名作

増田朋美

名作

私は、この映画館の掃除人として雇われて、もう30年以上になる。この30年の間、大きな出来事が起きたわけでもない。映画館で働く以前は、夫と別れ、娘と二人で住む場所を探したりと、非常に大変なことが多かったが、ここに落ち着いてからは、何事もなく毎日が進んでくれた。その娘も、昨年大学の同級生であった男性と結婚し、家の外へ出ていった。子をもつ、母親であれば、必ず経験することだろう。もちろん、私は娘一人しかいないので、その事件に遭遇したのは、一回しかなかったけれど。

そういうわけで、私は、30年ぶりに一人暮らしを再開した。夫とは、娘の香織が生まれてすぐに分かれてしまったから、もう頭の片隅にも入れていなかった。娘には、未練を残すような、そぶりを見せてはいけないと思っていた。私は、自立していると、娘にしっかり示すような気持ちで、30年間娘を育ててきたつもりだった。

今日も私は、勤務先である映画館へ行った。レンタルDVDとか、そういうものが普及してくれたはずの現在のはずなのに、映画館が好きで、来る人は何人かいる。みんな、こういうところに来て、何をするつもりなんだろうか。

私は、映画が上映される前に、古ぼけた映画館の床を、急いでモップで拭いて、観客席の一つ一つを、雑巾で拭く作業に取り掛かった。もう、席もボロボロになっていて、ところどころ中のウレタンが見えてしまっている席もある。何とか治せないかなあと思うけど、映画館の館長は、そんなことをする気持ちは全くなさそうだった。

映画館では、一日三回映画を上映している。朝の部が11時から、昼の部が15時から、夜の部が19時からである。どっちにしろ、スクリーンも一つしかないので、上映する映画は一日一本だけ。それもアクション映画とか、アニメーションなどの、そういう人気のあるものは一本も上演したことがなく、白黒映画とか、大昔に上映された、教訓的な名作と言われる映画ばかり上映していた。そんな映画ばかり上映して、余計に客足なんて遠ざかってしまうと思われる映画ばっかり。つい最近までは、精神病院を舞台にした「カッコーの巣の上で」を上映していて、五十人ほど入れそうな観客席に座ったのは、朝、昼、夜の部を合わせても、15人しか来ないというありさまであった。そんなわけだもの、この映画館が繁盛するはずもないか。私が、覚えている限りで、一番この映画館が繁盛したのは、松本清張の「鬼畜」を上演した時くらいだった。その時はたしか、三部合わせて、30人くらい来てくれたような気がする。

そういうわけなので、この映画館ももうすぐつぶれるのではと、近隣に住んでいる人からうわさされたこともあるが、私が30年務めている限り、映画館を閉鎖しようと館長が口にしたことは一度もない。館長は、もう90歳近くのおじいさんになってしまっているけれど、少なくとも、一日三人客が入れば、それでいいと言い張って、この映画館を閉じるということはしなかった。まあ確かに、館長と私以外、従業員も働いていないので、それでいいのかと思われるのだが。

「おーい、茂木さん。」

その日、館長が私を呼んだ。

「あの、ちょっとお願いなんですけどね。今、岳南タクシーから電話がありましてね。明日の朝の部の上映会で、車いすの人が見に来るそうだから、ちょっと手伝ってやってくれますかね。」

「そ、そんな、私、誰かを介護したことなんて一度もありませんよ。」

私は、それなりのことを言ったが、

「だけど、映画を見たいと言っているんですから、どんな人でも入らせてあげなくちゃだめじゃないですか。まさか、追い出したりするなんてできないでしょう。だから、入り口のこととか、席に座ることとか、ちょっと大変だと思うから、手伝ってやってね。」

という館長。はあ、そうですか。と私は思った。しかし、車いすの人が、映画を見に来るなんて、例えば最新のはやりの映画を見に来るのならわかるけど、「キューポラのある街」を見に来るのだろうか?あんなアップダウンのない、平凡な生活を描いた映画なんてみて、何になるんだろうかと思ったが、とにかく明日来るのだから、手伝ってやらなきゃいけない。

