盗みの手引き

ひびき

第1話

 その男はお金がなかった。ある有名なお寺の大通りで一人、ただボーッとあてもなく歩いている男。季節は秋、樹々は紅葉してお寺を囲んでおり神聖なバリアを張っているようだった。黒い無地のパーカーにジーンズ、男はこの格好が自分にとって好都合でありこの格好ができる春と秋が好きであった。が紅葉を見にくる観光客がたくさんくる秋は特に好きであった。

 男は今からスリをする。人の財布をこっそりとるあれだ。観光客はこのお寺の参道に溢れかえっている食べ歩きグルメ店を巡るため財布をよく使う。その時にいちいちカバンなどにしまうのが面倒になるため大抵の人がポケットに入れてしまうのだ。さらに観光客は大抵の人がなかなかの額を所持しているのでここのお寺の参道は私にとっては最高の楽園である。お寺の雰囲気も合わさりすれ違う人が男なら諭吉に女なら一葉に見えてしまうほどであった。もちろん捕まるリスクは高いのだが未だ定職にもつかずフラフラしている男にとってはこのスリルは快感に感じてしまっているのだ。まるで一つのアトラクションであるかのように。その日は秋といっても紅葉シーズンの初めての土曜日であった。何かが破裂したかのように観光客が溢れかえり人々の笑い声や商いの声が大河ドラマのワンシーンを思わせるようなお寺。男はパーカーに手を突っ込みわかっているはずだが空であることを確かめるようにポケットの中を探る。ここに人の財布が置かれる予定なのだ。特に遜色なく絶好の隠し場所にできるパーカーのポケット。財布を隠せる場所がある、だから男は春と秋が好きなのだ。

 お寺の参道の中で一人ハンターのようや目つきである男は今日のターゲットを確認した。最近は一人旅が流行っている影響で男が一人でいても特に怪しまれることはない。また家族など監視の目がたくさんある人よりも一人旅の人の方が狙いやすい。今日のダーゲットはその一人旅の中年男性にした。大学を卒業したばかりの男よりも十年ほど歳をいってそうな少し小太りのパーカーとジーンズを履いた中年男性。今は必死にフーフーしながら五平餅を食べようとしていた。その左手には黒い財布が握られており五平餅を二口ほど食べたところでジーンズの後ろポケットに入れたのをしっかりと確認した男は、自分のジーンズの後ろポケットにも手をやる。大丈夫だある。男はジーンズの後ろポケットに手を当てて確認した。男はスリをするとき気付いて振り向かれたときに対象から外れるためにわざと見えるように中身のないダミーをポケットに入れることにしている。意外と用心深い男なのだ。中年が五平餅の棒を捨てたところで男は行動を開始する。もう何度かやっているのに鼓動が明らかに早くなるのがわかり直接耳を心臓に当てているかのようだった。お寺側に登ってくる中年とは逆に降りるように向かう男。右利きのため左手は強力意識せず右手の指先に全神経を注ぐ。あと五メートル、四、鼓動がどんどん加速していくが意識は右手の指先にしかいっていない。冷静である証拠だ。三、二、下を見ながら極力目を合わせないようにする。一、ほんの数センチ指先が風を捉えたかと思うとすぐ少し硬めの布のようなものを捉えた。男はまるで体の一部のように両腕をポケットに突っ込む。間違いないさっきまで空だった宝箱に宝が入っている。何かわからない汗がピタッと止まる。鼓動が水をかけられた炎のように落ち着いていく。

 ふとジーンズの感覚がおかしいことに男は気づいた。ない。ダミーの財布がないのだ。男が状況を理解するのにそこまで時間は要らなかった。パーカーから黒い財布を取り出し中身を見る。男の予想通りであった。中にはほんの数百円の小銭しか入っておらず、クレジットカードは愚かポイントカードすら入っていなかった。男はニヤリと笑いながらその財布をジーンズの後ろポケットに入れると振り返りまた人混みの中に消えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

盗みの手引き ひびき @130625

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る