第2話

『十月七日』


「おい、起きろや。……おい!起きろ真司!」


 バチンッ!


 ──痛っってぇ!


 思わず俺は額に手をやった。ただでさえ頭の中が脈に合わせて響くように痛いというのに、この先公はそこに思いっきしデコピンをかましてくるもんだから、寝覚めは最低だ。


「す、すんません。」


「気をつけろって昨日言ったばっかだぞ。俺の授業は子守歌にでも聞こえるか?」


 ドスの効いた声で完全に目が覚めた。怖気が走る。顔を上げると、担任の数学教師は腕組みをしてこちらを睨んでいた。完全に蛇が先生、カエルが俺の構図だ。しかし、筋骨隆々の彼は見た目の印象では完全に数学教師というより体育教師である。そう考えるとどっちかと言えば先生は蛇じゃなくゴリラか。


 入学式で初めてこいつを見た時、スーツがあまりにも似合っていなくて、笑いをこらえるのが大変だった。そのパツパツさときたら、スーツが可哀想になるくらいだ。


 だが、エセ数学教師かと思いきやこのなりで教えるのはとても上手く、意外と絡みやすくて評判は最高だ。怒ると超怖いのが玉に瑕だが。


「そんなんばっかしてると、隣の教室の彼女に言いつけちまうぞ?」


「やめてくださいよ。あいつはそんなんじゃないですって!」


 俺はそう言うが、それはむしろ火に油を注いだだけで、クラスの男子連中はヒュウヒュウと囃し立ててくる。顔が一気に火照るのを感じた。


「焦るなよ、図星かーっ?」


「うるっせえ!」


 と、その時。


 キーンコーンカーンコーン──。


「よし、終わるぞ!続きは来週だ。当てるから準備しておけよー」


 チャイムが鳴り、号令に合わせて礼をした。ナイスタイミング!イヤな話を断ち切った鐘の音に、思わず机の下でガッツポーズを決める。


 ……それにしても腹が減った。もう四限だったか。俺は鞄から弁当と水筒だけ引っ張り出すと、とっとと屋上に向かった。



✩.*˚



 屋上に着いて少しすると、麻衣子も階段を登ってきた。



「──いやマジで痛かった、あれ」


「てか、また寝てたの?ほんと、何してんだか。勉強出来なくて泣きついてきても、そんなんじゃ教えてあげないよ?」


 二人で飯を食うのは、いつもの事だった。それこそ、物心ついた時から一緒に育ってきたから、一緒にいるのはむしろ当たり前とまで言っても過言ではない。


 しかし、麻衣子の事で色んな人にイジられるようになってから、俺は麻衣子をどう思っているかを真剣に考えるようになっていた。親友のような存在。そうだと思ってきた。でも、恋愛感情はあるのか?というか、そもそも恋愛感情ってどんなのだ?


 俺には皆目分からない。それからはもう、麻衣子の何気ない挙動ひとつでドキドキするようになってしまった。


 さっきだって米を運んだ口元を見て、艶めいた唇に胸が熱くなった。綺麗なセミロングの黒髪に、整った顔立ち。更に運動も勉強もかなり出来る。そんな典型的な才色兼備に似合わぬ、軽くて少し騒がしい性格が、俺にとって、心地よいだけでは無くなってきていた。


 喜怒哀楽の感情のひとつひとつを浮かべる顔のそれぞれが、違った形で心を刺激した。

 あいつらに言われたから?関係ないのか?もう、頭がぐしゃぐしゃだ。


「──おーい、聞いてる?」


「え、ああ」


「ゼッタイ聞いてないでしょー。それ」


「ああ、おう」


「ほらぁー!やっぱり聞いてないね!」


「痛つつ!つねるなよ、おい、痛いって!」


 額の次は頬だ。今日は何故か怒られることが多い気がする。ボーッとし過ぎか。



✩.*˚


『十月二十五日』


 よし、やっぱり打ち明けよう。俺は散々考えた末にそう決めた。ポケットに手を突っ込んで、スマホのLAINを開き、メッセージを送ろうとする。


 ……あれ?スマホ?LAINってなんだ?


