鋼の森の有栖『ウサギの穴に墜ちて』
ウサギはその後の三ヶ月ほどの間、二度と有栖の前に姿を見せることはなかった。
そして有栖はウサギに連れていかれた表向きは
「ただの共用寝床として使いたい人は入り口近くで眠ってて、二時間に一度定められた時間に見回りが来る時だけは他の人達も寝静まったふりをしているの、そういう公認の秘密として行われている。
あくまで名目上はサウナと仮眠室であるため、望まない相手に無理やり襲われそうになれば痴漢だと大声を上げればいい。必然それの相手を探す時は誰しも慎重になって、相手から求めてくるサインを探そうとする。多くの場合それは相手と目を合わせながら自分を自分の手で昂らせる行為で、けれど金銭のやり取りが無いからこそ自分の身体を捧げてまで欲しい相手なのかと誰もが値踏みしている。欲望と打算に張り詰めた空調機の音だけが響く暗闇の中で、やがて密かな囁き声と、服の上から撫で上げる衣擦れの音、律動的な粘性の水音と、押し殺しながらも肺の震えによって一瞬だけ大きくなる喘ぎ声が混ざり始める。
有栖は触られるのを待つ狸寝入りだと思われないように、ベッド脇を誰かが通り過ぎる時に決して目を開けないようにした。そして部屋中で行われる情事の音を聞きながら仮眠用の下着の中に手を忍ばせて、あれきり姿を現すことのないウサギに思いを馳せていた。彼は容易く『こちら側』に墜ちた私に失望したのだろうか?いいや、きっと私の肉体が持ちうる全てを使い尽くして、用済みになったから去っただけなのだ、と。
そうでないと知ったのがチェシャと出会った日のことで、けれど会った時に彼女は既にマタタビでべろべろになっていたから、彼女の前からもウサギが姿を消したことを聞いたのは少し後になってからだった。そして有栖は分けてもらったマタタビを使った後、気付いたら仮眠室でチェシャに覆い被さって乳首を舐めていた。チェシャはこの仮眠室で、初めて有栖が行きずりのセックスをした相手だった。
「あたしが初めてって、今までサウナで何してたの?」
とチェシャが後になって聞いてきた時、有栖は初めての同性のセックスをした相手であるチェシャにだけはと包み隠さず答えた。
「ずっと一人でしてた、基本的に人に触れるのが嫌っていうか、怖いから。布団で隠せなくなったら、店を出て外の個室トイレで続きをしたの」
熱の醒めない身体に服を纏うと、包皮がめくれて剥き出しになった陰核が、股布に擦れるだけで軽い痛みとともに下着を濡らす。歩き方が変になっていないかと、内腿と落ち着かない腰を手で隠すようにしながらトイレに向かった。そして下着を降ろして手で触れた時に、歩いて刺激を受けたせいで血が集まって、火照って張っているのが分かる。爪の先で軽く掬い上げるように引っ掻くと、合わせ目から透明な愛液が溢れだしてきて、それを指先で擦り込むようにして中指で掻くのが早くなっていく。共用トイレで小さくぬちぬちと音が立つのも構わず、時が経つのも忘れてひたすらその部分を指の腹で擦り続ける。眼の裏側に血が集まるような刺激が走って頭がぼうっとして、快感と同時にそれが衰えることも何かに達することもなく続くことへのもどかしさを感じるようになる。そして店内放送で閉店時間が近付いていることを告げる放送が流れた時に、自分が20分以上もここで自慰にふけっていた事に気付かされる。
「それは他の人の身体が汚いって思うってこと?」
「ううん、たぶん単純に、満員電車でいきなり知らない人に下着の内側に手を突っ込まれるような、ぞっとするって感じ」
チェシャの身体は有栖のものと全然ありかたが違ったから、自分でするのと同じようにしてもチェシャが感じているのか分からなかった。その時のことで記憶に残っていたのは、余すことなく曝け出された彼女の身体が普段の生活を営んでいるのだという倒錯的な考えだった。それは今せつなそうに震わせている声が『お茶会』で他愛のない会話をしていたのと同じもので、小さなカウンター椅子に座った時にくっきりと浮き出す押しつぶされた尻肉の内側にあるものが今目の前にあるということだった。産毛の一つに至るまで入念に剃られた背中からうなじにかけての白い肌や、少年の肉体に後から膣だけが取り付けられたような身体。かきあげた黒髪から見える人間の耳や、細い手首の小さな古傷や腕を抱く仕草。どれも彼女がセックスしていない時、今と同じように曝け出しているものだ。
「有栖が何を欲しくてあの場所に来てたのか、あたし分かんないや」
