夏、あるいは
@muuko
前編
生まれて初めてお巡りさんに肩を叩かれた。
自宅の最寄駅まで行く電車はだいぶ前に終わっていて、走って走って滑り込むように乗ることができたのは最寄り駅の3つ程手前が終点の地下鉄だった。
確か電車を降りたのは夜1時過ぎだ。酒に酔ってこんな時間に家に帰るのも一度や二度じゃない。いつもどおり新大橋通りを真っ直ぐ歩いて家に帰っている。つもりだった。
肩を叩かれて自分がつい今し方まで寝てしまっていた事に気がついた。それどころか駅前交差点の歩道の柵に引っかかっていた。よくまぁこんなところで。そうお巡りさんの目が言っている。交番のすぐ目の前の歩道に怪しい人物がいれば、声をかけざるを得なかったのだろう。大型トラックが走り抜け、排気ガスがもくもくと顔にかかる。
「歩ける? 大丈夫?」
お巡りさんは2人1組で、立ち上がった私の安否ではなく自力で家まで帰れるかどうかを気にしている。こちらとしてもただの酔っ払いのためにこんな夜中に大人2人の手を煩わせている今の状況で十分恥ずかしいのでとにかく背筋をしゃんとする。
「らいじょうぶれす」
「歩けそうだね。よし」
「いやーお仕事ですよね? 遅くまでお疲れ様です。疲れてるところいやんなっちゃうかも知れないけど、今世の中いろいろ大変だから、くれぐれも気をつけてくださいねーくれぐれも」
こんな時期にこんな時間まで何してるとっとと帰宅せい。つまりそういうことである。もう1人のお巡りさんの視線に縮こまりながら両足に力を入れて立ち上がった。
「あい、しゅみませんれした」
すかさず水のペットボトルを手渡されたことに感動しているうちにお巡りさんは警官帽子のつばをきゅっと摘んで、「ではよろしくお願い致します」と社会人にはお決まりの挨拶をして横断歩道を渡り、その先の交番に戻って行った。
とりあえずもらったペットボトルの水を飲む。心地良い冷たさが口内を潤し喉の奥に流れて行く。だいぶ喉が渇いていたようで一気に半分程飲み干してしまったが、おかげでぐわんぐわんしていた頭も少しはマシになった。
さて、これから家まで歩かねば。重い足を無理矢理動かして一歩目を踏み出す。
犬江公園という大きな公園に差し掛かった。この公園はかなり広く、春になるとあちこちに植えられた桜が見事に咲き誇り、お花見スポットとして区の観光ガイドに載っているくらい大きな公園だ。新大橋通りを挟んで公園と向かい合わせにテニスコートや野球場が並んでいる。多目的ホールも併設されており、休日は賑やかになる。
新緑の街路樹が揺れる。ひんやりとした空気が額を撫でていく。星が見えないかわりに街灯の灯りが道路沿いに真っ直ぐと伸びている。いつもならそのまま光に従って大通りを歩いて行くのだが、生憎今日はそんな気になれない。胃の辺りがじんわりと熱く、頬は勝手に緩む。ペットボトルの水を一口飲んだ。
とっくに運行の終わったバス停のベンチに腰掛けてぼうっと風にあたっていると、野球場から微かに音がした。素振りをしている人物がいる。素振りといえば高校球児という固定概念を持つ私は、本当はよく見えていなかったものの未成年がこんな夜中にけしからんぞと見に行くことにした。
けしからんなどと言っておきながら、身を小さくして足音は出来る限り消し、野球場に近づく。そしてそっとネットに手をかけた。
Tシャツにジャージを履いて、バットを振るこの人物はやはり学生だろう。坊主頭だし、背中のライン、腕の筋肉のつき具合が若者のそれだ。
ふぉん、ふぉんと木製のバットが風を切る。
黙々と素振りを続ける学生らしき男をしばらく眺めているうちに、声をかけたくなってしまった。すーっと長く息を吸い、タイミングを見計らう。
「はいどーもーー! そこのお兄ちゃんこんばんはーーー!」
この時私はまだ勢いのまま他人に声をかけても恥ずかしくないくらいに酔っ払っていた。
