、僕をあの人気のない校舎裏に呼び出した。そして、二人きりになったところで、思い切ったように自分から眼鏡を外した。
「ど……どう?」
彼女は顔を真っ赤にして僕を見つめた。
「どうって……いいんじゃないか?」
僕は素直にそう答え、彼女に微笑みかけた。すると、その顔はますます真っ赤になった。
そして、彼女はすぐに眼鏡をかけ直してしまった。
「わ、私、いつか眼鏡なしで人前に出れるようになるの。それが私の目標なの。今はまだ無理だけど……」
山岸はうつむき、もじもじと恥ずかしそうに言うと、「だからお願い、そのときまで協力して」と言った。
「うん、いいよ」
「ほんと? ありがとう……」
山岸はうれしそうに笑った。眼鏡をかけていようといまいと、そこにいる彼女はとてもかわいかった。僕もちょっと顔が熱くなってしまった。
それから僕達は少しだけ二人で過ごす時間が増えた。やはり時々ラーファスでのことを話した。そしてある日、僕は提案した。あそこでの体験をきちんと物語としてまとめよう、と。
「あっちに行けるようになってから、作品としてはすごく中途半端のまま放置って感じだっただろう? それじゃ、ダメだと思うんだ」
「そうね。一緒に物語を完成させましょ」
僕達は共に自分達が体験した事を物語として紡いだ。僕はそれを小説を書き、山岸はそれを絵にして漫画にした。漫画のほうが時間がかかるので、僕はよくその手伝いをした。またその絵の一部をもらって、僕の小説の挿絵にすることにした。僕達の作品は同じストーリーだったけれど、視点や切り口や演出や描写の濃淡などは全然違っていた。お互い、作品を見せ合いながら創作することは、とても新鮮な体験だった。
やがて夏が過ぎ、二学期になって、僕達の作品はともに完成した。山岸は自分の漫画をしばらくは誰にも見せずにとっておくということだった。何かの賞に応募するには原稿の量が多すぎるから。僕もやはりそうしようと思った。原稿の量はともかく、何かの対価を得るために創作したものではないから。
それに、僕の中にはある種の予感があった。あの体験を物語として完成させた時、きっとまた、そいつは僕の前に現れるだろうと。
はたして、その予感は的中した。ある夜、自分の部屋で本を読んでいると、そいつは急に窓のところに湧いて出てきた。
「ねえ、君はもう、物語を書かないつもりかい?」
トリックスターと名乗るその少女は、ちょっと元気がなさそうだった。
「お前はどこにでも出てくるんだな。そんなに僕に構ってほしいのか?」
「構って? は、何を言ってるんだか。ぼくはただ、君の様子を見に来ただけだよ。魅力のない主人公、早良義一のね」
「そうか。そうやって、いろんな世界の、いろんな人間を見てきたんだろうな、お前は。一人で、ずっと……」
「な、何言ってるんだ、急に知った風な口をきいて!」
彼女は動揺したようだった。きっと、図星なんだろう。僕は笑った。
「お前はきっと僕よりずっと高い次元にいて、僕達の世界の出来事を、まるで物語を読むような感覚で見ることができるんだろう。そして、とても孤独だ。僕がわかるのはせいぜいそれくらいだ」
「それがどうしたんだよ? 君が何を言いたいのかさっぱりわからないね」
「僕は、お前の悪戯によって随分変わった体験をしたよ。そして少し、ほんの少しだけど、自分に自信が持てた。だから、お前には感謝してるんだ」
「そうかい。君はぼくのことをそういう解釈で行くんだな。ふうん」
少女は何か言いたげに腕を組んで僕を見つめた。
「だから、また頼みたいんだよ。もう一度、僕の、いや、僕達の世界に悪戯をしてくれないか。僕はまた行きたいんだ。ラーファスへ」
「そう。だったら、話は簡単じゃないか」
少女は鼻で笑い、ふと、僕の机の引き出しから真新しいノートを引っ張りだした。
「今更ぼくが何かすることはないね。新しい体験をしたいのなら、新しい物語を書けばいい。それだけのことさ」
「……そうか」
僕は彼女の手からそれを受け取った。喜びと共に。
「別に君は、あの世界にこだわることはないんだよ? まったく新しい世界の、新しいキャラクター達との出会いを描いたっていいんだ。例えば今度は、SFなんてどうかな? 時代物も悪くないかもしれないね? いや、推理物だってイケるかも? 君、名探偵とか憧れない?」
「いや、そういうのはいいよ」
僕が行きたいのはそんな世界じゃない。あいつがいる、あの場所だ。
シャーペンを握りしめると、まっさらのノートを開いた。
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