と、チェシャは最後に首を傾げて言った。有栖はチェシャとセックスした日を最後に、サウナに行くことはなかった。チェシャに説明することはなかったけれど、それは行為の最中で物欲しげに自分達の周囲に集まってきた、老いて何かの病に罹っているようなギャラリーたちの姿を目にしたからだった。あわよくばと考える男と、ちやほやされて奢られようとする女といった構図になりやすい出会いの場と比べて、端からそういう目的の場所では性別よりも若さと健康こそが重要視される。そして訪れた当初は誰も彼もが持ち合わせている若さを、そこに入り浸るうちに周囲の人々に吸いとられて、やがて自分も若くて健康な者たちに群がる側になるのだろう。
「ウサギとは小さい頃から友達だったんだ」
敷いていたバスタオルを回収箱に放り込んで店の外に出たのが始発には早すぎるような時間帯で、マタタビの酩酊と多幸感が切れてきたチェシャが小さなポーチから煙草を取り出す。濃い群青の雲の隙間からは明けの明星がひときわ強い光を放っていて、二人の周囲には密やかな囁きと煙草の煙が最も似合う静けさが満ちていた。
「あたしが『不思議の国』に誘ってから色んな人たちと出会って、あれでも昔より大分明るくなったんだ。けど楽しそうに話してても、誰とも友達になろうとしなかった。一緒に寝てる時もさ、あたしに何も求めてないんだって分かって、まるでタダで身体を売ってるみたいでちょっと寂しかったな」
チェシャは本能に植え付けられたように、人混みに吸い寄せられるように歩いていく。自分を買って一時間限りでも人との関わりを、どんなに乱暴でも愛だと教えられているものを与えてくれる客を求めて。自分と出会ったのもその習性によるものだろうと、サウナに足を運ぶ代わりにチェシャと一緒に過ごす時間が増えていく中で、有栖は思うようになった。そして仕事が終われば短い睡眠の後、チェシャは何かに追われるようにブランドの服屋やBARに金を使いに行く。或いは再び人肌の温もりを求めてサウナに行ったり、優しい客にまた来てもらうために貢ぐこともあり、その意味では彼女達もまた人の客を買うのだ。
繰り返しの日常で目にする景色だけが、チェシャにとって世界の全てだった。欲望に満ちた目で見回す男、怖いもの見たさと非日常体験を求めた旅行客、そして破滅を影と同じような気軽さで引き摺る根っからの『街』の住人。彼らはただ知っているだけなのだ、何一つとして永遠に続くものはなく、死とはただ繰り返しの日常にいつか終止符が打たれるだけのことだと。
「有栖はさ、あたしが『不思議の国』を教えたせいで学校に行かなくなったのかな」
チェシャに連れられて歩く鋼の森はそびえるコンクリの牢獄、狭い空と掃き溜めの地のように見えて、けれど誰もここを地獄だとは思っていなかった。地獄とは罰の下る場所だ、この場所は罪を重ねるソドムの街だ。そして自分達が救われない限りは神の不在が証明される、つまり『街』に神の火が降り注がないということが。最初から持っていない者は奪われることはないし、自らに足りていないものが何かすら分からない。ただ理由の分からない渇望だけが彼らを動かし、欲望を燃え上がらせて街を輝かせる。
「そうね……でも、これで良いの、これで」
有栖はチェシャの行きつけている服屋で、自分でも気に入ったウェストリボン付きで肌の透けるレース地のシャツを買った。明るい場所に出ると黒いレース地にあしらわれた模様は、ほとんど裸みたいに透けた有栖の肌とコントラストをなしていて、普段より道行く人から向けられる視線に過敏になる。そういうものを着慣れしていないからか服に着られているような感じで、化粧とかピアスがおっついていないから仮装のようにアンバランスな姿だと有栖は思った。それでも有栖は『彼ら』に、つまりチェシャ達のようになれないのは分かっていても、今まで属していた場所の口にする『私たち』のままでは居たくなかったのだ。そして買った後も長くは着ないようなその服を着てチェシャと遊び歩いた帰り、一人で始発を待つホームの中で思わぬ相手と出会うことになった。
「あれっ、しらと……り?」
と聞き覚えのある、なぜか疑問形になった声に振り向くと、そこに立っていた男がサークルの先輩であると分かるまでに有栖も時間がかかった。旅行鞄と大きなリュックを持っていて、髭を剃って清潔感のある服を着た彼は出張前のサラリーマンのような出で立ちで、サークル飲みの安居酒屋で口角泡を飛ばして政治について語っていた彼と結びつかなかったのだ。
