手稿『全ての傷は致命傷である』


 一つの映像が『街』に流れた。映像は橋の下から撮影者を、唖然とした顔で見上げる有栖の姿から始まった。次の瞬間に映し出される、視線の先に立っているウサギの姿をあらかじめ知っている者は、この映像をまだ見ていない。そして二人の乗り合わせた電車、走馬灯のように過ぎ去っていく景色、その映像作品内で一度きりの二人が同時に画面に映し出されるシーンの中で、音の洪水が溢れ出す。


 今、暗いところで何かを語っている有栖の姿は、その時とは比べ物にならないほどやつれていた。『街』の大学の受験から始まり、何かから逃げるように居場所を捨て続けていた年月が、彼女の身体を取り返しのつかないほどに痛めつけていたのだ。暗さに目が慣れてくると、有栖が座っているのが思いの外に白く清潔な場所だと分かる。

 真ん中に鎮座する人物を囲むようなCの字型の机に、ビジネスホテルのような白いダブルベッドが一つ。有栖が話している相手は巨大な青虫の姿をしていて、通常の椅子に腰かけることは出来なかったのだ。「ああ君か白鳥君、ゼミで君の提出した課題文は素晴らしかったよ」と部屋に入るなりかけられた言葉で、有栖はそれが例の『イモムシ博士』だと分かった。

「自分のことを物語にして書いていくうちに、ようやく分かってきたんです……私がずっと目を逸らしていた、私に欠けている一番大きなものが。それは誰かと一緒に変化していくということでした。互いが不安定なまま、剥き出しのまま衝突して、すれ違って、それでも歩み寄るということ」

 有栖の周囲には灰色のカーペットが広がり、レモングラスの香りがするアロマディフューザーに無数のPC機器があった。そこは『街』の人間が常用するマタタビの主な供給源であり、前々から予約を取って通う所と、予約なしで行ける代わりに数時間待って薬だけが出されるような場所に分けられるという。ハートの女王が紹介してくれたのは前者だったが、十数分座っていた待合室で部屋から聞こえてくる声には、今の有栖と同じような何かに追い立てられた淵に立っている響きがあった。

「私にとって生とは、青春とは、一人で走り抜けるものだった。誰かに歩調を合わしていては、速く走ることなんてできない。自分に欠けたものは、嫌いだったあの場所から抜け出すために代償として自分から捨ててしまったもので。けれど何処へ行ったとしても、それが無ければ意味なんて何にも無かった……チェシャとウサギは、それを持っていた。それがどうしようもなく羨ましく、そして許せなかった……悔しくて、妬ましかった」

 流れる映像の解像度が落ちて、見ている幾人かは携帯か盗撮カメラによる一幕であると理解しただろう。ウサギが仕事で誰かと寝ている場面や、彼を商品として扱うものたちの間で飛び交う莫大な金額の話。ウサギは『街』の外では目にすることのできない禁制の技術による美貌を持ち、またワンダラーの中でも白色奇種アルビノのものは比較的万人受けするため『街』の外の有名人や政府の要人に対して接待の商品として使われていた。そういった『外』との裏の取り引きが、一種の贈賄として『街』の治外法権を守らせていることを、その映像は示していた。

 一転、映像は『街』の表側である大学や煌びやかな大通りと、その中に居る有栖のものに切り替わる。それは二人が出会うまでのことを説明しているようでもあり、同時にウサギという人間が撮られなかった瞬間瞬間の『商品』として以外の彼の姿を有栖が補完して、一人の人物が持つ二つの側面として動かされているようでもあった。どこかの廃屋で撮られた有栖が煙草を吸う一幕、じりじりと燃える手元の火にも似た内なる焦燥に追い立てられて、二人は己が嫌悪さえ覚えるような行為を続けていた。

 ウサギは『商品』として扱われる中での僅かな自由時間と、反面使いきれないほど与えられる給金の全てを映像編集に充てて、己の傷を掘り返して蓋をしていたおぞましい記憶さえも作品における道具にする。有栖は秀才として扱われるほどの勉強量と決して噛み合うことのない己の内面を文章に換えて、数時間の集中のあと激しい虚脱を起こして『街』を彷徨い歩く。平時の彼らを知るものが居たとして、その文書を彼女と結びつけることはできないだろう。

「あの田舎に吹き溜っている、何にもなれなかった大人たちみたいになるのは絶対に嫌だった。周りに合わせることで頭が一杯で、自分のことを考えられないうちに、何もかもが変わっていってしまう……取り返しのつかないくらいの早さで、いつの間にか自分の意思でなく進んだ場所から後戻りができなくなっていて……けれど、それはチェシャやウサギも同じなのかもしれない」

