第18話
神主さんを訪ね本堂へ入りまました。もちろん、カンちゃんの事を聞くためです。背に一本筋がはいったお弟子さんが、神主さんを玄関先まで連れてきてくれました。正装をした神主さんは柔らかい笑顔で「おはようございます」と迎えてくれ本堂の奥へと案内してくれました。
いくつか神社を巡ったことがあったのですが、言葉を祀るというこの神社の中は異質でした。言葉の収集館という雰囲気で、言葉にまつわる書物、掛け軸、和紙に書かれた言葉自体が飾られていました。私は、はやる思いを抑えながら、ゆっくり意味ありげに歩く神主さんの後ろをついていきました。
神社の客間だったのでしょう、私と神主さんはあらかじめ敷かれていた座布団に対面で正座をしました。神主さん自らが書いたという習字があちらこちらに張られ、開け放された客間ですが、墨汁の匂いが残っていました。
「児童への書道教室もやっているんですよ」それは、それは柔らかい「や」と「よ」でした。幼児の小さな手で握っては消えてしまいそうな音。シャボン玉のようにゆらゆらと揺れ、パッと消える音。
「この土地のお方じゃありませんね」神主さんはお弟子さんが運び、畳に置いたお茶を私に勧めてから言ました。
「わかります?」八畳の客間、東西に開け放された縁側の外をお弟子さんが二人、朝の日課の掃き掃除をしていました。
「ええ。お話し方でわかりますよ」さすがは言葉の神社の神主さんと関心したのと、再び極上に柔らかな「よ」の発音に虜になっていました。不謹慎ですが、女の部分で敏感になってしまう効果がありました。
「何か特別なご用事でも?この神社では特別用がない限り、本堂まで足を伸ばす方は珍しいですからね。あはは」神主さんは、はにかんだ笑みを見せてくれました。
「いえいえ。そんなことは…」お世辞にも綺麗とはいえませんし、立派な建造物でもないですから私もどう言っていいのか分かりませんで、虚を突かれた感じで微妙な居心地になりました。
「ですがね。おおよその見当はついているんですよ。お探しの物はここにありますよ。ちょうど、一ヶ月前、あなたと同年代の青年が同じように本堂まで入ってきて、それがあるかを私に尋ねてきましてね。お見せしました。そして、あなたの存在を尋ねてきましたので、近く訪れるかもしれないなと予感していました」神主さんは全てを知っておられました。
年代物の「やゆよ」は何も言わずじっと透明なケースの中で時の流れに身をまかせていました。
神主はおもむろに立ち上がり、背後の神棚に立てかけられたケースをおろし、二人の間に、まるでわずかな衝撃で砕けてしまうのを気遣っているかのように丁寧に置きました。
三つのティッシュ箱の大きさの箱の表面の紙に書かれた「やゆよ」。
優雅な曲線、角の立つ部分が一切ない、世代を超えて価値を見出す字体に宝石を見るかのようにうっとりしてしまいました。
「じゃあ、じゃあ、私のお爺が私らに話した話は本当だったんだ」涙がこみ上げてきました。ずっと気になっていた奇妙な話、他人にわかってもらえはしないと自分にとどめていた話。お爺は強い人でした。お爺はこの話を話すことで解き放つことができる人でした。
「そうですよ。菅田さんが教えてくれました。あなたのお祖父様が幼馴染のお二人が別れ離れになるのに心細くなっている夜。奇妙でおかしい話を聞かされた後に床の間で二人はクスクス笑いながら、消えた「やゆよ」がどこに行ったかを想像して話しているといつの間にか離れる怖さ、寂しさを忘れていたということをおっしゃっていましたよ。いいお祖父様ですね。子供の頃には自分らで考え、考えを共有することでいかに強くつながれるかをご存知な方だったんだと思います」
「はい。私もそれを確信していました。あの奇妙な話を世界中で知っている人間は数少ない。カンちゃんも私も消えた「やゆよ」の話が心のどこかで引っかかり、それが共通の意識として繋がり続けてこの神社に引き寄せられたのかと考えます」
「物質ではなく言葉でつながった。まさにお祖父様と菅田さんの願いが叶いましたね」
「あのう、この「やゆよ」はどうしてここに?誰が?神主さんはご存知なのですか?」の問いに表情崩さず頷きました。
「菅田さんにも同じ質問をされました。しかし私は答えることを控えさせていただきました」口元だけ緩め、目は真面目な神主さんに圧倒されそうでした。
「ぶしつけなことを聞いてすみません」
いかなる経緯で消えた「やゆよ」がこの神社にあろうが、私やカンちゃんが軽々しく聞いていいことではないのです。お爺の話が本当ならば、「やゆよ」は盗品でいわくつきです。神社に保管され傷付いた「やゆよ」は忌々しい過去を忘れてしまいたいのです。私が興味本位で被害者の柔なところをこじ開けるのを、守り続けてきた神主が声にも顔にも出さずに威圧したのでしょう。