「お前、サークルの卒業祝い来なかっただろ」
と先輩が言った。有栖は何を言われても動じない自信と、もう言いたいことは全て言ってしまえという意思をもって先輩を見返した。もはや所属していない共同体の和を乱さないように合わせることも、世間に適合するための自分を演じる必要もないのだ、もう『生活』なんて気にする必要がないのだから。
「手稿、まだ書いてるのか?見せてくれなんて言うつもりはないからさ」
「……ええ、はい。まだ書いています」
予想外の質問に少し面喰いながらも有栖が答えると、先輩はなぜか心底安堵したように笑った。
「ああ、そりゃ良かった。卒業祝いで来てたら、要らなくなった俺の蔵書とか執筆用PCとか譲ろうと思ってたんだけどさ、サークル来なくなってから随分と雰囲気変わったから」
先輩は有栖の恰好のことを言っているのだろう。勉強が嫌いなのに受験して大学に行ってから『お茶会』が閉店するまで属していたサークルでの姿。そして行きつけの店が閉まれば『不思議の国』なんて忘れて日常に帰るなり、そこで知り合った人と友達になれば良かったのに、もっと深い底であるサウナ施設にまで飛び込んでいった後の姿。そこでさえ
「でも大学入った頃から誰もやってないようなことを急に始めたり、かと思ったらすぐに愛想を尽かして別のことを始めたりするのが白鳥の癖みたいなもんだったしな。ほらウィスキーの銘柄集めとか、一人で博物館とかデートスポット回ったりとか」
過ぎ去っていった出来事への懐かしみと、そこに残るものへの激励と教訓。どれも何かを期待したり飢えている者ではなく、ある場所から去っていく者の言葉だった。先輩は国家試験を乗り切って『街』の外の研修医になるだと風の噂で聞いたことがあった、そして『街』に来る前から付き合っていた幼馴染に婚約指輪を渡したらしいことも。約束された将来とそのために要求される努力の前で、承認の欲求や批評癖なんてものは最初から存在しなかったかのように忘れ去られるのだろうか。
「多分そういうことできるの今だけだからさ、周りから拗らせてるって言われても全力で楽しんどいた方がいいぞ」と先輩は言った。「逆にさ今のうちに拗らせておかないと積めない経験ってのもあるし、そこで我慢して三十歳くらいになってから初めて拗らせたりしたら悲惨だろ?まあ俺の学科は仕事みたいに忙しかったから飲み会でクダ巻くくらいしか出来なかったんだけど、振り返ってみれば楽しかったなって思えるよ」
始発前のホームにだけ集まる、独特の疲れ果てた雰囲気を纏った人々を見ても先輩は何も言わなかった。前までなら先輩の口をついて出たであろう世情への憂いとかには関心を既に失っているようで、ただ彼は大きなものについて語るよりも目の前にある課題を地道にこなすことを知っている人の顔をしていた。或いは彼も十年くらい働いた後、飲みの席で場を温めるための話題として、表面だけ触れて楽しんだ『街』の悪徳のことや、自分の些細な拗らせのことを使うのかもしれない。そんな彼の姿を有栖が目にすることは決してないだろうけれど。
「ああ……もう時間だな。国試があったからな、学部のやつ以外と話したのも久しぶりだよ」
電光掲示板を見上げて先輩が言った。有栖が下宿に帰るのとは別の行き先の始発が、ほとんど動くもののないホームの中に滑り込んでくる。鈍色をした電車の鋼鉄版には疲れ果てた人々の姿が映し出される、この時間になってもアルコール臭を全身に漂わせていたり数日は風呂に入ってなさそうな身体や、遠い現場への早朝出勤続きで疲れの溜まった精神、そして今の有栖のような人種もその中に含まれた。何かから逃げるように遊び歩いた夜の果てで虚飾も活力も使い果たした、朝帰りのみっともない着崩れた服。
「卒業できるくらいには学校にも行っといた方が良いぞ、辞めるくらいなら休学って方法もあるんだし。後々面倒だからワンダラーと絡むのも程々にしとけよ、まあ俺もそういう時期あったけど」
始発に乗り込んでドアが閉まる直前に、先輩は笑いながら言った。『街』の技術で自傷じみた身体改造をしたマタタビ中毒者であるような、いわゆる世の中の『ワンダラー』のイメージは『お茶会』が閉店した頃にはサークルにも定着していた。それがサークルに二度と足を運ばないことを心に決めた理由で、その日の昼に有栖はウサギと閉店後の『お茶会』の前で出会ったのだ。
