夢想家 飯沼三郎

 飯沼さんは、言葉を切ってほうと息を吐いた。

 長話に渇いた喉を潤すためか、湯気の消えてぬるくなったコーヒーを静かに啜る。

「やはり慈悲みたいなものは、嬉しくありませんか?」

「当然。わしもまだあの時は今のあなたと同じぐらいの歳でしたがね、工場長とはいえ商売の一翼を担ってるわけですから、一人前の自負ぐらいは持ちたかったですよ」

「すごいですね。そんな高邁な考えが出来て。僕なんて一人前のプライドを持てませんよ」

 正直な気持ちで僕は苦笑した。

 飯沼さんが若者を諭す年長者のような厳かな表情になって、おもむろに首を横に振る。

「それはいけない。あなただって今こうして、仕事のために私のような老人の昔話を聞いている。仕事をしているという自覚を持って、誰に何と言われようと一人前だと思うべきだ。一人前だと思うことで自ずと振る舞いもよくなっていくものだ」

「はあ、肝に銘じます」

 前触れのない説諭に、僕は戸惑いつつも頷きを返した。

 それでいい、と言わんばかりに破顔された。

 脱線したので、話題を飯沼三郎さんの事に戻す。

「そういえば父の悪い面ばかりと言ってましたけど、先程から飯沼三郎さんの悪い面なんてありませんでしたけど」

「うむ。そういえばそうだったの。年取るとつい昔の事を語りたくなるもんで、要領をえなくてすまないね」

「いえいえ、いいお話を聞けました」

 どれだけ多くの文献を漁っても、知ることのできない得難いエピソードだった。

「でも、飯沼さんが僕に話すつもりだった飯沼三郎さんの悪い面と言うのは、どのような話なんでしょう?」

 『東海ドリームランド』創設者の汚点が如何なるものか、ルポライターの好奇心が僕に質問を投げさせた。

 目尻に皴が入った飯沼さんの顔に憂いが浮かぶ。

「あれは2000年の八月の事、命日の一週間前のことじゃ……」

 飯沼さんは再び、回顧する目になって喋りはじめた。


「丁度、今の次期みたいに暑い日が続いていた。

 四年前から心臓病を患っていた父は、病床に臥せっていた。

 わしは話があるといって東京から呼び寄せられて、父の寝室に訪れた。

畳敷きの寝室の中央で付き人に看護されている父の姿には、遊園地に連れていった時のような精悍さは微塵も感じられなかった。

 付き人がわしが来たことを父に告げる。

布団の上で首を動かして父はわしに一瞥くれると、付き人に倅と二人にしてくれ、とか細い声で伝えて寝室から退かせた。

 付き人が寝室から離れる足音が聞こえなくなると、布団から老衰で細くなった腕を出してわしを手招く。

 わしは父の布団の傍までいって、畳に腰を降ろしかけて尋ねる。

「企業人としてか、息子としてか、どっちで座ればいい?」

「好きにしろ」

 命に先の見えた父の事だから、とわしは息子として胡坐で座った。

 わしが座るなり、弱い息遣いをして切り出す。

「忠人、お前にわしの遊園地の権利を譲渡したい」

 わしには父のその話が予測できていた。

 父の棲家に来るまでの運転席で、遺産相続、法要、墓地など、死後を見越した相談事が交わされることなど、想像できて当然だ。

 しかしわしは、かねてより決めていた。

「断ります」

 そう答えた時父の目が、危篤の病人とは思えぬほどに驚愕に大きく開かれた。

「なんだと。わしの夢を継いでくれんのか」

 父には残酷であったが、わしは忌憚なく述べる。

「夢の地が潰えるのも時間の問題ですよ。閑古鳥が鳴いている遊園地を、いつまで続ける気ですか。もう夢の地は必要ない」

「何を言う、忠人。わしが長年思い描き続けてきた夢の地が、未完成のまま潰えるなどあり得ん」

「辛辣なことを言うけど、夢想するのはもうやめた方が良い」

「今は閑散としているが、いつかまた夢の地は復興する。その日まで耐え忍ばなければならん。それが忠人にはわからんのだ」