 有栖は話し続けながら、ふとウサギは自分と撮っていた映像を完成させなかったのだろうか、と思った。彼もまた二人きりの時に語った言葉と、『不思議の国』での表向きの振る舞いが噛み合うことは決して無かったと思い出したのだ。それは丁度、映像が最初に流されたのは『街』の外であり、その大きな反響によって『街』にも持ち込まれたものであると知られ始めた頃だった。『街』の外ではウサギを有名人のスキャンダルを撮った関係者としてマスコミが追っていたが、既に『街』はそれ以上に死に物狂いで彼を探していた。それこそが『街』のここ最近における不穏さの正体だったのだ。

「私にあるのは、楽しいことも、苦しいことも、全部一人での記憶だった。誰かと行った場所の記憶さえ、自分のことしか覚えていない。私は孤独に生まれて、孤独に育ったから、それを今まで苦しくもなんとも思わなかった。そして陸で生まれて陸で育った猫や兎が、水の中では生きていけないのと同じように、人との関わりの中に生まれて周りとの関係を考えながら育った人たちが当たり前に生きている場所は、魚から見た陸地のように決していけない所だった」

 それまで短い相槌とうんと頷くだけで黙って聞いていたイモムシ博士は、有栖の話が終わったことを確認すると「どうして、そんな風に生きるようになったのだろうね」と口にした。「どうして一人で生きようとした?誰にだって、どんな行動にだって『最初』はあるのだよ。君が一人で居るようにし始めた、自分の居場所がここではないと感じ始めたのは何時の時期だったかね?」

 『街』の外でも既に寸分違わぬものが流れている映像は、今はウサギと有栖が出会ってからの日々を映していた。有栖は去っていった『ワンダラー』、己の同類たちの衣装を身に纏って失われた記憶の依代となり、ウサギはそれを撮影する。その間も有栖はサークルから『不思議の国』だけに留まらず色々な場所を巡って、その中のどれ一つとして居場所を見出せないままに彷徨い続けた。そしてウサギもまた、ワンダラーたちの生きていた残骸だけを見据えて、確固たる破滅に向かって己の願望のままに突き進んでいく。そう……見ている人々にとって明らかだった、二人の生き方がどこか歪であると。

 有栖はどの場所においても、あるべき行動に反抗し続けた。あるべき行動とは、夜の街においてはチェシャのように承認や金銭のために身体を売って生きていくこと、或いはサウナで性欲を満たすなり固定のパートナーを見つけたりすること。『不思議の国』で行きつけの店が閉まれば常連とは普通の友達になるか、それきりの付き合いになるかの二択であること。『街』の大学に通ってサークルを程々に楽しみ卒業後は良い職に就くこと。田舎の中高で下の方の成績に留まったまま地元で就職するか同級生と結婚したりすることで……そこが遡れる記憶の終着点だった。

「私の……初めては中学生の時で、柄の悪い先輩から無理やり抱かれたんです。それで人の肌に触れるのが無理になって……その時の人間関係の失敗から、私はどのグループにも属さず一人で居ることを選ぶようになりました」

 つっかえながら、言葉を探しながら、それでも有栖は過去へと記憶を遡らせていく。誰にも言ったことは無かった、今の自分を形作った核心となる出来事について。有栖は動悸が苦しくなって、胸を押さえて前かがみになる。そして一番大きなことについて、決して考えまいとしている自分に気付いた。それは今までずっと考えないようにしてきたもので、これまでの言葉なんて前座にもなりやしないほど重要なものだった。

 そこに無意識のカーテンに隔てられた、自身のもう半分が居る気がした。今まで思い浮かべていた全ての批判や皮肉は、それが言いたかったわけではなくて、ただ不快や憎悪の表現でしかなかった。その全ての感情が生まれた理由として、今の生活を続けるため決して思い出さないようにしていた記憶があったのだ。

「人を憎むようになったのは、憎んでいないと生きていけなくなったから。わたしが人を憎まないと生きていけなくなった理由は、無理やり犯されたこと自体じゃなくて……わたしが許せなかったのは」

 イモムシ博士が身じろきをした。彼のPCに何か緊急らしい伝達が表示されていて、十数本の脚の一つで彼が画面を操作すると一つの映像が表示された。ウサギの一生を辿り彼の一番古い記憶へと差し掛かっていた映像は、幼い彼の出演する異常性癖ムービーの最初に挟まれた、彼へのインタビューを流し始める。そして『街』の外から訪れて間もなく母親を失ったことをウサギが平坦に語り終えた後、そこに写された映像の続きを見た有栖は、ほとんど何も食べていなかった胃の中を液晶画面に吐き出した。