「わかりました。明日の朝の部でいいんですね。」

「そうですよ。明日の朝の部、11時に来るそうだから、よろしく頼みます。」

と、館長は私に言った。まあ、良いか、私は、その人に、変な風にかかわるわけではないのだし。ただ、入り口の誘導と、観客席につかせることだけしていればそれでいいのか。

そういうことを思いながら、床にモップをかけ続けた。

「しかし、こんなことって前代未聞だわ。障害のある人が、こんな映画館へ映画を見に来るなんて。」

私は、モップをかけながら思わず言った。

「いやいや、茂木さん、時代はバリアフリーですから、そんなこと言っちゃいけません。誰でも映画を見に来る権利はあるでしょう?」

館長は、年寄りのくせにそういうことを言った。

その日も、いつもの通りに客がやってきた。その日やってきた客は、朝、昼、夜の部を合わせても、たった10人。それでもみんな感動したと言って帰っていく。「キューポラのある街」という映画は、そんなに面白いのかなと私は思った。そういうものよりも、スターウォーズとか、そういう楽しい映画のほうが、よほど面白いと思うんだけど。この映画館の館長は、スターウォーズシリーズとか、ハリーポッターシリーズなどは、一度も上映していなかった。それよりも、「働く一家」とか、市川崑監督の「おとうと」とか、そういう家族を描いた映画ばかりである。みんな古くさくて、なんとなく昔の概念を押し付けているような気がして、私は好きになれなかった。

私は、昔からある概念を否定しているわけではない。でも、今の時代には合わないんじゃないかという気持ちがある。昔は、家族一緒にご飯を食べるのが当たり前になっていた。でも、私は、そんなことはしなくていいと思う。そのことができないことによって、娘もずいぶん苦しんできたし、個人的に楽しく、一人一人が幸せになってくれればそれでいいと私は思う。今の時代、みんなが同じようにしあわせになんて、あり得ない話だから。あの、「キューポラのある街」という映画は、まるで家族とご飯を食べるのが義務という概念を押し付けるようで、私は好きになれなかった。


私が、きょう一日の仕事を終えて、自宅アパートへ戻ってくると、いつものことなら、明かりがついていないはずの私の部屋で、どうしてなのか明かりがついていた。あれ、どうしたんだろうと思い、私が部屋のドアに手をかけると、ドアは、簡単に開いてしまった。驚いて、私が中へ入ると、娘の香織が、台所に立っていて、何か作っていた。

「お帰りお母さん。さ、ご飯食べよう。」

「一体どうしたの!」

私が香織に聞くと、

「いや、管理人さんに、娘だと言ったら、管理人さんは快くカギを開けてくれたのよ。」

と香織は答えた。

「でもどうしたの、どうしてここにいるの?」

「いやあねえ、梅木の人たちとうまくいかなかったのよ。あそこの人たち、なんだか淡白すぎて、あたしちょっと空虚になっちゃってさあ。まあ、あたしがね、子供を作れなかったのが原因なんだけどね。」

「うまくいかなかったって、毎年くれる年賀状には、梅木さんたちと楽しそうにやっていると書いてあったのに。」

「それはもう過去のことよ。それよりお母さん、娘が戻ってきたんだから、新しい相手が見つかるまで、ここにいさせてね。」

と、香織は、何とも言えないふてぶてしい態度で、みそ汁のはいった器をテーブルの上に置いた。

「さあ、お母さん食べよう。」

仕方なく私は、香りに言われてテーブルに座り、置いてあったご飯を食べて、みそ汁を飲んだ。

「香織、一体なにがあったの?梅木さんのお母さんとうまくいかなかった?それとも、梅木さん本人と喧嘩でもした?ねえ、教えてくれないかな?お母さん心配でしょうがないから。」

私は、心配になって香織に聞いてみる。

「梅木さんは、もちろん優しくしてくれたわ。でも、あたし、なんだかそうしてもらえばしてもらうほど、申し訳なくなってしまうのよ。」

と、香織は答えた。

「本当にね、よく働いてくれたんだけどね。しっかりお金も作ってくれるし。それは申し訳ないくらいなの。だから。」

「だから何?」

私がそういうと、香織は、だからお母さんはいやなのよ、といった。

「あたしはね。お父さんがいなかったでしょ。お母さんも毎日毎日仕事が忙しくて、碌に家族のだんらんもしてこなかったじゃない。だからあたしはね、家族が顔を合わせて、楽しくおしゃべりする時間を持っている、というのがある種のあこがれだったのよ。それで梅木さんと結婚したけどさ、いつまでたっても子供ができないじゃない。そうならないと、家族のだんらんなんてできやしないのよ。だから、あたし、梅木さんの家にいるのが、申し訳なくなっちゃってさ。それで出てきたの。」

そんなこと考えていたなんて。結婚するまで、香織はそんなことを漏らしたことは一度もなかった。一家だんらんをしたいなんて、口にしたことも一度もなかった。だから、私は、香織がそれを望んでいないと思っていた。そういうことができない代わりに、個人で幸せになればいい。私は香織にそう教えてきたつもりだったのに。