「自分も職種は違えど一企業を経営する人間です。自転車操業でさらには借金は膨らむばかり、誰もあの夢の地を引き継ごうとは思いませんよ」

「夢の地は残り続けなければならん」

「あれは夢の地を冠してますけど、普通の遊園地ですよ。続けられなければ潰えるしかないんです」

 父の妄執的な夢の地に抱く幻想を、わしは息子として砕かなければならないと思った。

 かつて園内を案内してくれた時のような、利益を生むことに精を出す経営者としての父に戻ってもらいたかった。

 企業人としても、息子としても。

 経営者の父がまだ残っているなら、損失しかない遊園地はばっさり切り捨てるだろう。

 しかし、父は戻ってこなかった。

「ダメだ、潰えてはならん。なんとしてでも潰えさせはならん」

「そうですか。わかりました」

 わしは覚悟を決めた。

 遊園地を引き継ごうと。

「自分が遊園地を引き継ぎます」

「おお、そうか」

 父の顔に安堵が浮かぶ、が続くわしの言葉にその安堵は怪訝に変わった。

「しかし条件があります」

「なんだ条件とは」

「規模を縮小します。土地を売って、職員に辞めてもらって、経費を削ります」

 本音では経費を削るだけではなかった。

 数年かけて後始末をし、最後には遊園地を畳むつもりだった。

 しかしそんな惨い事、病床の父に明かせるはずもない。

 わしは父と権利の委譲を口約束して、寝室を後にした。

 それが父と会話を交わした、最後だった」


 最後だった、と結ぶ飯沼さんの顔には悲哀らしき陰は現れなかった。

 まるで歴史上の人物の死没ででもあるかのように。話し出す前の憂いは霧散していた。

「老人に長話は毒じゃ」

 耳を傾けている僕に向って、疲れたように笑った。

「すみません。僕がお尋ねしたばっかりに」

「いいんじゃよ。おかげですっきりした。今思えば、わしは父と対等に交渉できていたみたいじゃの」

「それはやはり一人の企業人としてですか?」

「無論そうじゃ」

 飯沼さんは頷く。

 しん、と僕と飯沼さんの間に沈黙が流れた。

「わしも父が死んだ年と大分近くなってきた」

 沈黙を破って、飯沼さんがぽつりと呟く。

 経営者として腕をふるった父の背中が、今でも目に映るのだろうか? 飯沼さんの目は僕以外の何かに向いている。

 しかしその目は次の時には、機能重視の現代的な腕時計に注ぎ落ちていた。

「話もここまでじゃな。十分後にはわしは仕事に戻らなければならん」

「そうですか。貴重なお話をありがとうございました」

 僕は頭を下げた。

 飯沼さんも意外に薄くなっている頭頂を僕に向けて御辞儀する。

「こちらこそ、老人の昔話に付き合ってもらって感謝したい。『東海ドリームランド』に関する記事が刊行され次第、こちらに連絡してくれるとありがたい」

 そう言ってお辞儀していた頭を上げ、テーブルの端にあった紙ナプキンを引き寄せて、自宅の電話番号らしい数列を書き込んで差し出された。

 僕がナプキンを受け取って数列を眺めて始めると同時に、席から立ち上がる。

「それでは」

 僕の横を通り過ぎる際にそう言って微笑み、どさくさに二人分のコーヒーの代金を置いて喫茶店の出入口から去っていった。

 一人の企業社長であり夢の地を創造した大家の長男の姿を見送ると、僕は三つ右隣のテーブルで給仕をしていたウエイトレスに片手を挙げる。

「あの、すみません。先程までここの席にいた人と同じコーヒーをください」

 良い記事を書くために、良いコーヒーが飲みたい。そう思った。

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ドリームランドよ、永遠に――。 青キング(Aoking) @112428

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