第5話 勇太、ピンチを救う
勇太は愛理とゆきのグループに加わり座席に着いた。男子二人も一緒だった。二人とも座るなり早く彼女たちに話しかけている。好きなアイドルの話や、テレビ番組の話などをしている。アイドルの名前は聞いたこともあり、勇太は大人しく話を聞いていた。男子の一人が突然勇太に質問の矛先を向けた。
「正木君は好きなアイドルいるの?」
「ぼ、僕は特にいないなあ」
やたらな名前を出して、知らないだとか、この時代全く無名だったらまずい。いることはいたのだが、名前を出すことははばかられた。休み時間はあっという間に終わり、授業が始まった。この日は講義をする予定だと吉田先生から説明があった。勇太は心の中で彼女の事を「はるかさん」と呼ぶことにした。
「さて、今日は物質についての勉強をします」
「物質?」
ははーっ、成分の話かな。と思いながら教科書を開いた。表紙の裏には化学記号が羅列してあった。これは丸暗記したことがある。まだ覚えているぞ、しめしめ、と顔を上げるとはるかさんと目が合った。興味を持ってくれているのだろうと、にっこり微笑みかけてくれた。はるかさんは、男の下心というものに気がつかないようで、目が合うたびに微笑んでくれる。教師の心得に、興味を持っている生徒には微笑み返しをすること、とあるのだろう。そんなわけないか。でも、聞いている間、何度も目が合った。
授業が後半になると、ワークシートが配られた。今日話を聞き分かった内容を記録したり、教科書の部分をまとめたりするものだった。最後に感想を書く欄があったので、勇太はそこに思いのたけを綴った。
【吉田先生の授業は分かりやすく大変勉強になりました。僕たちの興味を喚起し化学を好きになるように工夫されていて素晴らしい。聞いていると、微笑みを返してくださったのにも感激しました。僕は化学が大好きになりました。今後ともよろしくお願いします】
おお、上出来だ! 勇太は我ながらよく書けた、と終業時間になるのを待っていた。すると、吉田先生は机の周りを回り始め、書いているところを覗き込んでいる。勇太の机のところまで来て、後ろから勇太のワークシートを覗き込んだ。
「あら、良くまとまっている」
「どうもっ」
勇太はあえてぶっきらぼうに答えた。さらに最後に書かれた感想を読んでいる。顔の後ろにぴったりとくっついている。間隔はほとんどない。体がすれすれくっつきそうだ。列の間を歩くとそのくらいの距離になってしまうのだ。これは机の造りによるものだから仕方がない。大人の女性とはありえないほどの至近距離だ。
「まあ、私の顔ばっかり見てないで、ちゃんと勉強してね!」
「す、すいません」
ゆきは勇太の方を見て、一言いった。
「勇太ったら、先生が美人だからってしょうがないわねえ」
「あああ、そんなわけじゃあ」
高校生というのは、ずけずけと物を言うもんだ。デリカシーというものが全くない。はるかさんは僕の頬に人差し指を当てていった。
「まあ、理科に興味があったことに免じて許してあげるわ」
「ほお、良かった」
高校生というのも大変なもんだ。ワークシートを提出し、勇太たちは化学室を後にした。ゆきには教室を出るなり冷やかされた。
「確かに吉田先生は若いし素敵な人だけど……勇太は年上の女性が好きなんだね」
「いや、年上も年下も好きだ」
「そうなんだ」
大人をからかうなんて悪いやつだ。授業が終わり放課後になり、勇太は図書室へ行き新聞を読んだ。雑誌のバックナンバーがあったので、グラビアなどにざっと目を通した。当時話題になった人物の事を思い出した。
ゆきはダンス部の活動があるとかで早々と体育館へ行っていたので、放課後は一人で校内を散策していた。貸出係の人は全員の顔と名前を憶えているわけではなかったので、勇太がいても別に物珍しそうな顔はしなかった。
そうだ! もう一度化学室へ行ってみようか。
はるかさんが授業の準備をしているかもしれない。でもなあ、親しくなったからと言ってこっちの世界の事は後で消えてしまうのかもしれない。悩みに悩んだが、彼女と話をしたいという誘惑には勝てず、結局足が向いてしまった。
化学室の後ろの扉を開けると、すうっと開いて人のいる気配がした。小声で誰かと話をしている。盗み聞きするようで悪いとは思ったが、自然に話声が聞こえてきた。はるかさんと誰か男の声だった。
「仕事中に変なこと言わないでよっ!」
「変なことじゃないだろ」
「もう、あなたとは付き合わないって言ったでしょ」
「この間家へ入れてくれたじゃないか」
「あれは、あなたが雨が降ってて傘がないから雨宿りしなきゃっていうから、寄っていっただけじゃないの」
「男を連れ込んどいて、そんな言い訳が通用するはずないだろ。近所の人も見てるんだぞ」
「酷いわ。私を脅す気?」
「脅してるんじゃない。俺と付き合えばいいだけの事だ」
相手の男は誰だろう?