 まだ気が緩みっぱなしなのだろうか。それとも、緊張からなのか。こんなんで大丈夫か?心配だ。


 とりあえず一度トイレに行って、それから水を飲んで、オマケに母ちゃんに今日の夕飯の内容を聞いた。その後、やっと電話の前に立った。


 やっぱりやめようかな。失敗して疎遠になったらどうするんだ。手が震えた。何度となくかけてきた番号だ。いつも通り押すだけなのに、それが怖い。もう電話の前に立つことすらも怖い。……ってんなこと言ってる場合か!ああ、また腹痛くなってきた。もう一回トイレにいって……。


 じゃない!電話の方が先だろうが!逃げんな、俺。ああ、自分の弱さに反吐が出る。もう、なけなしの自信は消え去りそうだ。



✩.*˚



 ロクに娯楽もお金もない私たちにとって、この神社は最高の暇つぶしスポットだった。この縁側には何度お世話になったことか分からない。


 ちょっとだけ街より高めの所にある神社の縁側は、季節によってそれぞれ違う魅力があった。春は奥の河川敷に咲いた桜を見て、夏は神社の屋根の日陰で青い木に止まる蝉の声を聞いて、秋は神社の周りは真っ赤になって、冬は雪で白い街を眺めた。

 なんだかここに座ると、私の目には別の世界から写真を見ているみたいに景色が写って、不思議だった。


 ここで真司と駄弁っているだけで、時間はどんどん加速していく。神社まで来て二人で話すのは、ほとんど日課みたいなものだった。でも、今日に限っては、座ってからずっと会話がない。真司は、ここで話したいことがあるんだと言って私をここに呼んだんだ(声が震えて何回か噛んでいたのは、気づかなかったことにした)。


 沈黙が続いた。私も何となく察してここに来ていた。さっきから何もしなくても自分の鼓動が聞こえてくる。どうしよう。私は、「今日はなんの用事なの?」とでも聞いて助け舟を出すかどうか、ずっと迷っていた。でも、すぐに助け舟を出さなかったのは、真司に男らしく切り出して欲しかったとか、そういう訳ではない。この重い空気に押しつぶされて、上手く話せないのが怖かったからだ。とどのつまりは、私たちはどちらも同じ理由でだんまりしているのだ。


 そうして私が嫌な汗をかき始めた頃、ついに真司の方が切り出した。


「あの、さ。俺な、最近ずっとお前のこと、麻衣子のこと考えてたんだよ。友達にああだこうだ言われてたけど、結局俺自身どう思ってるんだろうって」


「うん」


「俺、麻衣子が好きなんだと思う。いや、好きだ。親友とか幼馴染とかじゃなくて、異性として。だから……だから、俺と付き合ってくれないか?」


「……あは、はははっ」


 不意に笑いがこぼれた。


「え。なんで笑うんだよ、なんかおかしいこと言ったか?恥ずかしいんだけど」


「いやあ、ね。いつも適当でふざけてる真司が真剣に告白してるのがなんか面白くて」


「なんだよそれ。酷いな」


 嘘だ。そんなんじゃない。私はただ嬉しかっただけだ。ずっと好きだった男の子から告白を受けることが。今が心底幸せだと、確かにそう感じたのがこぼれただけ。こんな本音を言うのは死ぬほど恥ずかしいから、誤魔化しちゃったけど。


「そうだ。返事してないや。私こそ、よろしくおねがいします」


「マジかよっしゃ!……はあ、緊張した。心臓飛び出て死ぬかと思った」


「私もだよ。もう涼しくなったのに暑くて暑くてさ」


 こうして、私たちは晴れてカップルになった。

 十月二十五日。今日の日付は絶対忘れないようにしよう。私たちだけの、新しい記念日なんだから。

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