第1話 雲上 光理について

 雲上うじょう 光理ひかりとは。大学生3年になった春。就職活動も間近に控えたこの季節にもなっても確固たるアイデンティティーは見つからず。モラトリアムに終止符を打てる目処もたてられず、今更海外にでも行って自分探しをするような金もなければ時間もない。

 まあ、そんな言い訳はずっとこの場所から動けずにいる自分を納得させるような理由はならないのだけれども。


 大学近くのファミリーレストランの裏手。廃棄物と潰されたダンボールが積み上げられている。その脇、従業員専用の喫煙スペースで手に持った煙草を吸い込んで、煙を吹かせながらたった15分の休憩時間を無駄に消化していく。立ち上る煙は段々と透明な空気と混ざっていき、その白さ失ってかき消えて綺麗な透明になっていく。


「折角の煙草の煙もすぐに消えちまうな……。」

「なんだ。雲上は詩人にでもなったのか?」

 積み上げられたダンボールに座るのはバイト先の先輩。先輩は紙煙草ではなくて電子タバコを赤く光らせて、紙とはまた別の甘いバニラみたいな匂いを辺に撒き散らしている。 

 飲食店の従業員としてはどちらとも失格だろう。まあ、匂いの付きにくい先輩の方が自分よりはマシかもしれない。


「ああ先輩、すいません。一人言が漏れました。」

「やってられん気持ち分かるけど、21になってそれじゃあこの先困るだろう。」

「ほんとですよ。すぅ……ふぅ――。まあ、そろそろですね。」

 トントンと煙草の先に溜まった零れ落ちそうな灰を落とす。灰が落ちた先端には真新しい真っ赤な火種が見えた。それはじわりじわりと乾いた葉を焼き尽くして、煙が空へ立ち昇っていく。

「休憩時間もそろそろだぞ――。あ、店長がさっきお前のこと呼んでいたから事務所行けよ。」

「分かりました。行きまーす。」

 呼び出しとはなんだろう。もしかしてシフトの調整だろうか。それ以外には特に心当りはなかった。あと1cmほど煙草がフィルタ先に残っていたけれども、喉に絡みつく煙の味も鬱陶しくなってきたので火種を押しつぶして事務所へ向かうことにした。

「行ってらー。」

 適当にひらひらと手で挨拶する先輩に軽くお辞儀をして店のから裏口の扉を開けた。


 先輩の助言に対して口では”そろそろ”なんて、言葉にはしてみたけれどもどうしていいかなんて分からない。勢いでこの街を飛び出したって答えなんて分かる気はしない。いっそ東京に就職したらなんて考えたこともあるけれど、きっとどうにもならないだろう。



「え、俺が指導ですか?」

 開口一番、店長は俺に今度入るらしい新人の指導を依頼してきた。今までそんな仕事はしたことがなかった。

「ああ、雲上くんもこの店では十分ベテランだよ。」

「俺にできますかねえ。」

 頭をぽりぽりとかきながら愛想笑いする。たしかに大学一年の春にアルバイトで入店してから考えるともう俺も3年目。ふと周りを思い返してみしていれば正社員とパートの年上のお姉さま方以外は先輩と俺くらいだけが勤続年数が長かった。しかしもう先輩は一人の後輩を指導しているし、何よりも大学4年目でシフトにあまり入っていないので適正ではないのだろう。


「ああ、大丈夫だよ。任せてもいい?」

「そうですねぇ……。」

「時給少しだけ上げるからさ。」

「はい!雲上、分かりました。」

「お、急に返事がいいねえ。」

 俺の威勢のいい二つ返事ににやりと店長が笑う。その一言で首を縦に振ることは分かりきっていたのだろう。

 ま、時給が上がるなら……やるしかないねぇ。

「いつだってやる気いっぱいですから。」

「ははは、頼んだよ。」

 立ち上がった店長からぽんと肩を叩かれる。目の前の店長からも俺とは違う煙草の匂いがする。まったくこの店は喫煙者だらけだ。客から苦情入ったりしないのだろうか。

「じゃあ仕事戻ります。」

 事務所の扉を閉じて店内へと戻っていった。




 時刻はもうすぐ夜の9時を周る。今日も勤労学生を立派に勤め上げた。店内を見渡すと夕食を食べに来ていた客足は鈍くなり初めていて、もう残っているのは趣味や勉強に興じる高校生、仕事帰りで疲れ切った顔の会社員。そして――


