カラタチも花が咲く
増田朋美
カラタチも花が咲く
今日、影浦医院に診察を申し込みに行ったところ、影浦医院は、ちょうどすいている時間帯であった。ほかに待っている患者さんもいなかった。いつも吉田綾乃が訪れる時間帯であると、長蛇の列ができていて、当たり前であるのだが。今日は、もう午前の診察が終了するギリギリであったため、混雑していなかったのだと思われる。
「じゃあ、おかけになってお待ちください。」
と、受付係にいわれて、彼女は待合室の椅子に座った。ほかに座っている患者さんはいないから、とりあえずここで待っていることができた。
しばらく、持ってきた漫画の本を読んで、彼女が待っていると、診察室の扉が開いて、一人の男性が現れた。もうかなり回復してきているのだろうか、表情はさほど暗くなく、にこやかにしている男性だった。綾乃は、自分がそういう顔になれる日は、もうないんじゃないかと思っていたので、ちょっと、その男性が憎らしくなった。
「立花公平さん。」
と、受付係に言われて、彼ははいと返事をした。とりあえず、通院費公費負担制度でも入っていたのか、格安な診察料を払って、その代わり大量の薬が名を連ねる処方箋をもらって、彼は病院を出ていった。
「吉田綾乃さん。」
と、受付に言われて、綾乃は診察室に言った。
「失礼いたします。」
と、彼女は言って、診察室に入った。
「はいどうぞ。」
医師の影浦千代吉は、にこやかに笑って、彼女を迎え入れてくれた。この科では、いつも医者がニコニコしているという特徴があった。もちろん、外科の先生であっても、にこやかにしている人はいたけれど、この科ではそれが特に重要になる。
「前回、鬱がお辛いとおっしゃっていましたよね。それで確か、頓服で抗うつ薬を出しましたけれども、そのあと二週間、どうですか?」
と、影浦に聞かれて彼女は、
「ええ、せっかく薬を増やしていただいたのに、何も変わらないで、そのままになっています。」
と、答えを出した。
「そのままになっています、と言いますと?」
と、影浦にきかれて、
「ええ、変わりません。相変わらず気分はつらいままだし、気がいつまでたっても晴れなくて。」
と、綾乃は答えた。
「そうですか。何か変わったことはありましたか?家の中で、例えば、ご家族に何かあったとか。」
影浦が聞くと、
「ええ、そうですね。変わったことと言えば、ちょうど、田植えの準備で、父と祖父が口論になっていました。毎年のことですけれども、私はとても同じ場所にいられないほど、つらいおもいをしました。」
と、彼女は答えた。彼女の家は、コメ農家である。と言っても専業農家ではない。祖父が、年を取る前は、そうやってきたが、現在はサラリーマンとして働いてきた父が主役をやっている、はずである。でも、主導権を握っているのは父ではなく祖父である。だから口論になることも多い。母がその仲介役になっているが、綾乃は、母のようなことはとてもできないと思う。
「そうですか、またそういう口論をしていましたか。」
「ええ、祖父は、また年を取って、記憶力が落ちたからと言い訳して、何も覚えてないと言いますし、父は父で、まだ機械の操作も覚えてないので、どうしたらいいか教えてくれと言い張って。そういうことでいつまでも口論しているですよ。そうじゃなくて、父の質問に、祖父がはいと答えればいいと思うのに、そうはならないんですね、うちの家と言いますのは、、、。」
という彼女に、去年も彼女はそういうことをいっていたと影浦は思い出した。もうこのセリフを聞いて何年になるんだろう。影浦のような第三者から見れば、本当に些細な事であっても、患者さんにとっては重大なことである場合もある。だから患者さんの言うことを、バカにしたり笑ったりしてはいけない。また同じことを何回も言うなと嫌がるような姿勢もしてはいけない。影浦は、そうですかと彼女の話を聞く。患者さんたちは、愚痴を漏らすような人もいない。家族にも言えないし、ましてや他人に相談する何てできやしないとしている人が非常に多い。だから、ここでは、あなたの味方だよ、という姿勢に徹する。そうすることによって、やっと患者さんに信頼される医者になったと思う。
「ええ、私は、つーと言えばかーで答えるというのが理想的だと思うんですけれども、うちの家は、みんな頭が悪いとか、年を取ったとか、そういうことで答えから遠ざけてしまうんですね。誰でも自分から学ぼうという姿勢が大事だというんですけれども、それがわかるはずないじゃないですか。それなら具体的にこうだ!と示してやれることが、一番だと思うのに、祖父ときたら、自分から学ぼうとしないで、何事だと怒鳴るものですから。そういうことばっかりなんですよ、うちの家は。だから、本当に同じことなのに、その先へ進めなくて。どうして、家族では、ツーと言えばカーと答えることができないものですかね。なんでなんでしょう。息子だからできて当たり前だとでも、思っているんですかね。」
