鋼の森の有栖『自由の街』


 チェシャが身籠った子を産むらしいとイモムシ博士から聞いて、有栖は人通りの絶えた『街』に繰り出していた。いつの間にか夏で、有栖の髪は根元から白くなっていて、色素のない目で外出するのは、サングラスをかけても夜でないと厳しかった。

 有栖は最近、名を残せないまま死んでしまった人たちの音楽をイヤホンから最大音量で流しながら、マタタビを蒸留酒の中瓶半分と一緒に流し込むことで、なんとか日々を生きていた。そしてチェシャは今、ワンダラーの妊婦を支援するための『街』の施設で、同じ状況に置かれた人同士での繋がりを見出したそうだ。

 有栖がチェシャと出会ったのは『街』を当て所なく彷徨っている同類としてであり、今ワンダラーの妊婦として居場所を手に入れた彼女に会う理由を探していた。イモムシ博士のところで身体改造のアフターケアを受けて、例のサウナや夜にだけ空いている店たちの前を通り過ぎて、有栖は今『不思議の国』の前に立っていた。そして有栖は今きた道を振り返って、当たり前のことだけれど、自分はずっと『街』という場所に居たのだと思った。歩き続けて息は上がっているのに手足の先や肩から冷えている、震える手で有栖は一枚の紙片を取り出して舌先に乗せた。

「社会による過剰な管理を恐れて、法を破棄した共同体は『街』が初めてではないだろう。けれど内戦による無政府化などではなく、『街』のように一定の秩序を持ち合わせた都市は他に存在しない」

 チェシャが出産を決めたという話の後、イモムシ博士はゼミの講義でもするような口調で言った。有栖や『街』が生まれた前の世代では、この国のみならず法や公権力による完全管理社会というディストピアへの恐怖が蔓延っていたという。政治家は対立する政策や法案の決定に使いもしない自由が奪われるを言い立てて、まだ目にしたことさえない完全管理社会への嫌悪だけで世論が動いた。そんな土壌がある中で生まれた、震災によって全てを無に帰された白紙の一帯は、ある仮説を実証するための恰好の社会実験所となったのだ。

「その仮説というのは、暴力がない前提で作られた社会、詐欺がないことを前提に作られた市場のように、不道徳な行為の蔓延によって不利益が発生するのは、既存の機構や暗黙の了解を破ることによる不具合に過ぎないというものだ。そして人々が私利私欲の通りに動けば『街』の収益が維持されるように、私たちは瓦礫の地を復興するにあたっての初期条件やシステムをデザインした」

 経験から同様の環境で育った人間は、おおよそ同様の人生を辿ることを君も知っていると思う。それは教育水準や知能レベル、立場や交友関係に金銭的な機会財産、それぞれの所属する文化や常識の違いといった各例よりも、更に根本的な部位で彼らの人生を決定するものがあるからだ。行動学習――つまり『自分がこうすればこうなる』という、快不快の体験によって幼少期から積み上がっていく行動の傾向だ。そして『街』は従来の管理社会のように法律や義務を課すことで群体性の本能に働きかけるのではなく、個人への心理学や精神医学的な観点から彼らが『自分の意思で』どう動くかを制御しようと試みた。

「具体例として獣人に対する性的搾取の構造は、何よりも重要な『街』の基盤となっているね。彼らは性行為を日常的なスキンシップとして行い、若いうちに父無し子を産んで死ぬから平均年齢も飛びぬけて低い。そして住人が性的に満たされていれば犯罪や暴動は起きにくく、また『街』の外部からも需要も存在すれば否定的な意見も生まれにくい」

 彼らは早死にしたり子育てを知らない親から離されて、『街』の施設で二桁の割り算よりも先に男との交わりを教えられる。そして無条件に存在を肯定されることのないまま素肌の触れ合いだけが愛だと教えられ、男という存在に自分が与えられなかった父性の幻想を見出して金銭的にだけでなく、精神的にも性交に依存するよう無自覚の内に育て上げられた商品だ。彼らは『街』の外を知らないため己の不幸を自覚したことはなく、日々を愛への渇望と日銭稼ぎのための身売りですり減らして、やがて親と同じような道を辿ることもなんの感傷もなく受け入れている。

