月の出
七辻ヲ歩
月の出
帰宅してまもなく鞄を壁際に置くと、部屋の明かりも付けずに窓際まで足を進めた。窓を開け、ひんやりとした空気を受けて、頼りない欄干は右側、窓のへりに腰掛けて、胸ポケットに入れていたアイシーンワンを一本咥えてライターを近づける。
窓からの景色は、真夜中のしとねに包まれて色を失っていた。さいわい、窓の向こうは広めの売地で、雑草が伸び放題と、見上げれば星空もよく見渡せる。都心の空は明るいが、それでも左手に北斗七星が大きな柄杓の体をして存在を知らしめており、聖は柄杓のふちが指し示す北極星を眺めながら、咥えていた煙草を取り上げて息を吐いた。吐き出される煙が外へと逃げ立ち昇っていく。
携帯灰皿に吸い殻をねじ込み、しっかり畳んで左ポケットに放り込んだ。僅かに残る煙草の香りが夜風に混ざり、だんだんと薄らいでいく。気が済んだところで腰を上げ、網戸を閉めると、暗がりのまま冷蔵庫の扉へ手をかけた。
「しまった。夜食を買って来るんだったな……」
申し訳程度に残っている調味料と青色の缶コーヒーが三本並ぶだけの空っぽな冷蔵庫をやむなく閉めると、財布を引っ掴んで靴を履き直し扉を開けた。部屋の中に鍵のかかる音が残る。
夜二十二時をまわっても蛍光灯の煌々とするスーパーは、売れ残りで値下がりした惣菜や弁当が並び、帰りの遅くなった会社員や近隣に住む人々が軽装で店内をうろついていた。聖もその中に交じり、適当に数品を手に取り会計へ持ち込むと、ついでに煙草の銘柄を告げる。身分証の提示を聞かれて大学のIDを差し出し、無事に会計を終えて、渡された袋に生温い弁当と惣菜を詰めた。スーパーの出口から外へ出ると、ふと黄赤色に照る街灯が作るおおきな影に気が付いて空を仰ぐ。
「桜?」
そこには街灯で花弁が重なり透ける八重咲きの桜が枝の先までたわわに咲き誇っていた。ちょうど見頃で、街灯下の夜桜とはどこに目を移しても絵になりそうな場面に、聖はガラケーを取り出してカメラモードを起動させると、桜にレンズを向けて撮影を試みる。数回シャッター音を鳴らした後、画像を覗き込んで、溜息。分かっていたように顔をしかめた。
「やっぱり夜中じゃ無理か」
ほとんど暗闇で何も見えない画像をそのままにガラケーを閉じてポケットへしまい込むと、改めて来た道へ振り返りぽつぽつと歩き始めた。
家まであと五分も満たない通りまで差し掛かかる頃、不意に立ち止まり後ろを振り返った。何かに呼ばれたような気がして、波立つようなざわめきを胸元に感じ、暗い通りの先を見つめる。
ああ。昇ってくる。
肉眼では見えないアスファルトの向こう側から気配を感じ、居ても立っても居られなくなり、彩央台地への登り階段を思い付いた聖は、その方向へと駆け出した。左手に持つ弁当袋が大きく振れて、慌てて袋の口を縛り左手で抱え持つ。通りを右に曲がると、数軒先に登り階段が見えてきた。息が上がり始め、垂れ下がる髪を払って階段のふもとまでたどり着くと、登り階段へ鉛のように重い脚を掛ける。慣れない運動に息を切らしながら、手すりに助けを借りて一歩ずつ踏み昇っていく。
階段の中腹に差し掛かったところで後ろを振り返ると、街並みが眼下に広がり、夜空が少しだけ広くなっていた。早鐘を打つ胸を抑えながら、聖は目をさらにして夜空と街並みの境目を望み、よくよく目を凝らしてみる。
「……ああ。今晩は」
聖の表情が途端に緩み、思わずぽつりと挨拶を口にした。
やや左側に見える煙突の影の傍らに、赤く欠けた月がぼんやりと昇り始めている。聖は、疲労であがった息のことなど忘れて、月がゆっくり昇っていくのを眺めた。月はだんだんと高度を上げ、雲に霞み、はにかんでいるようだった。月に見とれたまま、聖は手すりに寄りかかり、おもむろに胸ポケットからアイシーンワンを取り出して口に咥え、ライターを取り出したところで、ふと我に返る。
こんなところで煙草を吸うのは良くない。そう思いつき、聖は煙草を箱に戻した。
「どうしてかな」
聖は月に呟く。
「昇ってきたって、なんか呼び声のようで」
月は次第に黄味を増して朧になる。
聖は右手を胸元に添える。さっきのようなざわめきは、もうそこにはない。
「今日は帰るよ。ありがとう」
聖は月へ会釈をすると、名残惜しくゆっくりと階段を降り始めた。遠くの街並みが住宅地に沈んでいき、夜空が狭くなって、やがて月も一緒に飲み込まれてしまった。
月の出 七辻ヲ歩 @7tsuji
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