という彼女に、影浦は、彼女の家族が日ごろから言葉による会話というものをしてこなかったんだということを類推する。だけど、医者という立場上、彼女の家族にどうのということはできない。だから、彼女に何とかして前向きになってもらうように促すほか、自分にできることはないと思う。そして、人間は変わろうというきっかけがないと、変われないということも知っている。
「あたしは、そういうわけで長生きしたくないですね。うちの祖父が、長生きをしてよかったという顔をしていたのを一度も見たことがありません。昔のように、人生50年で十分すぎるくらいですよ。」
そういうことをいう彼女に、影浦は、命を粗末にするなとか、生かされていることを大切にしろとか、そういうことは言わない。そういうことをいっても、彼女の傷を広げるだけで、何も意味がないことはちゃんと知っていた。精神を病んでいる人は、否定すること、されることに非常に弱いこともわかっているから。
「そうですね。最近の人は、長生きしすぎると、何かの文献で書いてありました。その人は、親は捨てる時代だと述べておられました。」
という、伝聞の形で彼女に肯定するのが、影浦のやり方である。
「そういう文献もありますから、あなたは間違ってはおりません。親知らずという言葉もあるくらいですし、本当は、そのほうが理想的だったのかもしれませんね。むしろ、そういう時代のほうが長かったんですから、そのほうが良かったかもしれませんよね。」
と、影浦はつづけた。どんなに屁理屈をこねまわす患者であっても、その裏にはしっかりとした苦しみがあるということを、影浦は知っている。そして、そこから逃れるには、誰かが死ぬか、自分が、重大な障害を負うなどのことがないとできないということもしっている。
「先生、私、薬を飲んで、早く死にたいです。もう、こんな家、居たくないですもの。いつまでも年寄りが元気でいて、私たちの生活を脅かすような、こんな家、早くさようならしたいですよ。でも、私は、病気だから、家を出てはいけないって、父や母が言うんですよ。出ていったら、間違いなく自殺するからって。自殺した方が、いいのにね。私の人生はおしまいですよ。」
しまいにはそういうことをいう彼女。客観的に言ったら、自殺なんてしなくてもいいのかもしれないけれど、彼女はそう思ってしまうのである。そういう風になってしまうのは、もう病気のひとには仕方ないと、影浦は思うことにしている。
「そうですね。でも、誰かと出会えば、また変わるかもしれませんよ。」
と影浦は言った。
「いいえ、恋愛は百害あって一利なし。もう嫌です。」
そう答えてしまう彼女。そう、家族関係がうまくいっていないと、恋愛も友人関係もうまくいけないという場合が多い。それはどうしてなのか知らないけれど、人間はそうなってしまうようである。
「私は、男の人のもちものじゃありませんから。」
そういう彼女に、影浦は、それはきっと、彼女の家族が、家族を自分の持ち物だと勘違いしているからだと指摘したかったが、彼女にはそれを言うのはまだ早いと感じていた。それが言えるようになるのは、彼女の精神状態が安定しないと駄目である。
とりあえず、彼女にまず、長期にわたる絶望状態から、回復してもらうために、彼女に薬を出す。急いで処方箋を書き、受付係に渡して、彼女に、
「わかりました。少しでもあなたが、家族のことは気にせず、自身の人生を生きていかれることを期待します。」
と言って、綾乃を、診察室の外へ出るように促した。
「ありがとうございました、先生。次回もよろしくお願いします。」
と、彼女は申し訳なさそうな顔をして、診察室を出ていった。
とりあえず、診察室を出て、綾乃は待合室に戻った。待合室のソファには、新しい患者さんはどこにもいなかった。壁にかかっている時計を見ると、ちょうどお昼の十二時になる、十分前であった。
「吉田綾乃さん。」
と受付係にいわれて、診察料である、480円を支払って、彼女は受付係から処方箋を受け取った。
「次回は、二週間後の火曜日でよろしいですね。」
と、言われて彼女ははいと答える。
「じゃあ、お時間はこの時間でよろしいですか?それとも、いつもの通り、三時からにしておきますか?」
と受付係に言われて、
「ああ、そうですね。この時間でも構わないですよ。この時間のほうが患者さんも少ないし、私にはいいかも。」
と、綾乃は答えた。受付係が、じゃあ、そうしておきますね、とカレンダーに書き込むと、彼女はありがとうございましたと言って、影浦医院の建物を出ていった。
綾乃が外へ出ると、外には一人の男性がいた。あれ、先ほど名前を呼ばれた立花公平さんではないだろうか?自分の診察で、30分以上たっているのに、こんなところで何をしているのだろう。
すると、彼は、病院の前庭に植えてあるカラタチの木に手をやった。何をするつもりなんだと思った。カラタチの枝でも折ろうとしているのだろうか。だって病院のカラタチの木なのに?