「ここは自由の街だ、彼らも行く末を自分の意志で選択しているという意味で、例外なく『街』の保証する自由を受け取っているのだよ」

 イモムシ博士の施設を後にして、有栖は夜の街路に一人立っている。ずっと夜の中に居ると、どんな都会であっても夜明け前まで徘徊している人間は多くないのだと分かる。眠れない者も皆自分の部屋に閉じこもるか、どこか『不思議の国』のような店や施設に集まって夜明けまでの時間を過ごすから。ウサギは命を絶ち、チェシャは新たな居場所へと去ってしまい、残された有栖は新たなワンダラーと出会う中で、彼らという種族が好きだったのではなく、ただ彼らの中に居たウサギとチェシャが好きだったのだと失った後に気付かされる。

 大きな店のシャッターが降り切った、大通りに面した歩道……ここに立っていれば肩や腰に腕を回して値段を囁いてくる、今はまだ姿を見せない者たちが居る。有栖は周囲の人に対して批評ばかりを考えていた頃の自分を思い出す――私は遠からず、行き交う人が自分を買ってくれるのかどうかで人を見るようになるだろう。ここには永遠も、過去も未来もなかった……世界は日々悪くなっていくと口にするような、頭の良くて怠惰な人々は自分を日々の寝食にありつかせてはくれない。眠れない夜の中で足を止めて振り返れば、自分を死へと追い立ててくる過去だけが見える。

「君はチェシャに会いに行くのかい?それとも此処ではない場所をまた探すのかい?」イモムシ博士は去り際に、一枚の紙片を渡した。「あの子が子供を産むといって最後に此処に来たとき、それを処方してくれと言ったんだ……」

 それが性的興奮と酩酊をもたらすマタタビとは別種の薬だと、知識として有栖は知っていた。それは『街』産の品種改良アサガオの種を有機溶剤に漬け込んで下剤成分を取り除いた後、メチルアルコールに漬けて有効成分を抽出したものが原料となっている。特にメチルアルコール抽出液の中に可食の紙シートを入れてから、それを蒸発させて残る固形成分をシートに吸わせて作られるものは『フラッシュ』と呼ばれた。トランプを模して大量生産されるシートには、全て同じスートであるクラブのJが描かれていたからだ。

「飲んで30分後くらいに効果が表れてくる、もしかしたら彼女と同じところに行けるかもしれない……外的な場所ではなく内面への旅を行うのは、宗教や哲学など様々な場所で行われたものだよ」


 有栖は自分が『街』に来てからのことを、ただ自分だけしか見ていない物語として書き続けていた。本音や醜態を振り返って恥じることができるほど、自分は長く生きないだろうと分かっていたから、何も隠すことは無かった。そして折に触れて書き散らしていた『手稿』を物語に組み込んでいくうちに、それらは発作や手慰み以上の意味を持つようになっていた。

 有栖は『街』のどこにでも足を運んで、どこにも属すことはなかった。夜を彷徨い歩く者であり、無性愛者かもしれず、かつては『街』の大学に入った秀才であって、或いは小説家を志してサークルに入ったこともあったかもしれず、けれどどれ一つとして自分という存在の基盤となるようなアイデンティティではなくて、だから同じ属性を持つ相手にシンパシーを感じることもなかった。

 最早居なくなってしまった者たちの後だけを追って、過去も未来も何一つとして標のない人生を歩んでいた。そして死がやがて自分だけが見てきた景色を容易く奪い去り、歩んできた道筋をなかったものにすると分かっていて、書き続けることで刹那の連なりの中に何か一つでも消えないものを残そうとしていた。

「そもそも、あんたは何をしにチェシャに会いに行くわけ?チェシャとの繋がりを断ったのはあんたの方……今まで会いに行こうとせずに連絡の手段を失ったのは、あんたなわけでしょ?」

