夏の墓 8/8



 かつて、バーチャルアイドルという文化があった。

 隕石が落ちてくるよりも前。地球が凍るよりも前。人類が消えてしまうよりも、ずっと前。

 吾階世季は、そのことを知っていた。なぜなら、データが残っているから。電気は人類の歴史を生かした。そして、人類の精神もまた、今はこんな風に、死ぬより手前の幽霊みたいなところで繋ぎ止めている。

 凍眠室の映像が、中央ホールのモニターに映っていた。でも、そのホールには誰もいない。この世界に残ったたったひとりの生きている人間は、自分の部屋に引っ込んで、パソコンの前に座っているから。

 マウスをかち、かち、とクリックしている。試しに録音ソフトを開いて、新しく倉庫から引っ張り出してきたマイクの調子を確認している。デスクトップに常駐しているアイコンはたったひとつ。

「パッチワーク・アソート」。

 馬鹿げたことなんじゃないか、と世季は思っている。だってこんなの、どう控えめに見たって心の慰め以外の何物でもない。生きるのを諦めた人間たちが創った、自分たちの脳の中だけに存在する楽園。そんなものに、まだ生きている自分が縋りつこうとしている。

 いや、それだけならまだいい。ひょっとすると、あの「トト」を名乗る人物から託されたらしい文書ファイルは、まるっきり嘘という可能性だってある。このソフトが接続しているのは人間の脳が作り出したネットワークなんかじゃなくて、ただの見せかけのAIを詰め込んだだけの作り物なのかもしれない。だって、なにしろ22世紀だ。そのくらいのことはできるだろうし、というかそっちの方がもっと簡単に成し遂げられるだろうし。

 偽物で、ハリボテで、そんなものに逃げ出そうとするなら、無茶苦茶でも、破れかぶれでも、外の世界に出ていくべきなんじゃないかって。

 そうして、死ぬべきなんじゃないかって。

 思わないことも、ないけれど。


――いいよ。自分で決めたことだから。


 あの日の言葉だって。

 本当に、管理者なんてやっていいのかって。孤独で、ただ生まれて死ぬだけの生活を送ることを受け入れるのかって、そう訊かれて、自分が答えた、あの言葉だって。

 決して、嘘ではないのだから。

 生まれて死ぬだけになる覚悟なんて、とっくにできていたのだから。

「……思ったより、緊張すんな」

 軽く、ソフトの中身は確認してある。

 できることは、大まかに言って3つ。1つめは、配信すること。2つめは、SNSやメールを使ったやりとりをすること。3つめは、「パッチワーク・アソート」の他のメンバーと通話を含む連絡を取ること。

 SNSでの広報を通して、もうキャラクターのセットアップはしてある。使うキャラクターは「ヨキ」。説明書にそうしろと書かれていたわけではないけれど、今になってみれば自分が入り込むのはこいつ以外にいないだろうと思う。

 でも、疑問に思うこともある。

 どうしてこのアバターは、自分と同じ名前なのだろう。

 インターネットで調べてわかったはずだった。この「パッチワーク・アソート」は実在したグループだったということが。けれど100年前にいたバーチャルアイドルがたまたま自分と同じ名前なんてこと、ありうるのか? 「トト」が自分と同じ名前のバーチャルアイドルをわざわざ探してきたのか? それともあのインターネットアーカイブ自体が、誰かが自分をさらに騙すために作ったフェイク?

 もしくは。

 タイムマシン、って。

 本当に、

「うおっ!」

 心臓が止まるかと思った。着信音。それほど大きくはなかったけれど、不意打ちだったからめちゃくちゃに驚く。

「はてな」と、名前が表示されている。

 通話を繋いだ。

「もしもし?」

「あ、ヨキ? 配信前にごめんね。緊張してない?」

「やばい。指震えてるわ」

 あはは、と笑う声が聞こえて、少しだけ緊張が和らぐ。

 思えば、このメンバーたちもよくわからない。

「トト」という名前を見たときには、てっきりあの文書ファイルの製作者なのだと思ったけれど、通話でもメッセージでも「知らない」の一点張りだった。事前に連絡を取り合った限り、どう聞いたって普通の……あるいは、バーチャルアイドルをやる程度にはちょっと変わった人間たちだった。それだけ。

 それだけしかわからないから、余計に不思議になる。

「あのね。1対1だと思うといいよ。厳密には違うんだけど、最初の内はね。パソコンの前とか、スマホの前にいる人を想像して、その人を楽しませるように意識するの。それだったら、結構気楽でしょ? それに、1人笑わせたら、5人くらいは一緒になって笑ってくれてるから。リラックス、リラックス」

「―—もしかして、励ましに来てくれたのか」

「う、うん。迷惑だった?」

「いや、めちゃくちゃ助かる」

「……そっか。よかった」

 説明書には、書いていなかったのだ。

「パッチワーク・アソート」の面々が、どういう存在なのか。この仮想空間の中にいる人々は、自分の現状をどう認識しているのか。断片的な情報を集めて、なんとなくで感じているだけ。

 だから、ひょっとすると、なんて。

 こんなことを、思ってしまうのも。

「……なあ、ひとつだけ、訊いてもいいか?」

「なに?」

「今って、西暦――」

 そこまで言って、口を噤んだ。

「はてな」は怪訝そうな声で、

「え?」

「―—いや、やっぱなんでもないわ」

 何それ、と言う「はてな」に、ごめんごめん、と世季は返す。

 だって、

「野暮だもんな。偽物とか、本物とか、そんなの」

「……大丈夫? もしかしてヨキって、結構自分の世界に入っちゃうタイプ?」

「いや、たぶん今日だけ」

「えー、本当?」

「緊張してるんだよ。……あのさ、あと、一個だけ」

「多くない?」

「これだけ」

「じゃあいいけど……、何?」

 ああ、でも、と。

 迷った。よくよく考えたら、この「はてな」だって会ったばかりなのだ。こんなことを言うのは図々しいというか、厚かましいというか、距離感を測り間違えているかもしれない。あまり一般的な生活を送ってこなかったから、というのは言い訳だけれど、いまいち人との間合いの取り方がよく理解できていない。

 でも、もう一度「はてな」が「なに?」と優しい声で訊いてくれるから。

 それはおいおい学んでいくことにしよう、と開き直って。

「配信始まるギリギリまで、通話、繋いでてくれないか」

 少しだけ、戸惑ったような気配がした。

「いいけど……。わたし、これ以上面白い話とかできないよ?」

「いい。全然、それで。ただ……」

「ただ?」

 配信開始のボタンをマウスでなぞりながら、ふと世季は、風の音を聴いた。海の音も。蝉の声も。光の波が、窓辺に打ち寄せる音も。

 どこか遠くで。自分の知らないような場所で。自分の触れられないような場所で。本当にあるのかどうかもわからないような場所で。

 そんな音が、確かに聞こえていた。

 マウスに置かれた指先が、海へと続く透明な壁に少しだけ触れたような気がして、眩さに目を細めて、そのとき、ヨキは思い出した。

 それは、初めての配信の、5分前の出来事。

 あるいは、100年以上も後の出来事。


「ただ、一緒にいてほしいんだ」


 かつて、夏という季節があった。

 そのことを、思い出していた。



 がんばれ、と「はてな」が言う。時計の針が、最後の1秒を告げる。

 ボタンを押す音がする。




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実録!バーチャル配信の舞台裏!!(※暴露エッセイとかではなくごく普通のフィクション小説で、実録というのは嘘です。) quiet @quiet

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