後編


 店の奥の、狭い事務所で目が覚める。部屋の隅にじとりとした空気を感じ、折りたたみ式の机に雑に置かれた卓上カレンダーとスマホを見比べる。気づけばもう6月を過ぎていた。

 事務所と言っても机と椅子だけでスペースの半分が埋まっており、残り半分に小さなロッカーを詰め込んだような場所だ。事務所より物置と言った方が正しいが、椅子をたためば辛うじて着替える場所ができるし畳まなければ座って休憩もできる。そして居心地は良くないが寝床にも出来ることが最近分かったので変わらず事務所と言い張らせてもらう。

 折り畳まれて横になっている椅子を起こして開く。小さな座面にどっかと腰掛けると苦しそうにギシギシと軋んだ。

 程なくしてスタッフがやってくる。


「おはようございまーす」


「はよーっス」


「おはよう」


 机の上に置きっぱなしのノートパソコンを持ってカウンターに移動する。ガラス扉越しに見る道路はまだ鼠色に濡れていたが、彼らの陽気な雑談と、シュルシュルというコック服の衣擦れの音で、心なしか店内の風通しが良くなる。


 店のブログを更新した。家に篭る時間が増えたせいか、こまめに更新することで一定の読者がついている。

 アンティパスト用の魚介や生ハム、メインの肉などをカツレツやパスタにアレンジしてお弁当として販売した。ブログを読んで知りましたと言って近所のビルで働く新規のお客様がちらほらと来た。気にいってもらえたのか、その後も会社の人と連れ立って週に何度か買いに来てくれる。常連客は自粛期間が終わってすぐに来てまだ生きてたかぁと笑ってお弁当を買い、夕方、会社帰りにもう一度やって来た。グラッパを、しかもグラッパ・ディ・サッシカイアを家で呑みたいから売ってくれと頼み込まれた。この人今までこんな強い酒呑んだことないのに。どうしてもと譲らないので押し問答の末リモンチェッロにしてもらい、仕入値で売った。これならソーダやコーラで割れば飲み易くなる。涙が出た。


 人の戻ってきたオフィス街ではランチを外で摂る人も増えてきた。テラス席があるような店舗は早速賑わいをみせているが、うちのような小さな店ではまだお弁当の需要の方が大きい。


 あの日、家に帰って妻に土下座した。それからは店に泊まり込みで3月4月の売上を眺めながら、従業員の給与・店の家賃・水道光熱費・食材の仕入値等々について思案した。

 お弁当、宅配、ブログを始め、店のYouTubeチャンネルも作った。家庭で楽しめるイタリアンをいくつか動画にアップしたりもした。依然として赤字ではあるが、徐々に売上は上がり始めている。



 キッチンとホールのスタッフは、よく働いてよく喋る。方やキッチンで仕込み、方やシルバーとグラス磨きをしているが、作業の手つきは淀みない。シルバーもグラスも使わなければその分汚れがたまるだけなので毎日磨いてもらっている。


「そーなんスよ。代替大会が開催されるんス」


「へぇー、代替大会?」


 思わず口を挟んだ。


「そうなんス。甲子園中止は変わらないんス。だけど代わりに春の選抜出場校の試合を甲子園でやるみたいス。地方予選も、再開するところもあるみたいで」



 先月、酔っ払いに絡まれた学生のことを思い返した。あの時野球場で、彼にこれからも野球を続けるか聞いたのだ。

 彼は「わかんね」とだけ言って、バットを丁寧にケースにしまい、帰って行った。小さくなる背にはバットがぴたりとくっついていた。



「それってさ、よかった〜って言っていいこと?」


 ホールの子はお弁当用のレジ袋と割り箸の準備にとりかかった。その問いかけに、秋田出身の彼は力なさげに笑う。


「わかんねっス」




 日常が非日常となり、街も人も変わった。というより変わらざるを得なかった。何年も何年もかけて積み上げて、数年前にやっと掴んだ私の夢は一瞬で崩れ去った。5月に入ってからお客様は1人も来なかった。当然だ。それが正しい。


 でも。……それでも私はバッターボックスに立ち続けることを選ぶ。くたくたのTシャツに、擦り切れたジーンズで。




「朝礼はじめます。おはようございます。えーとまず、お弁当について。食中毒が心配な時期になってきたから、管理に気をつけよう。そして冷たくて美味しく食べられるものをメニューに取り入れたい。冷製パスタとか。トマトとバジルのオーソドックスなやつで売れ行き見て、良ければ週替わりで具を変えて行こうかと思う。あと、夜の事なんだけど、前に話した通り、その時間の宅配を一旦止めて、今日から徐々に営業を再開していきます。まずは立ち飲みで、軽い食事を提供する。バーニャカウダにカプレーゼ、アランチーニなんかも。それから少しお腹にたまるような––––––」


 朝礼の後、私も着替えて調理に加わる。お弁当を仕上げる段階に入った。カウンターに隙間なく並べられた容器には既にホールの子によって付け合わせのキャベツの千切りが盛り付けられている。そこへからりと揚げて粗熱をとったカツレツを手際よくのせていき、のせた物から秋田の子がご飯を盛り付けていく。蓋をして、輪ゴムをかけて、保冷剤の入った発泡スチロールの箱へ詰めていく。これをメニュー分繰り返す。この時ばかりは彼らも黙々と手だけを動かすのだった。



 ガラス扉を開けると通行人が傘をしまい始めていた。それから程なくして外がワントーン明るくなる。光が戻ってきた。向かいのビルから財布を持ったサラリーマン達がわらわらと出てくる。誰も彼もがマスクで顔を覆っていて、けれど気持ちよさそうに空を見上げて。入り口の横に立看板を置くと、立ち話していたスーツの青年がこちらに気づいて小走りでやってくる。どうか夜までこの天気が続いて欲しい。



 来年あたり、妻と子供を旅行に連れて行こう。我儘を許してくれた感謝の気持ちを込めて。国内の、温泉があって、子供達がのびのび遊べるところがいい。行き先を妻と選ぼう。


 それから、同じく来年あたりに草野球チームを作る。一度暇を出したスタッフ達を呼び戻して、チームに入ってもらって。そしてあの公園で野球をする。もちろん試合もする。あの学生と、彼のチームメイト達に相手をしてもらう。あぁ早くこの店を立て直さなくては。もう彼等と試合の約束は取り付けているのだから。

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