 有栖の対面にはハートの女王が座っていて、その両隣では男女ともに十代半ばくらいの獣人の店員が彼の話を聞いて笑ったり相槌を打っていた。かつて『お茶会』があったテナントで、その獣人たちは週替わりのコンセプトで衣装を着て接客している。

 有栖の身体の各所は彼らの一人が歌っている流行りの歌に揺らされるように、コップを持つ手の親指だけが不規則に痙攣して、脚も貧乏ゆすりというよりは振戦に近いものが起こっていた。どこかに歩かねばならないと指先が震え、ハートの女王が居なければ飛び出していただろう店の中で、目と口内がひどく乾いて炭酸割りを何杯か頼んだ。

「私は心の中とか隠していた感情を少しでも知られた時に、それに対して反応を起こされる前に自分から相手を突き放してしまうことでしか……今まで生きてこれなかった」

「誰もあなたの生き方にまで口出ししないわ、でも他の人にも何も強制できないってことよ。『街』が保障する自由ってのは、そういうことなんだから」

 『不思議の国』は幾つかの店が入れ替わったり張り紙が変わっていたり、『街』の代謝で滅びていくものに新しい何かかが上書きされていく。歌い終わった犬人の少年がハートの女王の横にすり寄ってきて、有栖の眼も気にせずニット地のワンピースの腰の下を撫でるように手を回させて、ハートの女王と激しく音を鳴らしながら唇を吸い合った。犬人の少年から腕を絡ませて求めているのがありありと分かって、そしてペッティングの合間合間も平常通りの会話をしているようだった。

 今の有栖は新しい場所において場違いな人間で、かつて『お茶会』に居た人々は何処へ行ったのだろうと有栖は思った。自分には絶対に分からないだろう――自分好みに装飾された動く肉を求めるということ、それの肌に触れて自分の話に頷いてもらうことに価値を見出すということも。

「チェシャは私になにも求めていないだろうけど、私は彼女に宛てたものとして最後の一節を書こうとしてるから。私の作品を最初に目にする他者がチェシャであってほしいと思っている、偶然交わったような気がしただけのあなたに……堕落を求めた私の自慰を偶然あなたが手伝って、私の指先や舌があなたの身体を偶然受け入れた時期があっただけのことなのに」

「あんた誰に話してんの?チェシャなら心配要らないわよ、あんた一人と関係が消えたくらい。あの子はもともと人との繋がりの中で生きてるから、あんた以外にも話を聞いてくれる人は沢山居るわよ」

 有栖は何もないところを見て、誰の言葉も耳に入れないまま話し続けていた。ただ見開いた目の裏側と、自分の独り言の中に次の一節を見つけ出そうとしていた。もうすぐ完成するであろう作品が、自分の生活が好転させることは期待していなかった。そして貯蓄も尽きて太陽の許で生きられなくなった今、いずれ身体を売って生きるか自ら命を絶つかを選ぶことになるのだろう。


「ねえあんた、またチェシャみたいな子に会いたいってのならさ。新しくBAR開けるって話したでしょ、そこで働かない?前はああ言ったけど今のあんたなら、店に雇っても客寄せになるわ。ちゃんと頭もあるし、色んな人を見てきたなら話も合わせやすいでしょ?あたしも大学ドロップアウトしてから、そんな風にバイトで働き始めて経験積んで店を開いたの、誰にだって最初はあるのよ」

 あの場所で死ななかった者たちは皆、こういう風に去っていくのだと有栖は思った。ウサギと歩いた残骸の中で、過ぎ去っていく無数の人間の墓碑――苦しみに満ちた生活の中に一粒の砂金のように煌めく一瞬を、言葉や音に変えてくれるような人々の。生きていくための道を選んで、或いは幸運にも誰かを愛することができるようになって、何かを残そうとする衝動を失っていく。

「その代わり、チェシャについては諦めなさい。あんたへの親切心から言ってるのよ、今なんか変なものやってるでしょう普通じゃないわ。あたしも色々あって『街』に逃げてきたから、あんたみたいな年頃には似たようなことやったけどね。ああいう子の周りには、ろくでもない男ほど寄ってくるのよ。自分でも簡単にヤれそうだと見下すことができて、相手が欠落を埋めようとする代替手段としての情熱的なセックスを浴びて、自分が必要とされている優越感にも背徳的な雰囲気にも浸ることができるから」