「いいえ。そうではありません。あなたが考えるような理由ではありませんよ」と今度は目尻の笑い皺を一杯にしわくちゃにして言いました。
「え?どういったことでしょう」
「はい。私もあなたのお祖父様の意思を少しだけ引き継ぎさせていただこうかと考えましてね。せっかくの言葉が祀られる神社での巡り合いです。菅田さんにはもしあなたがここを訪れ、菅田さんと同じ質問をされたらあなたにお答えし、菅田さんはあなたを探してあなたに直接お聞きになるようにしたのです。菅田さんはあなたがここに来ようが来まいが気になってあなたの所在を探しているでしょうね。ほんの私のいたずら心です。神の天罰が下されてしまいますかね。はっはっは」神主さんは右手で口元を押さえて控えめに笑いました。私は神主さんの思わぬ茶目っ気に虚を突かれ目を丸くしていたと思います。
「持ち出したのはやはり柳田君でした」
「柳田 く ん!?」違和感を覚えました。
「ええ。彼でした。彼は純粋な人でとても仕事熱心でした。当時、文部省から借り出した歴史的なかな文字に毎日一番近いところで管理していると知らずうちに虜になっていたんです」神主の話し方が、それまでとは違い、フィクションを語るドキュメントタッチになっていました。
「彼はその中でも「やゆよ」の曲線美に首ったけだったようです。愛しすぎたが上にということでしょうか。彼は老朽化しているかな文字の将来を気にかけるようになり、全部は無理だろうからこよなく愛した「やゆよ」だけでもどうにかして現状維持で、酷使されることなく守ると大会前日に決心を定め、この神社に向かおうとしたのですが、生真面目な性格が災いして決意が揺るぎ、次第に足取りが重くなり、パチンコや公園、しまいには湯に浸かって大会が始まる時間を過ぎてようやく諦めがついたようです。神社に到着したのは夕方近く、大会が終わっていたころだそうです。家路につく最終電車を逃した彼はここらの宿に泊まり、翌朝、気が気じゃなかった彼はもう一度、神社を訪れ、涙ながらに溺愛した「やゆよ」に別れを告げて帰ったそうです」
「そうだったんですか…」
「私はそれを私の前の神主さんに聞かされました。三十年以上も前の話です。盗品と知らず、神主さんは柳田くんが必死な形相で言葉の神社で「やゆよ」を祀るように言われたのを断れなかった。のちに、文部省にこの三文字があることを申し出たようですが、すでに他のかな文字は観賞用に棚にしまわれていたので、文部省の人らも「やゆよ」が言葉の神の元にあるならば安心だから、ここで保存することになり、柳田君も咎められることはありませんでした」
「そうですか。ですが、話に出てきた主任さんだけが可哀想なめにあったんですね」私の意見に神主は一般人と同様のニンマリとした含み笑いを見せました。
「最初はそう思いました。仕事を失い、家族も失いました。狂ったように人と世を恨みました。ですが、全てを失うきっかけとなった、消えた「やゆよ」を探す旅に出て、人の優しさに触れ、欲を捨て、道徳を学び直し、ここにたどり着き、言葉のありがたみに触れる二度目の人生を謳歌しているのですから、彼も、いえ、私も幸せな人生を送っております。月一には柳田君が訪れ、「やゆよ」を鑑賞しながら縁側でお茶をすするのが楽しみと言ったらあなたは驚きますかな」東西に開け放された八畳の客間を抜ける柔な風が自然の香りを運びました。
「それじゃあ、神主さんが主任さんなんですね」と出来すぎた結末に涙が溢れ出しました。
「ええ。今となっては一切の恨みはありません。神社を継ぐご子息がおられなかったので、一弟子だった私が神主になりました。これも消えた「やゆよ」を巡った縁です。こうして私らはこの三文字を中心に生きて、別れ、再会して幸せを引き寄せているんです。この曲線美優れた「やゆよ」の持つ力なのでしょう。さあ、これが菅田さんのお勤め先です。東京にお住まいのあなたと京都で働く菅田さん、再会までもう少しです」
神主さんの懐から差し出された紙にはカンちゃんの仕事先の住所が書かれていた。誰しもが知る京都の大学で言語学を教えている。紙に涙が二滴、三滴と落ちました。奇跡に初めて遭遇した私の胸は破裂しそうでした。何度も、何度も神主さんにお礼をし「やゆよ」にお別れを告げ神社を出ました。
これが私が体験した消えた「やゆよ」の携帯もない時代、言葉にもっと価値と責任があった時の奇妙なお話です。
今はお爺の墓石に旦那と手を合わせて消えた「やゆよ」の在処を報告し終え、名物の「だんご」を食べにきています。
菅田弥生
や ゆ よ 赤井飛猿 @akaitobizaru
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