大きな背中が一瞬固まって、すっと振り返る。やはり学生だ。つるんとした顎のラインが若い。そんな彼に、警戒心を剥き出しにされているのが手にとるようにわかる。不審者を見る目つきだ。でも私は今酔っ払っているのでそんな視線を向けられても痛くも痒くも怖くもなんともない。
少年は無言のまま向き直り、黙々と素振りを再開する。
「何やってんの?」
「見りゃわかるでしょ」
「素振りだよね」
「わかってんならどっか行け」
あっこれはボコられるな、と思った。相手はバットがあって、こちらは丸腰だ。最悪それならそれでもいい。今日は本当に帰りたくないのだ。
「待って待って待って待って怒んないで! そんな怒んないで! 今から家帰んなきゃなって時に見かけてね、偶然ね! なんか気になっちゃったの。ね? これも何かの縁じゃない? 悪いもんじゃないから! ちょっとだけだから! ちょっとだけ! ね!」
学生は肩に担いだバットを下ろした。私はゆっくりと立ち上がり、跪いて土がついたズボンをパンパンと払う。どうやら危機は脱したようだ。
「……変な真似したらぶっ飛ばしてケーサツ行くから」
こくこくと頷いて見せると、彼はまた素振りを始めた。
膝を落とし、バットを軽く握って垂直に立てて構える。左足を少しだけ浮かせて、その後一気に振り抜く。
一定のリズムで繰り返される彼の動作は水流のようで、ずっと見ていられた。
甲子園。––––––正確には第102回全国高等学校野球選手権大会の中止が決定されたのは、つい先日のことだった。ニュース番組で大きく取り上げられていたのでよく覚えている。四角い画面の中で大粒の涙を流して悔しがる、真っ黒に日焼けした彼らは確か春の選抜の優勝校の生徒達だったろうか。
年に一度全国の高校の頂点に立つチームを決める夏の代名詞と言っても過言ではない大会で、野球好きなら毎年心待ちにしている。各都道府県の出場校はどこか、注目選手は誰か、そして栄光の優勝旗はどの高校の手に渡るのか。最後まで目が離せない。うちの従業員に元野球部員だと言う秋田の子がいて、俺にとって優勝旗が白河の関を超えるのは悲願なんスよと言っていた事を思い出す。
「今、何年生?」思い切って聞いてみた。大人しく練習を見ていたからか警戒が少しは溶けたらしい。少年は短く「3年」とだけ答えた。
「部活は? 活動してるの?」
「部活は辞めた。もう引退」
「そうか……。そうか」
ぽつりともれた言葉は煙のように漂ってすぐに消えた。ほとんど独り言に近い相槌は、彼には聞こえなかっただろう。
レギュラーだっただろうか。いやベンチだとしても。
彼には彼の目標があっただろう。真っ直ぐに先を見据えて練習を重ねてきただろう。甲子園の土を踏むことを夢見たこともあったろう。しかしその道は突然消え去った。日々積み上げてきたものは宙ぶらりんになって、どこに還ることもできないでいる。
勝利。
葛藤。
歓声。
惜敗。
九回裏ツーアウト走者二塁で迎えるバッターボックスの、あの空気。
球場の熱。
チアガールの応援。吹奏楽。
刹那。
伸びて行く白球。
響くサイレンの余韻。
彼らが、そして目の前の彼が失ったものは。
夏か、あるいは。
「あのさ!」
自分の口からでたのは思いの外大きな声だった。学生がきょとんとした顔でこちらを見ている。
「どうやってそっち行くの? ちょっとバットかして」
学生はこちらに歩み寄り、ネットの隅を引っ張って破れ目のある場所を指差した。
右手でグリップを握り、風車のようにバットを回す。そうしながら左手はベルトを触り、腰を落とす。膝を軽く曲げ、バットを構えて左に顔を向け、視線は真っ直ぐ。
力任せに振り回す金属バットは、年のせいか昔よりも重かった。
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