夏目有紗

 

 下北沢にある小劇場には控室が二部屋ある。一部屋は基本的に着替え用で、もう一部屋が多目的用なのだが、どちらもそこまで広くはない。特に、多目的用の小部屋は中央に長方形のテーブルが置かれており、そのテーブルを取り囲むようにソファが置かれているのだが、壁とソファの隙間はほとんど無く、埃が溜まっている。その上、ソファの半分くらいは演劇で使う小道具が山積みにされており、男性が五人座るのがやっとの空間。中央のテーブルには差し入れでいただいたお菓子が誇らしげに並べられているが、差し入れをしてくれる人達の多くは同じ演劇仲間であったり、親族からのものであったりする。その中でも演劇仲間や親族からではない差し入れがいくつか混じっていた。それらは全て今ソファにどっかりと腰をおろした男性へのものであった。


「今回はギリ黒字だったらしいね。」


 自分のお陰であるとでも言いたいのか、この人は。


 苦笑しながら彼の言葉に私は頷き、テーブルの上のチョコレートを手に取った。私も目の前の先輩もソファに身体を預けているが、ソファはだいぶ古く、ピンク色なのは分かるのだが、あちこちが黒ずんでいる。今の少ない収益ではとても新しいものに取り換える余裕は無い。


 先輩の顔はモデルでもできそうなほど端正な顔立ちをしている。背も高めだし、中肉中背で女性ファンができるのも自然な流れであった。声だって低めの澄んだ声で、初めて出会った時はときめくというよりも世の中にはこういう勝ち組がいるのだな、と呆気に取られてしまった。


「彼女達、結構出してくれたのかなぁ。」


「ありがたいですね。」


 彼女達、というのは先輩のファンでもあり、まぎれもなく付き合っている相手。つまり、数股。本人達も数股されているのは薄々分かっているらしいのだが先輩を捨てることはできないらしく、それどころか先輩にヒモ生活をさせてしまっている始末だ。先輩がヒモであることは団員内では周知の事実で、彼にすり寄ろうとする女性団員は誰もいなかった。お陰で彼についたあだ名はヒモ先輩。先輩という言葉に若干、男性団員の尊敬の念を感じる。


「ていうかヒモ先輩、煙臭いです。」


 顔をしかめる。狭い小部屋には煙草のヤニ臭さが充満していた。


「さっきまでそこで吸っていたからなぁ。」


 そこ、と先輩が視線を向けた先は劇場を出てすぐの喫煙所。喫煙所と言ってもお粗末なもので壁らしい壁は無く、煙は道路に漏れ出ている。もっとも下北沢とはそういう場所だ。無名の目立ちたがり屋達が一丁前に煙くゆらせてあちこちの舞台で偽りを演じたり、ギターをかき鳴らして愛を叫ぶ。特にバンドマンなんか複数の彼女をライブハウスに招いておきながら一途な愛を歌い上げるのだ。彼女同士がお互いの存在に気付いた時は大変で当然修羅場と化すのだが、下北沢では日常茶飯事。噂を聞いても、またか、と誰かが呟くだけですぐに忘れ去られてしまう。むしろ、モテるためにバンドをやっているようなものなので、彼女を作らないというだけで話題となったバンドのグループがあるくらいだ。一方、演劇勢は煙草を吸って退廃的な感傷に浸っている自分に酔いしれる程度で、多くは数股などしない。どちらかと言うと自分が一番可愛い人間が多いので、他者にそこまでのめり込めないという方が近い。その点、ヒモ先輩は演劇勢の中では異質であった。何人もの女性と付き合ってヒモとして煙のようにふらふら。


「ちゃんと消臭してから来てくださいよ。私、煙草嫌いなんです。」


「はいはい。」


 端正な顔が私の小言で歪む。彼をヒモとして自由にさせてしまっても尚、彼にしがみついている女達にはできないこと。私の心の奥でそっと暗い炎が揺れる。






 昨晩、小さなアパートへと帰ると、同棲している彼氏が一足先に帰って風呂を沸かせていた。彼氏の身体からは微かに先輩の煙草と同じ臭いがした。私は昼間は社会人として働き、退勤後に社会人の演劇サークルで活動しているが、彼は大学生として勉強する傍ら、バーでバイトしている。平均的な身長、がっしりした体つき。


