201×年10月30日

 目を覚ますと、見慣れた天井だった。

 つまりここは自室で、俺はついに姫島の目の前で寝てしまったワケだ。


 失敗した、と額に手を当てる。ひんやりとした指先が、火照った顔を冷やしてくれた。


「おはようございます、夢寺くん」

「おはよう、お袋。俺、誰に運ばれてきたんだ……だ、だ?」


 急いで身体を起こし、声の主を確認する。母親は俺のことを『夢寺くん』なんて呼ばないし、こんな田村ゆかりのような声色をしていない。丁寧な口調でそう呼ぶのはただ一人。


「目覚めはどうですか」

「……最悪だ」


 姫島は俺のベッドのすぐ隣にいた。

 読んでいたであろうノートをパタリと閉じ、身体を向ける。


「バレちまったな、全部」

「はい、全てお母さまに聞きました。夢寺くんが過眠症を患っていること、学校にも隠すよう言ったこと……このノートのこと」


 姫島はそう言って、読んでいたノートを俺の前に差し出す。

 それは俺が姫島の病気を治そうとして、過眠症について調べていた時のノートだ。


「夢寺くんはやっぱり、優しいです」

「……恥ずかしい限りだ。姫島の病気を治せなかったうえに、今度は自分が過眠症になるなんて」

「何を言っているんですか。ちゃんと私の病気、治してくれたじゃないですか」


 違うよ。姫島は、自分の力で過眠症を治したんだ。


 そう思ったが、どうせ言い返されそうなのでやめておいた。


「病院には行きましたか?」

「行ったよ。でも無駄だった。隠してもどうせバレるから言うけどさ、俺の睡眠時間、増える一方なんだ」


 姫島が硬く唇を結んだ。


「酷いときじゃ二十二時間だぜ。たぶんこのまま行くと、ずっと眠り続けることになるかもな」


 そう言った瞬間、膝の上に置かれた姫島の拳が硬く握られた。そして意を決したかのように、口を開く。


「私が夢寺くんを治します」

「やめとけ」

「嫌です。絶対に治します」


 即答だった。


「お前さ、何のために過眠症を治したがってたんだよ。友達と遊ぶためだろ。お前の頭じゃ医学部なんて、夢のまた夢だ。それこそ勉強漬けの生活でもしねぇ限りな。それじゃ意味ねぇだろ」


「でも、夢寺くんがいなきゃ、意味ないですよ。夢寺くんがいなきゃ、私、ロケット花火も飛ばせないのに」

「他にいくらでもいるさ。ロクに気の利いた会話もできねぇ俺より、もっと恰好良くて、喋りが上手くて、ロケット花火が飛ばせて……姫島をスゲェ好きになってくれるヤツが」


 言うのは辛かったが、全部吐き出した。


 常々、思っていたことだった。


 姫島の周りにはもっと良い奴がいっぱいいる。


 俺みたいなのと一緒にいるべきじゃない。


「それにさ、姫島。希望はあるんだ」


 俺の言葉に、姫島が反応する。


「寝溜めってあるだろ? 姫島ならアレに意味がないことは知ってるだろうけどさ、俺に限っては例外なのかもしれない」


 姫島はただ黙ったまま、俺の話を聞いていた。続ける。


「計算してみたんだ。俺が起きていた七年間、一日八時間だとして、溜まりに溜まった睡眠時間は……およそは八百五十日分だ。三年にも満たない程度なんだ。きっと三年すれば寝飽きて、勝手に目覚めるさ」


 姫島は何も言わない。

 分かってる。

 こんなのはただの空想で、妄想だ。


「俺のことは転校したくらいにでも思っておけよ。三年後、お前の後輩として大学に行ってやる。大学入試なんて楽勝だ、すぐ追いつく。なんなら飛び級でもしてやろうか?」


 本当は、凄く怖い。いつ目覚めるかわからない。起きたら何十年後、なんてのもあり得るし、そんな長い時間、家族が入院費を払ってくれる保証もない。


 もしかしたらずっと、ずぅっと、眠り続けたまま、死んでしまうのかもしれない。


「だからさ……」


 涙は滲んでいないか。声は震えていないか。顔は真っ赤になっていないか。

 俺はちゃんと……姫島の顔を見ていられるか。



「絶交だ、姫島」



 全部無かったことにしよう。


 あの日、あの時、あの場所で、俺は姫島に会わなかった。


 勉強を教えてなんかいないし、保健室で線香花火なんかしなかった。


 二か月近く保健室へ足しげく通うこともなければ、姫島は誰の影響でもなく一人で頑張って過眠症を治した。




「お前のことなんか大嫌いだ。

 カップルだと思われて気色が悪かった。

 一緒の大学に行くと聞いたときは身震いした。

 カラオケに行けば音痴な歌声を聞かされてうんざりだった。

 一緒にいて楽しくなんかなかった。

 飯を食うのも一人にしてくれなくて。

 気味の悪い白髪頭で。

 胸は小さくて。

 人と話す時には言葉が詰まって挙動不審で。

 中学レベルの勉強もできなくて。

 ……自分のことより他人を優先してしまう。

 そんなバカとはつるみたくねぇ。

 死んでもゴメンだ!


 視界に入れるのも不快だ。


 さっさと帰れ。


 二度と来るな。


 お前を見てると吐き気がする!!」




 好き放題に言葉をぶつける。


 姫島との思い出を、想起した順に否定していく。


 二度と俺と会うことなんか無いように。


 一緒に過ごした日々は無意味だったと気づかせるように。


 言葉を絞り出す度、吐き気がした。

 思ってもいないことを言うのは、辛かった。


「……そう、ですか」


 姫島は、ただただ無表情だった。傷つけてしまったという後悔が、今更になってやってくる。


「私、帰ります」


 おもむろに帰り支度を始めた姫島を、俺は引き留めなかった。

 俯いたまま顔も上げず、シーツを固く握りしめていた。


「それじゃあ夢寺くん、さようなら」


 言葉を交わすのも嫌だったので、毛布を頭から被り拒絶の意を表した。

 階段を下りる音がする。

 玄関の蝶番が軋む音を聞いて、俺はやっと嗚咽を漏らした。


「――ごめん姫島……。ごめん、ごめん、ごめん……」


 号泣し、泣き疲れて、俺はいつの間にか眠っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る