「ちょっと、なにをしているんですか!」
と、思わず彼女はそういってしまった。
「ああ、ああ、すみません。」
と立花公平さんは申し訳なさそうに言った。すると、建物のドアがガラッと開いて、
「ええ、立花さんには、このカラタチの木の診察をやってもらっているんです。僕が、人間のお医者さんなら、彼は木のお医者さんなんですよ。」
と、影浦がにこやかにわらいながらやってきた。
「木のお医者さんって、、、。」
「ええ、だって、木だって、植物だって生きているんですよ。そういうわけですから、体を壊したりすることもあるでしょう。このカラタチの木は、ちょっと、疲れてしまったのかもしれない。なので、お医者さんに診てもらっているというわけです。」
綾乃が驚いてそういうと、影浦はそう説明した。そうか、植物だって生きているのか。そんなこと考えたこともないけれど、木もそういうことがあるのだろう。
「このカラタチの木、どこかお悪いのでしょうか。」
と、綾乃は聞いた。
「ええ、昨年、急に実をつける量が減ってしまったので、困っていたのですが、ちょうどその時、立花さんが患者として来てくれたんですよ。その立花さんが、樹木医の免許を持っていたので、このカラタチの木を診察してもらいました。木ですけどね、やっぱり、生きているんですよね。そういうことがあるんですから。」
影浦は、にこやかに笑った。
「どうして、カラタチの木を診察してもらおうと思ったんですか?」
「いやあ、結構この木の花や実を楽しみにしてくれる患者さんが多いので、それを損ないたくないなと、思ったんです。」
二人がそういっている間にも、立花さんは、真剣にカラタチの木を観察している。それは、患者さんを診察している医者と同じような感じだった。
「影浦先生、このカラタチの木ですが、ちょっと、追加肥料を投与してもよろしいでしょうか。」
と、立花さんは言った。
「ええ、よろしくお願いします。また、来年も実をつけてくれますように、お願いしたいです。」
「はい、わかりました。それでは、一度イワクラに行って、肥料を買ってきますので、また投与するためにこちらに参ります。少々おまちいただいてもよろしいでしょうか?」
立花さんは、影浦にそういうことをいった。影浦が了解しましたというと、立花さんは、バス停に向かって歩き出した。綾乃もそうだけど、精神疾患を持つと、車を運転することは、禁止されてしまうことが多い。かつて、癲癇を持っていた人が、車を運転していて、大事故を起こしたことがあったから、大体の人は、車を運転するのは遠慮しているのだ。
「あの、私も一緒に行っていいですか?なんか、木の肥料って興味ある。」
と綾乃は立花さんに聞いた。立花さんは、はい、いいですよ、どうぞ、といったので、綾乃も立花さんと一緒に、イワクラ種店に向かうことにした。
バス停は、影浦医院からすぐのところにあった。バスは、少なくとも、この地域では、一時間に四本は走っている。精神科というものは、そういうところにあることが多い。
バスは、10分くらい待ってやってきた。特に、遅れも何もなく、時間通りにやってくるのは、田舎町の特権だろう。
「イワクラ種店は、どのくらい乗るのですか?」
綾乃は、立花さんに聞いた。立花さんは、十分くらいだと答えた。
「しかし、不思議ですね。木のお医者さんなんて、私、びっくりしました。影浦先生は、木も生きているといったけど、私、そんなこと、まったく意識したことなかったわ。」
と、綾乃はそういってみる。
「ましてや、あそこにあるカラタチの木が、体調を崩していた何て、知りませんでしたわ。」
「まあそうですね。カラタチの木は、目立たない存在ですからね。でも、花を咲かせたり、秋には実を着けたりして、ちゃんとみんなの役に立っています。それを壊してしまいたくないから、僕はカラタチの木の治療にあたっているわけです。」
「そうですか。幸せですね、カラタチの木は。あたしみたいに、居てもいなくても、どっちにもならない人間もいるというのに。」
綾乃は、そういうことをしてもらえる、カラタチの木がなんだかうらやましくなってしまって、そういうことをいった。