「お母さんは、一人一人が幸せなら、みんなも幸せになれるっていうけどね。あたしは、そういう気持ちにはなれなかったの。いつも家の中で一人ぼっちで、他人から声をかけられることもなく、かといって家族で話し合いの機会があったわけでもなかったじゃない。だから、梅木さんだったら、そういうことができるかなと思って結婚したんだけど、それも結局できなかった。あーあ、こんなんで、あたしは一生、家族を持ってみたいのに、もてないような、人生を送るしかないのかなあ。」

香織はそういうことを言っている。子供ができないからって、家族を持つことはできないのか、という定義に、私は、答えを出してやることができなかった。私自身も、香織に言われた通り、映画館で働き続けることに精を燃やしてしまって、香織の家族で話をしたいという時間には答えてやることはできなかったと思う。

「まあ、仕方ないと言えば仕方ないのかもしれないけど、あたしもねえ、一生に一度は、家族でだんらん、してみたいなあ。もちろん、お母さんと一緒にいたら、何年慕ってできやしないから、どっかほかの人に頼んだけれど、なんだかそれもできなかった。人の望みって、なかなかかなわないものね。」

香織は、そんなことを言って、お茶をがぶ飲みした。そうだったのか。香織は、そんなことを夢見ていたなんて、何も知らなかった。そういうことができるようになりたいと、口に出して言うことが一度もなかったのは、たぶん、私のことを見て、あきらめていたんだろう。

私は、香織が夕飯を食べ終わってからも、しばらく食堂にいて、ずっと考え込んでしまった。私は、何をしてきたんだろうか。よくよく考えてみれば、香織の言っていることは、私の元夫が言っていたことにも似ている。元夫は、学校の先生だったので、とても忙しかった。でも、確かに、家族で何気ないことをしゃべれるほど、幸せなことはない、と話していた。私は、その言葉を、学校の先生だから、そういうことを言うんだと思ってたけど、口ではそういうことを言っておきながら、仕事が忙しすぎて、私のことも、香織のことも、放置しっぱなしのその人を見て、私は、有言実行できない人は嫌いだと言って、離婚したのである。それ以来、再婚はしないで、一生懸命香織を育てていたけれど、それは効果なしだったのだろうか。本当になんで、悪い見本だとしていた人の考え方に、娘は近づいてしまったのだろう。

確かに香織が小学校低学年くらいの時は、お友達の家に遊びに行って、お友達のお父さんに遊んでもらって、とても楽しかったのに、なんでうちにはお父さんがいないんだと泣いて帰ってきたこともよくあった。そんなとき私は、お父さんがいなくても、幸せにはなれるから大丈夫だと言い聞かせた。中学生くらいになると、香織は、父親不在のことを、口にしなくなったから、もうあの子なりに、理解してくれたのかなと思っていたけど、そういうことではなかった。香織は、人間は家族を作っていくことを学び、その新しい家族に、家族らしいことをしようという夢を抱くことで、私の話から逃げていたのだろう。どうして、そんなことは伝わらなかったんだろうかと私は思った。

「お母さん。」

と、香織が、風呂から上がって、パジャマ姿のまま、私のところにやってきた。

「お母さんは、やることが古いのよ。」

「古い?」

思わず私は、そういってしまう。だって、個人で幸せになることは、西洋式の新しい考えだったのでは?と思ったが、

「お母さんは、確かに、映画館でずっと働いてきたけどさ。今は、それだけがすべてじゃないのよ。そりゃ、確かに仕事することは必要だけどさあ、お母さんは、あたしに、何もしてくれなかったじゃないの。だからあたし、梅木さんにそういうことを求めたのよ。でも、梅木さんも、一生懸命やってくれるけど、あたしが望んでいる、何気なく家族でおいしいもの食べて、どこかにいくとか、そういうことは、一切してくれなかったからなあ。」

香織は、私にそういうことを言った。

人間は、よく似ていることがある人にひかれるという。もちろん、対照的な二人が結婚するということも中にはあるが、大体の人は、似たようなところを持っている人にひかれてしまう。私は、大学時代に香織が付き合っていた、梅木さんを見たことはないけれど、きっとどこか、私と似たようなところがあったに違いない。

「お父さんと別れないでいてくれたら、お父さんは、考え直してくれたかもしれないのにね。」

と、香織は私に言った。私はそれを聞いて、思わずかっとなりそうになったけど、

「まあ、お母さんがそうしたのには、仕方ないと思うけどね。」

と、香織は言った。それに対して、私はある種の怒りのようなものが生じてしまって、

「香織、あなたがやっていることは、責任逃れというものよ。結婚は、責任という言葉でもあるんだし。理想的な家庭なんて、できやしないのよ。それに耐えることが、生活していくというものじゃないの。梅木さんに連絡を取ってすぐに戻りなさい。」