先輩は在学中にワンダラーと関係を持っていたらしい。『街』の外に彼女が居たから要は浮気で、卒業したら彼女と婚約して『街』を出るからと相手のことを一方的にフッた。その時のちょっとした悶着のこととかを、卒業祝いの酒の席で話したらしい。「簡単にヤらせてくれたけど性格が面倒くさかったしね。苦しい辛いって言うけど自分から助かるつもりも無いんだから、あの手合いは構ってもらいたくて病んだフリしてるだけだよ」
そんな根拠のない彼の言説が、普段していた政治談議よりも受けが良かった理由も明白だった。『街』の大学はワンダラーにとって最初から閉ざされた道であって、決して彼らと交わることはない。そして見も知りもしない相手のことを好き勝手に決めつけて偉そうな講釈を垂れることで、それを言った側も聞いている側も頭が良くなった気がして快感を味わいたいだけなのだ。
「なったこともないのに、近しい人がそうであったわけでもないのに、何故そんな確信を持った風に語ることができるんでしょうね?それを聞いて言葉を返せる人たちの中にも何かを知ってる人なんて居やしないから、自分達にとって都合のいいような言説ばかりが飛び交ってそれを真実だと思い込むんだ」
言ってどうにかなることでなかったとしても、この時そう言ってやれば良かったと有栖は後悔し続けた。何よりも『ワンダラー』が身体改造者という以外には曖昧な定義の中に、チェシャやウサギのような生まれつきか、そうなる以外に選択肢がなかった人々も暴力的に括ってしまう便利な言葉であることが許せなかった。彼らは『ワンダラー』というイメージ像を叩いているだけで、そこに多様な人間が属していることを見ようともしない。そして当事者から都合の悪い反論をされた時にも、そして近しい人がそちら側かもしれないと知った時にも、「君は『ワンダラー』じゃない」と同じ言葉を使う。「だから君のことを悪く言っているわけではない」という逃げ道に、「だから君は普通の人間らしくしていないといけない」という黙殺に。
「根拠のない言説で所属してる共同体とか人間関係ひっかきまわすことを社会的経験って呼ぶんですか?あなたが語れる普通でない人間の苦しみなんて、あなたの知っている範疇での苦しみだけだ。だから健康なまま生きていて、若気の至りで済ませられる程度の逸脱しか知らないんだ。私はそうなりたくない、だから……同じ場所で生き続けるなんて、絶対に嫌だ」
行き場のない有栖の叫びを受けて、徐々に加速していく始発の環状線。自身のくたびれた姿を映して過ぎ去っていく鋼鉄の隙間から、窓を通して電車の中に一瞬だけウサギの後ろ姿が見えたような気がした。ウサギが有栖に気付くことなく電車は小さく遠く見えるだけになって、だから本当に彼だったのかさえ分からなかった。
ウサギと出会わなければ、何もかもこうはならなかっただろうと有栖は思う。今までのように周りだけを嫌って見下して生きていけたはずだった、誰にも本当の自分のことは口に出さず、正体を言い当てられることもなく。けれどウサギと出会ってから自分と似たような人々が居ることを知って、そのせいで『自分達』という存在に共通する在り方を直視してしまった。今では何もしないで一人で居ると、見ずに済んでいた無意識のカーテンの向こう側から自分は何をやってるんだと苛立たしげな声が聞こえてきて、それが苦しくて幾度もマタタビを使うようになった。それは『街』でさえもが、何やら不穏な情勢を見せている時期のことだった。
「あたし、ウサギのこと好きだったのかな」
ウサギが消えたことで一番堪えていたのは、間違いなくチェシャだった。彼女と再び出会ったのは半月近く後のことで、当て所なく『街』を彷徨って通りかかった例のサウナビルの悪臭漂う裏路地で、チェシャは痣や汚れだらけの顔で有栖を見上げた。
「生理でもないのに血が出るなと思ったら、中からゴムが出てくるんだもん。いつのだよ、あと誰って」
チェシャは有栖の知らない、ある場所に連れて行って欲しいと言った。有栖でも背負えてしまうくらいに軽い身体で、その骨と皮の内側にはマタタビ以外の何も入っていないように思えた。そして夜の街を歩きながら、背負われたチェシャは有栖の耳元で、仕事として誰かと寝ることをやめたのだと話した。
