やわらかな…

宇佐美真里

やわらかな…

待合せの時間はとっくに過ぎている。

いや、「過ぎている」という範囲以上の時間だ。

オトコは待合せの店へと急いだ。

ニ時間が経過…。約束の時間は午後八時…。

今はもう十時…。

辿り付いた店の前で、ひとつふたつ大きく深呼吸して

乱れた息を少しだけ整える。

オトコは入り口の扉を手前に引いた。


カラン…。

来客を知らせる入り口のベルが短く乾いた音を上げ、

オトコの到着を店内に知らせた。

店内に流れる空気と、

そこに突然現れたオトコの持ってきた空気とは、

明らかに異なる時間で流れていた。

「いらっしゃいませ…」

カウンターの向こうから、バーテンが静かに言った。

店内では、数人の客がグラスを傾けていたが、

バーテンの声にも、誰ひとりオトコを振り向くことはなかった。


オトコは、カウンターの一番奥のひとりに近づいていく。

隣のスツールにオトコが腰を下ろすのと同時に、

カウンターの上のグラスが小さな音を立てた。


カラン…。

グラスの中の氷が、音を立てて時間の流れを主張した。

金色の液体に浮かぶ氷山は、

流れた時間と共に表面の冷たさを洗い流し、

カウンターのやわらかい光を反射させていた。


「ごめん…。待たせちゃって」

「ううん。考えごとをしてたから…。

 あっという間…というわけではないけれど」

フフフ…とカノジョは小さく笑った。

「考えごとってどんなことだい?」

「オン・ザ・ロックをダブルで…」とバーテンに告げた後、

オトコは、カノジョに聞いた。

「昔のことよ…。もう十年も前の話…」

十年前…。


「そういえば、あの時最初に声をかけてきたのは…、キミの方だったね」

「そうだったかしら???覚えていないわ。そんな昔のこと…」

フフッ…とカノジョは小さく笑った。

そう…。十年前、オトコはカノジョとこの店で初めて出逢ったわけだ。

笑いながらオトコも言う。

「キミの記憶は、随分と都合がいい記憶なんだな…」

「そんなことないわ…。きちんと覚えていることばかりよ?」

意地悪な目をして、カノジョが言う。

何かオトコにとって、都合の悪いことでも思い出しているのだろう。

「いや…。いいよ、言わなくても」

笑いながらオトコは言った。


それからさらに、幾らかの時間がゆっくりと流れた。


カラン…。

目の前の、空になったグラスの中、

角の融けた氷が、音を立てて時の流れを主張する。

やわらかに…経過していく、二人の時間。


「そろそろ行こうか?」オトコは言いつつ、先に立ち上がる。

「そうね…」カノジョもスツールから腰を上げる。


「キャッ!?」

小さく短い悲鳴を上げ、

カノジョはスツールの脚によろけかけた。

オトコは咄嗟に…片手でカノジョの手をとって支える。


「思い出に…、酔っちゃったかしら…」

照れ隠しに小さく舌を出しながら、カノジョは呟いた。


やわらかなカノジョのてのひら。

オトコの心も、いつもより少しだけ…、

やわらかな感じになった…。



-了-

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やわらかな… 宇佐美真里 @ottoleaf

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