 

 語り掛けてくるハートの女王の顔の向こうに、何かが見えた気がした。

 

 やがてそれが彼の顔の向こう側に見えているのではなく、彼の顔を見ている眼球の裏側に映り込んでいるものだと分かった。

 

 それは強烈なビジョンであり概念だった。


 有栖が今まで歩いてきた場所、そこに居た人々の……誰も彼もが『街』という混沌の吹き溜まりに存在して、彼らを隔てる柵など存在しなかった。自分の欠点だけをアイデンティティにして同類を集めたり、自分たちでない人間についての憎悪や罵声によってなけなしの生を繋いでいる夜の『街』に棲むもの。普通の人が普通に満たすことのできる何かに飢えていて、それを満たすためにおぞましい何かとなって、そして最初に持ち合わせたものすらも失って帰れなくなっていく欲望の奴隷。ただ自分達が普通でないことに酔いたくて非日常を探し、普通未満なだけの自分を型どおりな奇異さで隠している、集まってみると似たり寄ったりな姿をしている人々。そして朝がくれば仮装を脱ぎ捨てて普通の服に戻るような、一瞬だけの仮装パーティーのような集まり。その中に有栖は立っていた、その全てを歩いて書き留めていた。そして自分もまた、つまらない日常と、誰にも知られないまま死んでいく道の果て、その境目に立っている一人に過ぎなかった。


「そうやって一見同意の上でのセックスを重ねて、相手に飽きたり妊娠させたら相手が普通じゃないことを理由に捨てれば良い……相手のことを端からクズだと思っていれば、どれだけ相手を無下に扱っても自分がそれより下の存在になることはないと安心していられるってこと。法律も道徳もない『自由』なんて嘘っぱちで、外とは違う形で搾取の形があるだけよ、こんな場所。『街』は義務もないから需要のないものは続かないの、最初の一回だけは特別に思うかもしれないけどね、生きてたら沢山見ることになるわ」

 そもそも『普通』とはなんだろう。ホメオスタシス……どんな場所であっても、それが場所として成立している限り、明日も同じ場所であり続けるという働きが存在する、人体と同じように……そして様々な役目を与えられたパーツとしての人間がひしめいている。何らかの機構のパーツであるか、そうでないかだけの違いしか存在せず、確かにチェシャは『街』の機構のパーツであり、自分はそれにさえなれなかっただけのことだ。飲み物を飲もうとした手の甲にグラスが当たる、割れてキャストの悲鳴が上がる、ガラス片と水を拭こうと寄ってくる、有栖が唐突に立ち上がって警戒したように動きを止める「ねえあんた、本当に早まった真似はよしなさいよ」ハートの女王が立ち上がる。


有栖は叫んだ。


「あなたは今までいろいろな人を見てきたかもしれないけど、その誰にも責任を持って働きかけることはしなかった。ただ傍観者として、批評者としてだけ存在し続けて、ボロを出さないように傷付かないように立ち回り続けた。その果てにあるのが、あなたの姿?何かに失敗して吐き気のするような現実を色々見てきて、それを変える為に今週のあなたは何かしたの?先週のあなたは?来週のあなたは、何かするつもりはあるの?それとも神様か出来損ないの上司みたいにふんぞり返ってケチつけて、ホラ見たことかって評論家気取りで語るために失敗談を探してるんじゃないの?」

 ハートの女王の言葉の正しさに興味はなかった。なぜ自分がその論理に嫌悪を抱いたのか、それが次の一節への鍵と、自分の歩んできた半生の答えだと有栖は思った。それは自分が歩み出さなかったことを肯定するための、あらゆる論理だった。傷を負うことを恐れて達観したふりをして、失敗を避けて批評に走り、挫折や懊悩に価値を見いだそうとすること。それは己の人生の真反対であるから。あらゆる既知のものを捨てて新たな何かを手に入れる、一生尾を引く傷を負ったとしても何かを勝ち取ろうとする、望むと望まざると気付けばそういう人生を辿ってきた自分を否定する概念であるからだ。

