手稿『チェシャへ』
チェシャ、覚えていますか?『鋼の森』の白鳥有栖です。
あの文章を書いてから、数えきれないほどの年月が過ぎ去ったように思えます。けれど、あれを書いたときの私の、あの『私』は、あの魂と衝動は、今もまだ消えずに残っていると、信じている。
『人の人生は苦難に満ちたものである』という命題に対して、人が取り得る選択は、大きく分けて二つあると考えています。一つは、生における必然の苦痛を可能な限り消し去り、その苦を上回る楽しみや喜びを、過ぎ去っていく日々の中に見つけ出すこと。かつてのあなたは、きっとそれを選択している者の一人だったのでしょう、チェシャ。そしてあの時の私は、これから書く後者の選択も、そして最初の選択も、どちらもすることができずに、世界を倦みながら、日々を過ごしていたのでした。
もう一つの選択とは、日々の避け得ぬ苦しみや、身に降りかかる世界のあらゆる不条理に対して、『対価』を与えることです。苦しみや悲しみ、憤りや怨恨の中から、この変わりゆく世界に決して消えない何かを創り出すことで、それらに『意味』を与えるという行為です。その苦しみに満ちた生が無ければ、それは生まれなかった。そう言えるような何かを残すことができたとしたら、きっとそれは苦しみの対価であるといえるのでしょう。
だから私は、私の人生の清算のために、この手稿を今、書いています。
チェシャ。あなたにとって、きっと私は、さして大きな存在ではなかったと思います。私は、あなたの中を通り過ぎてゆく余りに多くの人間の、たった一人に過ぎなかったのでしょう。そして、私にとっても、きっとそれは同じことでした。ただ、互いの人生の岐路に居合わせたというだけの、傍観者同士でしかなかったのでしょう。
それでも、ここからの文章は、あなたへ捧げます。どこへいるのかも分からない、生きているのかも分からない、チェシャ、あなたへ。鋼の森に迷い込んで、そして帰り道を失った、私から。
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