第26話

 家に帰った僕は、すぐに自分の部屋に入り、制服を脱ぎ捨てベッドの中にもぐりこんだ。僕の両親は共働きで、妹もまだ学校にいる時間なので、家には誰もいなかった。


 ふとんを頭からかぶって、何もかも忘れて眠ろうと思った。けれど、まぶたを閉じると、今日体験したいやなことが次々によみがえってくるのだった。一番いやなのは、やはりあの銀髪のイケメンに何もかも持って行かれたことだった。彼が何も悪くないのはわかっていた。彼はただ僕達を助けに来ただけだ。善良そのものの存在だ。しかしだからこそ、その非の打ちどころのなさ、完璧なイケメンっぷりに、理不尽に許せない気持ちになるのだった。なんであいつは、僕が書いた物語で、僕よりずっと輝いているんだろう。まるで僕は彼の引き立て役だ。おまけに、現実世界で僕の唯一の話し相手、山岸ともいつのまにか親密になってるなんて……嫉妬で胸が焼けそうになってくる。


 と、そこで、


「なんだか、荒んでるみたいだねえ」


 またあの声がした。はっとして、布団から顔を出すと、あの左右不揃いの道化の服を着た少女が、僕の机の上に腰かけていた。


 こいつ、今度はこんなところに……。


 昨日の言葉といい、いったい、なんなんだろう。現実世界であるこっちにも急に湧いて出てくるなんて。


「君さ、ワッフドゥイヒに比べると、全然魅力のない主人公だよね」


 いきなりこんなこと言うし。


「正直、ぼくにとってはこっちもあっちも別にたいして面白い物語じゃないんだけどさ、多くの読者が選ぶのは、やっぱり彼みたいな魅力的な主人公の話だよね。君みたいにとことん卑屈で後ろ向きなやつの話なんて、どこが面白いんだろう?」


 少女はけらけら笑っている。なんだ、こいつ……。むかむかせずにはいられなかった。


「お、お前、僕に喧嘩を売ってるのか!」

「そうだねえ。売ってあげてもいいけど、君はそれに見合う対価なんて何も持ってなさそうだしねえ」


 少女の口調は相変わらずのらりくらりとしていて、とりつくしまがない。


「ただ、喧嘩なんてご立派なものを君に売ってあげるほど親切じゃないけど、ちょっとしたヒントくらいはあげてもいいかな。君のその嵐のように荒れた心の海が、ほんのちょっぴり魚貝類に優しくなる程度に」


 少女は机の上で足を組み、意味深な微笑みをうかべた。ヒントって何だろう? あっちの世界のことで何か教えてくれる気なのか。


 だったら……。


「じゃあ、僕があっちの世界で楽しく過ごすためにはどうすればいい?」

「そんなのわかりきってることじゃないか。君の望みをこれに書けばいいんだよ」


 少女は無造作に机の引き出しからあのノートを出し、掲げた。


「それで君の望みは叶うんだ。実際、今までずっとそうだっただろう? 物語に書いたとおりになっただろう?」

「それは……確かにそうだけど」

「はは、楽しくなかったんだねえ。あいつのせいだね。あいつがいるから君はいつも嫌な気持ちになっている」

「あいつ?」

「ワッフドゥイヒさ」

「あ……」


 そうだ。本当にそうだ。あいつさえいなければ、僕はもっと楽しくやれて……。


「今言ったことは、別に新しい情報でもないね。君が少し賢明になって内省すればわかることだ。だから、ぼくからあげるヒントってわけでもない。それはこれからだ。いいかいよく聞いてごらん、凡庸で魅力のない主人公、早良義一君。君の、君達の書いている物語というのは、君達二人が出会うまでは、奥行きのない絵のようなものだったんだ。それはただの設定の集合で、世界ではなくその素材の集まりだった。けれど、君達が出会って、干渉し始めたことで、それはもう絵ではなく、空間になった。君達が用意した素材をもとに勝手に空白を埋めて、世界として自立した。だから、君はもう、素材を放縦にそこに投げ入れることはできないし、その未来を完全に把握することもできない。君ができるのは、そう――かじ取りだけなんだよ」


 少女はノートを軽く指ではじいた。


「かじを決まった方向に取ったところで、船はいつも思い通りの方向に進むとは限らない。海には海の気まぐれな流れってものがあるからね。まあ、君が感じてるジレンマはこんなところさ。どうだい、ためになるヒントだっただろう?」

「いや、あの……」


 わかるような、わからないような、ぼんやりした話だ。


「つまり、君はこれに君の望みを書けばいいということになんだよ。それが、世界のかじをとるってことだからね。君がここに書いたことは必ず実現する。まあ、さらにそれに何かを付け加えようとするときは、書けないことも出てくるだろうね。君が最初に何かを書いたとたんに、世界の運命の流れは自動的に決まってしまうんだ。君の望みに合わせて補正されるって言うのかな。だから、それに矛盾する細かい流れは注文できないんだよ、残念なことにねえ」


 なるほど……。なんとなくだが、今度は言ってることの意味がわかった。だから、フェトレとデートはできても、イチャイチャはできなかったんだ。彼女には既にワッフドゥイヒと相思相愛という「設定」があったから。


 そうだ、ワッフドゥイヒ。あいつさえいなければ、僕は何もかもうまくいって……。


「世界の未来ってやつは無限ではないけど、無数だ。君はその『たくさん』の中から好きなものを選ぶことができる。それが今までの世界の流れと矛盾しなければ、ここに書ける。実にシンプルな話だね。君は今、一番何を望んでるんだい? さあ、書いてごらんよ」


 少女は僕にノートとペンを差し出した。


 あいつさえいなければ……。僕の手はほとんど勝手に動いた。


 やがて、こんな文章がそこに並んだ。


『ワッフドゥイヒ・フォン・レザルツは、彼自身の家の事情でラーファス学園竜都を去ることになった』


「あ……」


 さすがにこれはやりすぎかもしれない、と思った。彼を追放するなんて。


「はは、書いちゃったねえ。すごく身勝手なこと。でも、あれは君の世界なんだから、君の望みは反映されてしかるべきだよね」


 少女は楽しそうに僕をあざ笑う。


 そうだ、やっぱりこれはすごく勝手なことだ。どうしよう。消してしまおうか。あるいは、さらに文章を足して、追放をなかったことにしてしまおうか。


 だが、そう思ってペンを握った瞬間に、昼間の、フェトレと抱き合っている彼の姿が思い浮かぶのだった。それは絶対に僕が手に入れることのできない、輝かしい世界だった。


 そうだ、別にあいつは、ラーファスにずっといる必要なんてないんだ……。やがて、僕はペンを置いた。あの何でもできるイケメン君のことだ。どこへ行こうと、うまくやるだろう。ラーファスを離れれば、フェトレとは別れることになるだろうけど、元々身分の違う、結ばれない相手なんだ。むしろ、早めに別れた方がいいに決まっている。そうだ、これは僕のためであると同時に、あいつのためでもあるんだ……。


「これで、いいよ」


 僕はノートを机の引き出しにしまった。


「そう。今度こそ君が満足する世界になるといいね」


 少女は微笑んで、消えた。

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