「臭い。」


「今日、ずっと煙草吸っていた客がいたから。すぐ消えるよ。」


 彼が私の肩を抱き寄せ、唇にキスを落とす。唇と唇の隙間からどちらからともなく舌と舌が絡み合い、お互いの口の中を玩ぶ。真面目な大学生だからか、何度か抱き合ううちに、彼はすぐに私という女の扱い方を習得していった。キスだけで脳がぼんやりとし始め、体が口の中から溶けていく。身体が熱くなり、下半身の力が抜ける。


 複数の女を夢中にさせているくらいだから、きっと先輩はキスも何もかも上手いのだろう。彼氏とどちらが上手いのか。キスの上手さなんて分かるほど私は男をあまり知らない。


 彼に促されるがままに服を脱ぐと布団の上に押し倒される。耳を甘噛みされそのまま舌でちろちろと遊ばれ背中にぞくりと気持ち良さが駆けた。自然に喘ぎ声を漏らして期待感が否応にも高まる。彼は私の性感帯を熟知している。


「好きだよ。」


 優しい声がして、再び唇を重ねると、割れ目の隙間から蜜を溢していた蕾を彼の指が何度も弾き、キスの合間に、うぅ、と歓喜を漏らす。先輩の匂いの中で私は頭を真っ白にしながら、何度も喘ぎ、しがみつく。


 先輩は私のことを信用しきっているし恋愛対象になるなんて思ってもいない。だから甘い言葉を吐くこともないし、女関係を隠そうともしない。もし、私が演劇勢として出会うんじゃなくて、何も知らずに先輩と出会っていたら、先輩は私をそういう対象として見ていたのだろうか。こんな夜はどんな言葉で口説き、どんな顔を私に向けていたのだろうか。


「愛している。」


 快感の中、優しく響いた声は彼の声のようで彼の声では無いように聞こえた。






 目の前の男は最近の入り浸り先である女をどう落としたか得意げに話している。女が出掛けている最中に女の貯金していたお金でパチ屋に行って、余った金で花を買ってプレゼント。毎度のことながら屑過ぎるし、どうしてそんな手口で女性達が彼に依存してしまうのか理解できない。彼女らはこんな先輩の姿を知らない。


「……もし、私をそういう対象とするなら先輩はどうしますか。」


 不意に口をついた言葉に自身でも驚きを覚える。心臓の音がうるさかった。二重の瞳が私の顔を捉える。目頭が熱くなるような気がしたが、口が歪んだりしないよう表情筋に力を入れる。幸い、私の異変に彼は気付かず、あっさりと答えた。


「うん、あえて告白とかはしないかな。」


 え、と小さく声が零れた。彼は軽やかな笑い声をたてる。


「だって好きなんて言ったら俺のことをどうにかしようって小言増えそうじゃん。俺重いのは勘弁。」


「そんな重くないですって。」


 もう、と呆れたような声を作ると、彼は近くにあったボールを握る。天井に向かって小さく彼は投げる。ボールは先輩の顔辺りでカーブを描き彼の掌に収まる。恐らく随分前の舞台で使った小道具。とはいえ、小道具は何度も使い回すもの。


「大切に扱わないと小道具さんに怒られますよ。」


「そんなヘマしないって。」


 途端、小劇場の方から女性の声がした。


「バミるから誰か来て。」


 バミる、とは照明の位置を調整すること。実際に舞台の上で役者が立つ位置に光が当たるようにする。


 はーい、と声を小劇場の方へ向かって返し、立ち上がる。先輩に背を向け、舞台の上、人工の光が照らす先へと足を踏み出す。体にまとわりつく先輩の匂い。




 ――私は役者。小さな劇場で今日も演じ続ける。

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夏目有紗 @natsume_novel

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