はるかさんは本心から嫌がっている。もう少し話を聞いてみるか。ああこんな時にスマホがあれば、会話を録音して証拠として突き付けてやるんだが。勇太は最良の方法を捻りだそうと考えた。あとほんの少しだけ扉を開けて二人のやり取りが見えないかそっと覗いた。はるかさんがこちら側を向いて涙ぐんでいた。男の方はこちらには背中を向けた状態で仁王立ちしている。
「仕事中まで付きまとって、止めてよ!」
はるかさんは顔を覆ってしまった。嫌だと言っても、本当は多少気がある場合もあるが、これは明らかに嫌がっている。
「俺はあきらめないから。それから、他の男に思わせぶりな態度取るのも止めろよな!」
「もう許せないっ!」
「だから何だよ」
俺は、これ以上耐え切れなくなりガラリと扉を開けた。男が慌てて後ろを振り返った。この学校の教師らしきその人は、ぎくりとしていた。
「何だ、お前は。見慣れない顔だな。立ち聞きなんかするなど悪いやつだな。この学校の生徒じゃないな!」
「悪いのは先生じゃないか! さっきから聞いていれば、吉田先生は、もうあなたとは付き合う気は無いって断ってるじゃないっすか。高校生の俺でも、嫌われてるのにいつまでもぐじぐじいうのは、男らしくないってわかりますよ」
「何だと、生意気な!」
すると吉田先生は、勇太にいった。
「正木君、それ以上言わなくていいわ。あなたがトラブルに巻き込まれて学校にいられなくなったら困るわ!」
吉田先生は、こんな時でも俺の事を心配している、と勇太は嬉しくなった。
「いいんです、言わせてください!」
再び男の方に向き合っていった。男の方も自分と同じぐらい多分三十歳ぐらいだ。言いたいことを言ってやれ。
「先生、これ以上付きまとうと、今聞いた事を教育委員会に話しますよ。そうしたら、先生はこの学校にいられなくなります。同僚の女性とトラブルを起こしたんですから」
この手の事があれば、転勤させられるのが大人の社会ではよくあることだ。させられないまでも校長から厳重注意されるはずだ。こいつの出世も危ぶまれるかもしれない。
「そんなことを訴えて、下手をしたらお前だってこの学校にいられなくなるかもしれないぞ」
「僕は交換学生ですから、数か月後にはここを出て行くんです。構いませんよ」
「く、くそう……なんて奴だ……」
そいつはこぶしを握り締め、黙って俺の前から姿を消した。あんな奴にもう二度と会いたくない。卑劣な手で女性と付き合おうなんて許せない。
はるかさんは、ホッと気が抜けてしまったのかその場に座り込んでしまった。勇太は、優しく肩を抱いていた。
「正木君、ありがとう。君って頼りになるね」
勇太の優しさに力付けられた吉田先生は、静かに立ち上がった。勇太はたまらなく嬉しくなった。
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