「じゃあ、あんたはチェシャに正しい道を提示できるっていうの?」

 ハートの女王が続きを言おうとするのを遮って有栖は言った。

「私に聞くってことは、あんたもそれを分からないってことでしょ!?何かを分かったような気になって、自分よりも馬鹿な人に説教して粋がりたいだけの馬鹿、説教の材料をいくら見つけられても、他人や世界の欠点がどれだけ分かっても、あんたは何が間違っているのか分かっても何が正解なのか分からない、何かを否定することはできても何も信じることができないから何もできない、それは悟ったんじゃない諦めただけ」

 眼球の裏側に焼き付いたビジョン、交わらない生活の線のどの結末も、なんの特徴もない平凡な人生と、平凡すら真っ当にこなせなかった没落者の人生しかない。そして自分もきっと、どちらかの道を辿ることになる、だからハートの女王への言葉は、未来の自分へと浴びせる罵声だった。


あらゆる人生の道筋の果てにあるものが、余すことなく提示されている時代

こういう生き方をすれば、こういう人間になる、と

それは救いなんかじゃない。

誰のことも好きになれない人間は、提示された未来の自分の姿さえも嫌っているから

間違えの道だと、そこに落とし穴があると口々に人は言い立て、そのすべてを聞き入れても奈落に囲まれた八方塞がりの足場に立ち往生しているだけで、そして間違いだと言うことはできても正解の道筋を答えられる人なんて何処にも居ない

みんな忘れているだけなのだ

たった一瞬においてさえ失敗しない者など存在せず、その失敗した一瞬を切り取ればその道程を間違いだと言うことは容易く、けれど全ての人生は、始まったときから既に『死』という破滅へ遍く至るものなのだと。

失うことを恐れるほど価値のあるものを、この世に生を受けた誰一人として持ち合わせていない。

私たちが立っているのは、一歩踏み外せば落ちてしまう断崖絶壁なんかじゃない。

そこは這い上がることのできない奈落の底だ。

人はそこに生まれ落ちて、けれど落ちたことに気付いていない穴の中で一寸先の闇に怯えて、落ちることに恐怖し続けながら野垂れ死んでいく。


「電車のガラスの向こうに、ウサギの姿が映ったような気がしたんだ。でもあれは、自分の姿だったんだ」

 有栖はチェシャに会えたら、そう言おうと思った。気付いた時には有栖は誰も居ない始発より随分と前のホームに立っていて、『不思議の国』を逃げ出してきたのか追い出されたのかも記憶が定かではなかった。電車が来ることのない待合室で、有栖は物語の最後の一節を書き始めた。これはチェシャ、あなたに贈る物語だ。誰よりも、今まだ生きている人へ、辿っていく道を受け入れられない人へ。

 いつかチェシャのことも憎まずには居られなくなるかもしれない、その時までは命がけで書き続けよう。人に心を開くことで傷付くのが怖くて、けれど一人で生きていても傷付くことは避けられないと分かって、だから存分に傷付いて生きていこうと思った。そこが今の、白鳥有栖という人間の居場所だった。この道が正解だなんて思わないけれど、それは歩みを止める理由にはならない。ただチェシャに読んでもらいたい、もうすぐ書き上がるから、探しに行く。

「大丈夫」

 有栖は呟いた。確かなことは、ただ一つ。この世界の全てが戦場で、あらゆることが戦いであるということ。そして変わり続けることだけが自分という存在の希望で、きっと次の場所に行って戦いが形を変えても、傷付きながら何かを懸けて進み続ける。何処へ行ったって、それは変わらない、だから大丈夫だ。

 これを書き終えてチェシャを見つけたら、まずはウサギの居た場所を歩こう。かつて彼と、去って行った者たちの遺構を巡ったのと同じように。それから次は、何処へ行こうか?有栖は自分に語り掛けた。何処までだって歩いて行こう、何処へ行こうと構わない。じきに始発の電車が、夜明けを運んでくるだろう。


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