 有栖の吐瀉物で汚れた画面に映った行為中のウサギは、茫洋とした表情でずっと天井を見ている。彼を跨らせている女か男が身体を揺するたび、幼いウサギの視線は人形の首が揺れるようにがくんがくんと揺れる。けれど彼は許される限りにおいて自分の下に居る女か男、そしてビデオカメラのレンズの方に目をやろうとしなかった。ただ何も見つめず今の自分が自分自身でないように思い込むことで、あるいは脳が記憶そのものを自分から切り離して忘却することで、耐えられない出来事から自分を守ろうとするのだ。けれど実際にそれが無かったことにはならない。裏ビデオも携帯の録画も消えたりしないし、自分の身に起こったことが消えることはない。

「…してやる」

 画面の向こうのウサギが叫んだように有栖は思った、けれど聞こえてきた声は自分自身のものだった。そして有栖は映像を前にして、あれは私自身の姿なのだと分かった。その映像を撮った者が自分の支配者ではなく、ただ支配欲に支配された人間でしかないと分かっていても、その瞬間に自分が支配されていたということは消えてなくならない。

 その折り合いが付けられないような出来事が、忘れた出来事と自分を乖離させてしまった時、原因も分からないままの衝動に追われて破滅に突き進んでいくことになる。それを決して認めないようにしていた、自分でさえも忘れようとしていた。追いかけてきていたのは、追いつかれないように逃げ続けていたのは、苦しんでいた頃の自分自身だ。

 その時の私は、助けて欲しかった。助けてもらえなかった。助けを求めたかった。誰もそれを許さなかった。誰も彼もが自身に対して、そんなことを求めてはいなかった。他者は『自分を害して、そのくせ助けを求めることは許さない存在』、つまり敵以外のなにものでもなかった。ずっとずっと。


 私が許せなかったのは、されたこと自体ではなくて、それを『よくあること』の一つで済まされてしまったことだった。


「先輩に告白されて、一回目のデート先だった古いカラオケルームで無理やりやられた。親は部屋から出ようとしなくなった自分を問い詰めてきて、何があったか言ったら『デートに誘われて付いて行ったお前に隙があったんだ』と返されて外で騒がないようにと念を押された。確かに後々から知識をもって考えればそういう因果関係はあったかもしれないけれど、当時の中学生だった自分にそんなことが考えられるわけがない……ただ親は面倒ごとが嫌なだけだった。

 それで家に居続けることを許されなくて数日ぶりに学校に行ったら、何故か自分の身にあったことが広まっていて、当時自分が居たグループの仕業だった。告白されて舞い上がってたんでしょ、と知ったような顔で言われたり根掘り葉掘り興味本位で聞かれたりして……その騒ぎも二週間くらいで収まって、ただ『先輩に無理やりやられた女子A』としての自分だけが後に残ったものだった」

 全部『当たり前』のことだったのだ。治安のよくない田舎の学校では、カースト上位の上級生が、そこそこの容姿をした新入生を一年も経たないうちに手籠めにすることも。同意があるわけではないが暴力に訴えることや教師と生徒ほどの立場の差もなく、抵抗の仕方も知らないままに事が進んでいって犯罪扱いされることもない。その場所に居る誰もが当然のように振る舞って、全ては『よくあること』として片づけられる。

「だから、みんな殺してやる、そう思わないと生きていけなかった」

 『殺してやる』という感情が表に出るまでの長い長い乖離の期間。されたことを記憶しながらも決して認識しないようにしていた思考の歪さの果てに、気付いたら死の縁まで辿り着いていた。肺が水浸しになったように息が苦しくて、激しい動悸と過呼吸で立っていられなくなる。顔がぐしゃぐしゃになるまで泣かなければ決して思い出すことのない、涙と鼻水が喉の奥に流れ込んだ時の特有の臭い。

 何もかもがありふれた事であるのが許せなかった。いっそのこと、取り返しがつかないくらいに壊れてくれたら良かった。誰もが抱えて生きていると声高に叫ばれている、ありふれた『つらいこと』の中に含まれてしまうくらいなら。その出来事を思い出さないようにしていた間も、絶対に一人で生き続けてやるという決心だけが残った。

 人を愛してはいけない。誰かと一緒に居ようとしてはいけない。心を開いてはいけない。何故なら、そうしたことで自分は痛手を被ったから。そうあるべきように生きれば、そうあるべきであるという損失を当然のように押し付けられる、だからその場所であるべき生き方をしてはいけない。一人で生き続けなければならない。