「まあそうですね。いてもいなくてもと言いますが、実は僕も昔はそう思っていたんですよね。」
と、立花さんは言った。そんなまさかという言葉が綾乃の口から出そうになる。それを言う前に、立花さんは、
「ええ、僕もグアテマラのコーヒー園で働いていた時は、コーヒーの木の診断とか治療にあたっていたんですが、帰国してから、何も役目が与えられなくなっちゃって。」
と、言った。
「そうだったんですか?」
「ええ、そうなんですよ。だから、このカラタチの木の治療が、僕にも生きがいみたいになっているんですよね。このカラタチの木の治療のおかげで、ほかの患者さんから、うちの庭木も見てくれと言ってくれる人が出てきまして。まだ、ほんの数人ですけど。」
と、立花さんは、にこやかに言った。そうですか、そんなことがあったんだ、と綾乃は思ったが、立花さんはよほどつらかったのだろうと思った。そうでなければ、影浦先生のもとに来るはずがないと、綾乃は知っていた。ここに来るのは、みんな何か、悲しい気もちがあって、来るのだから。
バスは、数分走って大通りについた。大通りは、どこか道路工事でもしているのだろうか、ひどく混雑していた。まあ、バスなので、そういうことにはまってしまっても仕方ない。仕方なくその中に乗っているしかなかった。
「そうなんですか。立花さんえらいですね。すごいしっかりしてるし。あたしみたいな、目標も何もない人とは、何も違う。」
と、綾乃は、苦笑いした。
「なんだか、あなたに治療してもらえるカラタチの木が、うらやましくなってきたわ。」
「そうですね。確かに僕たちは、大器晩成になれるには遠すぎるかもしれないけど、僕はね、多くの木を見てきた中で、ちょっと木に教えてもらったことがあるんです。木も、人間も、ちゃんとやるべきことを一生懸命やることなんじゃないかって、最近はそう思っているんです。」
綾乃がそういうと、立花さんはそう答えてくれた。
「どんなに、環境が悪いところでもね。木は、ちゃんと生えてくれていますもの。それでいて、ちゃんと花を咲かせて、実をつけるじゃないですか。人間も、それと同じことだけやっていれば、それでいいんだっていうことにね、僕は、最近になって、気が付きました。あの、影浦先生のところにある、カラタチの木も、そういうことをしたいと思っていると思うんです。だから、治療したくなるわけですよ。人間も、カラタチの木も。」
「みんな、そういうこと言うけど。」
綾乃は、ちょっと吐き捨てるように言う。
「私は、そういうことは、何もないのよ。だって何も持っていないですもの。得意になるようなこともないし、できそうな特技もないですから。どうせ、何もできないままで一生を終えてしまうのかなって、そういう気がしてしまうんです。」
「それでいいじゃないですか。どこの木も、そういう感じで、でも、自分の花をつけて、自分の実をつけています。多くの人をどうのとか、そういうことはできないとしてもね、少なくとも、カラタチの木を見て、いい気持になる人はいるんだということを、覚えておけばいいのではないでしょうか。それだけ、覚えておけば、たぶん生きようという気持ちになれるんじゃないかな。僕は、それだけは覚えました。あのカラタチの木から教えてもらったのかな。」
「そうなんですか、、、。あたしはまだ、何をしようかとか、そういうことは、まだ、考える余裕もなくて。」
綾乃がそういうと、立花さんは、にこやかに笑って言った。
「ええ、難しいかもしれないですけど、多少足踏みしながらでも、何か見つかりますよ。」
「そうね、、、。」
しばらくすると、バスが、動き出した。やっと、工事区間がおわったようで、周りの車も動き出した。そうすると、あと数分でイワクラ種店につきますから、と立花さんは言っていた。
あのカラタチの木は、今年も花をつけてくれるかな。
綾乃は、そんな気がして、道路に植えてある街路樹を眺めた。
カラタチも花が咲く 増田朋美 @masubuchi4996
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