「いらっしゃいませー。お客様は何名様ですか?」

 別の同僚が入店した客の案内をしている。

「あー。えっと今は一人ですけど、あとで二人かもしかしたら三人になるかもしれないです。」

 聞き馴染みのある声。ずっと前から聞いているこの声をいまさら聞き間違えはしない。

「じゃあ4人掛けのテーブルにご案内致します。どうぞ。」


 それと――この時間にやってくるのは暇を持て余した大学生くらい。

「や、光理。今日もよく働いているね。」

 その暇を持て余した大学生様が今日もやってきた。

「よ、栞。いらっしゃい。」

「上がるの待ってるよー。後ではるも来るかもー。」

 すれ違いざまに片手をあげて、手を広げ挨拶する彼女の名前は坂下さかした しおり。俺と同じ大学部の学部で高校2年からの付き合いになる友達だ。

 栞はコツコツとブーツを鳴らして慣れた足取りでテーブルへと向かっていく。案内された4人がけのテーブルの窓際に座りながらベージュの春コートを脱いで畳んでいる様子が見える。今日も何か用があるわけではなくて、なんとなく暇なので寄っただけだろう。


 そんな感想を抱いて突っ立ていると、呼び出し音が店内に鳴り響いた。

「はーい。只今向かわせて頂きます。」

 反射的に答えて歩き始める。栞とは別の客からの注文だろう。端末を操作しながら表示版に光る番号の席へと向かう。

「さ……もう少し働くか。」

 音が出ないようなくらいの小声を出して自分に活を入れ、今日の最後の仕事に勤しんだ。




「どうしたんだ、今日は?」

 バイト上がり更衣室で私服へと着替えて栞の元へと向かった。その道すがらに一人分のドリンクバーを追加で注文しておいた。

「別に何でもないよー。ただ暇だからねー。」

 栞はカップスープを飲みながら俺の質問に適当に答える。普段から伏せがちな目を俺に向け、コップのストローをくるくると回し氷をカラカラと鳴らす。手持ち不沙汰なその様子は暇という言葉をよく体現している。


「最近よく来るけどお前バイトはどうしたんだ?」

「あ、辞めたー。言ってなかっったっけ?」

 辞めたなんてことをまるでおはようと挨拶するくらい気軽に答えてくる。

「ええ……。お前本当にすぐ辞めるよな。」

「ちょっとねー。色々あるんだよぉー。意外と、私にもね。」

 俺も適当な大学生活を送っているけれどもそれ以上にこいつも適当に生きている。ただ他人の目をどこか気にしている俺とは違って、栞はより自由気ままに生きているように見える。空に浮かんでいく煙みたいにいつか消えてしまいそうで、ふわふわとして掴みきれない。そんな存在感と不思議な魅力を振りまいている。



 テーブルに肩肘を付いて栞は俺のことをじっと見てくる。

「光理は何か食べないの?」

 今日、本当は家で食べようとしていたけれども栞がいてこの後に晴が来るかもしれないのなら予定変更しよう。

「ああ、そうだな。何食べようかな。」

 そう言ってメニュー表をなんとなくの手付きで広げるけれども、見なくても頭の中にすっかり入ってしまっている。今日は海鮮ドリアでいいかな。そう思い描いて、注文をしようとしてテーブルのベルボタンを押す。

「あ、晴来れるって。」

 ピンポーンと鳴り響く音に合わせて栞が声をあげた。

「また栞が無理に誘ったのか?」

「えー。無理には言ってないよ。」

 栞は白い歯をちらりと見せてにやりとした後、素知らぬ顔に表情を変えて事も無げに付け足す。

「暇だからーいいでしょってメッセージ送っただけー。」

「それを無理って言うんじゃないか?」

「そうかなぁー。そうかもねぇー。」

 そういいながら携帯に視線を落としてメッセージを入力している。晴に返信しているのだろう。

 晴は俺と栞の共通の友達。付け加えると俺の小学校からの幼馴染。高校まではずっと同じ学校だったけれども、やつは大学の別へ進んだ。奴は身体の線が細くて肌が白い。それでいて実は筋肉質で顔もいいし、人もいい。今日みたいな栞からの急で適用なお願いだって大抵叶えてやる。有り体に言えばモテる男だ。


「いいじゃん。3人でこのいるくらいが丁度いいよ。女友達とかもいいけどさー、なんかやっぱ面倒だよねー。」

 窓の外、走る車がオレンジ色と白色の光の線を描いて流れていく。それを遠く見つめて栞はぼやくようにつぶやいた。

 彼女は高校の時からあまり大人数で群れたがる人間じゃなかった。同じクラスになった俺と晴の間にいつのまにか馴染んで、いつの間にか暇があれば一緒にいた。人間関係を築くこと自体下手ではないはずだけれども、今の口ぶりどおり人間関係を良好に保つため気を使ったりする手間が嫌いなのだろう。