「例えばさ」と、ウサギの声が聞こえた。

「一つの出来事を経験したことで生き方が歪んで、その歪んだ生き方の果てに死ぬことがあったとして。それは生き方の歪みという傷が、それからの年数分だけかかって死に至ったと言うこともできる」

 それは一人きりで録音した声であるのに、まるで目の前の見知った誰かに語り掛けるような響きを持っていた。

「死ぬこと以外はかすり傷だなんて言うけど逆です。全ての傷は致命傷で、俺たちはその傷が死に至るまでの時間を生きているに過ぎないんだ。最初から生まれたこと自体が、避けがたく死に繋がっているんだから」

 後になって、これがウサギの遺作だとイモムシ博士から聞かされても有栖は驚かなかった。彼は最初からアルビノ化の副作用から癌を患っていて、治療を受け続けなければならない身体にも関わらず自作の映像を持って『街』を離れた。そして彼の遺体は『街』の外で発見されて、映像の事実性を裏付ける一つの証拠となった。ウサギもまた『街』において当たり前の行為を受けて、それが当たり前でしかないことが許せなかったのだろうと有栖は思う。この作品を出さなければウサギはもう少しは生きることができたのだろう。けれど自分の傷を無かったことにさせないために、今までの苦しみが無意味でなかったと証明することに殉じて死んだのだ。

「これは私だ」

「ウサギという人間、白鳥有栖という人間の姿は永遠に残り続ける……もう彼の人生についても『街』はもみ消すことはできない、これは事実の告発であると同時に映像作品でもあるからね。その完成度が高ければ創作物として未来永劫残り続けるだろう。君もその姿ではもう『街』を歩けないね」

 イモムシ博士は有栖が呟いた言葉を、映像作品に有栖の姿が使われていることと誤解したようだった。けれど有栖は、それも良いと思った。どこへ行っても逃げられなかった自分自身、白鳥有栖という存在を終わらせてしまう方法だった。そして誰も今までの自分を知らない場所で、新しい名前で生きていきたいと思った。

「『街』における身体改造は、常に私が先行者だったんだ。君がそれを望むなら、そう望むがままに君の姿を作り替えてあげよう」


――映像が切り替わる。長い時間が流れたようだ。背景で流れていた音の洪水は既に途絶えて、有栖は自室に立っている。そこは彼女の身体が辿ったのと同じような軌跡をたどり、荒れ果てて見る影もなかった。有栖は根元から真っ白に生え変わってきた、髪先の黒いところを切り落とす。

 鏡の前に立つと『街』の外では未だ人間において確認されていない、全ての色素が脱落して白色となるほどの完全な白色希少種アルビノの少女が立っていた。見開かれた瞳は色素が欠落した動物と同じように充血した赤色だけを透き通していて、その髪までもが夜の闇で白く輝いている。折れそうな細い首の根元に、はだけたシャツから鎖骨がのぞく。色素の薄い唇を動かして、鏡に映る少女はこう呟いた。

「ああ、ずっと、そばに居たんだ」

 私には一人だけ愛している人が居た。例えどんな事が起ころうと、どんな状況に陥ろうとも私だけはあなたの味方だと、そう言えるし相手もそう思っていることが確かな相手が居た。どんな喜びも苦難も彼と共に味わい乗り越え、そして助け合って今までずっと一緒に生きてきた。どんな欠点も、そして変わり続けてゆくことさえも愛してあげられる、たった一人の人間。私は墜ちたんじゃない、ずっと此処に居たのだ。今ここまで来て、ようやく自分自身と出会うことができた。

「……そして、今度こそ、さよならなんだ」

 鏡映しの自分とさよならをするということは、私にとって自分自身が避けがたく変わっていくという運命のことだった。あなたのことを失わないと思っていた、空気のように当たり前にあったから存在にすら気付かなかった。そして失った瞬間も気付かないで、ただ過去の自分にあったはずの行動原理が変わってしまっていることに気付いて、初めてあなたを失ったことに気付くのだ。

 鏡の中の私自身を、私は愛した。有栖は自分の唇に接吻し、「お前を愛している、だれよりも俺はお前を愛している」と呟いた。ウサギは死んだのだ、間違いなく。未来へと旅する中で、墜ちていく中で、あなただけが傍に居た。ずっと同じだった、表と裏の存在だった。そして、あなたは辿るべき道を先に行ってしまった。



       ――そして、映像が終わる。


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