といった。すると、香織もそういわれることは予測していたのだろうか、ちょっとため息をついて、

「お母さんのそういうところ、あたしは、すごくいやだったわ。お母さんは、なんでも背負って、結局そうやって耐えているんだもの。そうやって、なんでも黙って耐えているって、かっこいいことになるのかなあ。」

と、言った。私は、じゃあどうしたらよかったの!というと、香織は、私の顔を真剣に見て、

「お母さんは、自分が本当に強くて、ほかの人は、弱いとか、意気地なしだとか、そういうことばっかり言ってたよね。お母さんが、弱い人助けたこと、一度もないよね。お母さんがしてるのは、あたしのために働くことだけ。ねえ、お母さん、あたしのためじゃなくてさ、ほかの人のために何かして頂戴よ。お父さんは、そこがちゃんとできていたから、別れたんだと思うよ。」

と、言った。私は、初めはバカにされたのかと思って、怒りの顔をしていたが、

「じゃあ、私は、お母さんのようにはなりたくないから。ひたすらに、家族のため家族のためって、働き続けるような人にはなりたくないの。」

と、香織は、椅子から立ち上がって、かつての自分の部屋に戻っていってしまった。

私は、なんていう間違いをしていたのだろうかと思って、ただ、呆然と天井を眺めていた。


その翌日。私は、いつも通り、映画館に出勤した。昨日は、結局、香織に言われたことが気になって、眠れなかった。館長が、茂木さんどうしたの?そんな顔してなんて心配していたけれど、私はいつもの通り、映画館の床磨きを開始した。

そうこうしているうちに、朝の部が始まる30分前になった。私は、映画館の入場口に行った。今日は、定員50人の映画館で、3人の人が開場するのを待っている。三人はすぐに、入場料を払って、中に入っていった。それと同時に、大きなワンボックスカーが、映画館の前に止まった。何の車だろうと思ったら、ドアに岳南タクシーと書いてある。そして、後部のドアが開いて、運転手さんが、車いすに乗った人を外へ下した。

「よし、ついたぜ。帰りも乗せてくれるかい?」

と、その人が、運転手さんに聞いた。客は車いすの男性と、付き添いと思われる男性とふたり乗っていた。運転手さんが、了解です、またこちらに電話をくださいと言って、付き添いの男性に領収書を渡した。

「さて、キューポラのある街、見に行くか。」

と、二人の男性は、映画館に向かって移動を始めた。そうか、昨日館長が言っていた、車いすのお客さんとは、この二人だったんだ。私は、急いで、

「ご案内いたします。」

と、急いで彼の車いすの持ち手の部分に手をかける。そして、映画館の中に入って、とりあえず、スクリーンから少し離れた、空きスペースに車いすを待機させた。

「11時から、映画が始まります。上映中は、ものを食べたり、お話はやめてくださいね。」

と、私は、一応その人に言ってみる。おう、わかっているぞ、とその人は答えた。付き添いの男性が、その人の隣の席に座った。

「しっかし、良かったですね。こういう昭和レトロな映画館で、車いすでも入らせてもらえるなんて。東京の、大手の映画館ですと、断られてしまうことも多かったんですよ。」

と、付き添いの男性が、そういうことを言った。

「断られたんですか?」

私は、思わず聞いてしまう。そんなこと、あったんだろうか?

「ええ、前に神保町の古い映画館で同じ映画を上映していると聞いたので、二人で見に行こうと計画していたんですが、映画館の人に、車いすはダメとはっきり言われてしまいました。そうでしたね、杉ちゃん。」

「おう、まったくだ。あそこは、頭が古いんだな。障碍者はダメっていう、古い頭だよ。」

杉ちゃんと言われた男性は、にこやかに笑った。

そうか、そうなると、こういう人たちが映画館に入れるようになったのは、まだ新しいことなんだと私は考え直す。確かにそうかもしれない。私は、いつも利益利益と求め続けて、こういう人のことなんか気にかけてもいなかった。これからは、こういう人も映画を見に来る時代なんだ。それならもうちょっと考え直さなくちゃ。私は、そう思いながら、

「じゃあ、お帰りの時に、またお手伝いしますから、おっしゃってください。」

と言って、とりあえず、受付に戻る。

同時に、館長が、映画館の入り口のドアを閉めた。キューポラのある街の上映が始まったのだ。


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名作 増田朋美 @masubuchi4996

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