「俺達は面倒じゃないのか?」

「光理と晴は気つかわなくていいから面倒じゃない。」

 栞は俺の下らない質問にきっぱりと断言する。

「気ぃつかえよ、偶には。」

「まあまあ、偶にならいいよ。ふふ。」

 相変わらずに栞は空になったコップに残った氷をかき混ぜて手持ち不沙汰な音を響かせている。


「ご注文はいかがしますか?雲上くん。」

 呼び出しに応対してくれたのは宮森さんだった。とっても柔らかい笑顔が素敵な先輩。

「あ、宮守さん。すいません、海鮮ドリア1つください。」

「少々お待ち下さいね。」

 結婚されてお子さんもいるけれどもこんな遅い時間まで働いて家計を支える立派な大人の女性。わざわざ俺にペコリとお辞儀をして去っていった。

「いつ見ても歳の分からない綺麗なひとだねぇ。」

「子供が二人いるよ。」

「えぇー。本当?すご。」

 心底驚いた顔をした栞は、はぁーっとため息をつきながら宮森さんの後ろ姿を見つめる。すごいという彼女の感想には同意する。

「見過ぎだぞー。」

「あっと、危ない。セクハラで怒られちゃうねー。」

 視線を外した栞はコップを持って立ち上がる。

「ちょっと注いでくるねー。」

「はいよー。」

 少しだけの間、席に一人取り残された俺は窓の方へ向く。外の景色を眺めるのではなくてガラスに薄く反射する店内を見つめていた。栞がドリンクバーの前に立ち止まって首をかしげている様子がぼんやりと見える。細かくは見えないけれども、長年見てきた彼女の癖を考えるきっと顎に手を当てて目を細めながら悩んでいるはずだ。

 

 そうして何をするわけでもなくボーッとしていたら晴から俺にメッセージが届いた。今、長い信号待ちをしているが、もう後5分もすれば付くらしい。わざわざ俺にまで連絡を送ってくるなんて相変わらず細かなやつだ。



「よ!二人共待たせた。」

「待ってたよー晴。来てくれてありがと。」

 到着した晴に栞の横に座る。帰り道から少し外れるここまで来るのは苦労だろうに。

「栞、ありがとうって本当に思ってるか?」

「思ってる思ってる。」

「嘘くせー。どれくらいだよ。」

 彼女の用意していたような反応の早さを見て晴が怪訝な顔をする。

「これくらいは思ってるよ。これくらい。」

 栞は親指と人差し指で何か小さな物を掴めるくらいの隙間を晴見せつけて、口元をにこっとさせてまた嘘みたいな笑顔を見せた。

「ちっせえ。足りね―。」

「わがままだなー。私のありがとうはこれだけで結構高いよ?」

「高すぎるわ!」

「あはは。」

 晴はきちんと栞の適当なボケにも突っ込みを入れてやる。周りから見ても、とういうか俺達からしても中身のない会話にさえ腹を抱えて笑う栞につられて俺達2人も笑う。3人でいればいつもそんな感じだ。



「晴、今日も大学に残ってたのか?」

「ああ、そうなんだよ。今度のアイディアコンペに間に合わせたくてさ。でもまー、インスピレーションが沸かないね。」

 晴は建築系の専攻をしている。学生の立場ながら応募可能な限りのコンペに作品を提案している。時折だけれども入選もしているようだ。

「そこまで良くバイタリティ持つなぁ。」

「今のうちにやれることはやっておきたいんだよ。」

 本当にいつも眩しいくらいに真っ直ぐなやつだ。そのストイックさ故か同学部の女子に告白されてもいつも断っている。より好みできるくらいに容姿も性格もいいのに勿体ない。


「私が家建ててもらうとき、晴にデザインしてもらうねー。」

「いいけど、お前が買うんじゃないのか?」

「私がそんな稼げると思う?無理だよ。」

 栞は俺に何を言っているんだと言わんばかりに食い気味に否定してくる。

「そこは嘘でもいいから買うって言っとけよ。」

「出来ないものは出来ないの。」

「割り切りが良いのか、根性がないのか……。」

「うるさーい。」

 栞は俺達の言葉にべーっと舌を出して悪態を付く。本当に怒っているわけじゃない、ただじゃれているだけだ。

 他愛のない話だけで今日も時間が過ぎていく。



 あの後も散々適当に時間を潰して会計を済ませた。店外に出ると人通りはもちろん、車の往来も数が少なくなったように感じる。その代わりに大型のトラックが大きな音を立てて走り去る頻度が高くなっている。走り去るときに強い風を辺りに吹き付ける。


「じゃあ、二人共またな。」

 晴は単車を止めてある方向へ向き俺達に別れの挨拶をする。彼の家は方角が逆なのでここで別れることになる。

「またねー。」「じゃあな。」

 栞と俺は晴に手を降って見送った。フルフェイスのヘルメットを被り、単車に跨った晴は颯爽と夜の街へ消えていった。


「じゃあ俺も帰るからな。」

 俺の原付きは従業員用の場所に停めてある。栞はこのまま駅前の家に帰るのだろう――。そう思っていたのだけれど。

「あ、今日さー。実家帰らないと行けなくてー。ね、光理後ろ乗せてよ。」

「はぁ?ヘルメットが二人分無いから二人乗りは出来ねえよ。捕まりたくないし。」

「じゃあ安全運転でよろしくー。」 

 彼女は俺の返事をまるで意に返さないように、流れるような動作で原付きの後ろに跨る。ぽんぽんと座席を叩き促してくる。

「分かった、分かったから。」

「さ、レッツゴー。」

 押し切られた俺はヘルメットを栞に付けさせる。

「わ。何、貸してくれるの?」

「そうだよ。付けとけ。あと、コートの裾ちゃんと開かないようにしとけよ。」

「りょうかーい。」

 エンジンを掛けてゆっくりと店の裏から走り出す。できる限り裏道を通って速度を落としていこう。


「やっぱ速いね歩くより断然。」

 後ろにしがみつく栞は嬉しそうに声を上げる。

「晴の単車に乗せてもらったほうが速いぞ。」

 彼女に聞こえるように大きく声を張り上げる。

「さすがに逆方向だからさー。ちょっとは遠慮したのー。あ、降ろすの光理の家の前でいいからー。」

 彼女の実家は俺の家の近所だ。彼女が中学の時に再婚したらしく家族と折り合いが悪いのか大学に入ってからは一人暮らししている。実家に顔を出すのは珍しい。


 家が近づいてきて周りが住宅街になってくる。

「桜―すごい、綺麗だねー。」

「そうだなー。もうすぐで満開だな。」

 家の近く、公園沿いの道にさしかかると桜が街灯に照らされてひらりと花弁を舞い散らせている。白のような黄色のような光に照らされた桜は昼とは違った表情で物静かに立ち並んでいる。

「今度、3人で花見しよー。」

「いいよ。じゃあ来週くらいなー。」

「よし、やったー。」

 近所迷惑にならないか心配になるくらいに栞は明るい声で喜ぶ。二人乗りをしていなくてしがみつく必要がなかったら両手を上げていそうだった――。




「はい、到着。」

 家の前にたどり着いたのでエンジンを切り、栞からヘルメットを回収する。

「光理、サンキュー。」

 栞はピースサインをして満面の笑みを浮かべる。

「明日は歩きでいくのか?」

「そう、かなー。まあ3限からだから、大丈夫でしょう。」

 ここから歩くとなると結構時間がかかるが、まあ、大丈夫というなら何とかなるか。

「またな。」

「はい、おやすみー。またねー。」

 ポケットに手を入れながら一人住宅街を歩いていく栞の後ろ姿を見送って俺は家の扉を開けた。


「ただいま。」

 別に誰の返事もあるわけではない。両親は2年前に親父の単身赴任に同行して引っ越したので、今はこの一軒家に俺だけが住んでいる。大学生になって20歳になる直前だったのでもう手がかからなくなったとみたのか、ただ二人の仲がいいだけなのか、同行した良く理由を尋ねたわけではないがおかげで気楽な生活にはなっている。

 

「はぁー。」

 ため息の理由は一人で寂しいわけではない。アルバイトに疲れてついたため息でもない。

 さっきまで一緒にいた栞のことを思い浮かべてため息をついた。自分でも女々しいとは思うのだけれども、高校からずっと彼女のことが好きなのだ。だから、大学の2年頃に一度決心をして告白をした……つもりだったけれどものらりくらりと彼女には上手くかわされた。

 きっとこれ以上彼女にアプローチしても、今日言っていたところの“面倒”な人間関係になって疎遠になるかもしれない。そう思って今日みたいな友達よりも近いようなそうでもないような微妙な距離感のままずっと3人で一緒にいる。もしかすると、彼女は晴のことが好きなのかも知れない。

 一人の時に栞のことを想うといつまでもこの先の進み方がわからなくなる。割り切りをつけて諦められるのなら、いっそ全部忘れられるのならそれが良いのに。

 同じ場所で悩んでいる自分自身がいつまでたっても分からないままだった――。

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サニーレインの雫 四季 @siki1419

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