「誰かを誘ってみたりとか、綺麗な恰好したり美容に気を使ったりとかしたところで、セックスで繋ぎ止めなくても一緒にいてくれる人なんて居ない。一人で居るのが寂しいから『不思議の国』に行くのに、もうウサギみたいな友達なんて出来ないんだって思ったらさ……それで相手も選ばず雑に抱かれまくって、精液便所みたいになってた。それでアナルセックスで中だしされた後、そのまま寝てたら漏らしてサウナ追い出されちゃって」
性産業から離れたところで、穏やかな余生なんてあるわけない。セックスに誘う気力もなくなったのが、身体を売ることをやめたワンダラー達だから。そして今度は受け身のまま金を払われることもなく、性的に搾取され続けるだけの余生が待っているのだ。
まだ『不思議の国』に通っていた時から、有栖はチェシャが店に来る何人かと性的に関係していたのを知っていた。チェシャは酔うと足の付け根まで露わにした服でも、顔見知り程度の人にも誰彼構わず抱き着いてキスをする。知らない相手に触られたところで抵抗しないどころか、自分からも求めるような反応を返して、それなのに相手に恋愛感情も性欲も抱いていないという。
「チェシャは私と逆で、人に向かっていくのは得意だけど、人との距離を取ることが苦手なんだと思う……だから親しくなることが、肉体関係になることと同義になってしまう。他人に何かを期待するから、何かを支払わないといけなくなる。誰にも期待しないで、一人で生きていけば良いのに」
人間関係なんて『サービスの交換』でしかない。自分の与えた分以上を求めて拒絶されても文句は言わず、逆に支払いに釣り合っていないと感じたら何も言わず距離を取ればいい。そうしないなら他の人間から、どれだけ奪われても文句は言えないはずだ。
チェシャは話も聞かず、有栖の肩に顔を埋めて匂いを嗅いでいた。母親の匂いを探す仔猫のように鼻先が動いて、生暖かいため息が服を湿らせる、それで有栖は、続きを言うのをやめてしまった。まるで小さな子供のようだ、ただ人肌の温もりを感じて安心したいだけの。過剰なスキンシップは、与えられたことのない父性を、目の前の異性に見出そうとしているだけなのだ。
「でも別に良いんだと思う、他に働けるような場所もないし……セックスしても顔も見てない、声も聞いてないような肉オナホール扱いでも、穴だけはあたしのだから。セックスをやめたら誰からも見向きされなくなる。今までウサギ以外には、そういう人としか関係を持ってこなかったから」
無かったことにされたくないと、ウサギが言っていたのを有栖は思い出した。迷惑がられたり存在価値を否定されたり、性欲の透けて見える好意しか向けられなかったとしても、無視されるよりは良い。多分チェシャにとっては性行為でだけ繋げられた人間関係でも、誰の記憶にも残らないような人生を送るよりは、ずっとマシなのだ。
「『生活』って言葉の意味は分かる?生物がこの世に存在し活動してることや、人が世の中で収入によって暮らしを立てることでない方のやつよ」
久しぶりに会ったハートの女王が有栖に言ったのは、そんな話だった。チェシャが連れて行ってと言ったのは彼の経営している斡旋所で、従業員の軽い手当てをしてくれるとのことだった、実際のところ小さな診療所にあるような検査器具や薬剤までが一通りそろえてあって、洗っていない猫のような臭いを漂わせていたチェシャはまず備え付けの風呂に入れられることになった。
「それは一言で言うなら
本物の猫のように入浴を嫌がるチェシャを浴室に押し込んでから、ハートの女王は言った。それは白血球のような治安担当、傷をふさいで再生させていく血小板のような工事業者、経済という血液を回す労働者にして消費者であり、また病院や大学に『不思議の国』といった施設が臓器のように役割を果たして『街』は回り続ける。
けれど今、『街』の
「ウサギが居なくなったのは、それと何か関係あるんですか」
「まだ分かんないけど、客に殺されたとかじゃないわよ。でも急に行方が知れなくなって、それっきりなんて彼らにとっちゃ珍しくもない話よ。生きてるなんて期待はしない方が良いわね」
家はなくとも買われた先のホテルにシャワーもベッドもあるし、治る性病なら稼いだ金でヤクザ抱えの専門医から治療が受けられる。だから彼女達にとっての寿命とは仕事ができなくなった時だと、ハートの女王は言った。そして浴室から出てきたチェシャに「とりあえず点滴打って、ここでできる検査だけしとくわね」と声をかける。医療スタッフなどが出てくるわけではなく、設備を動かしているのもハートの女王だけだった。「大学はね、中退したのよ。だから生半可なことしかできないし、検査画像送って知り合いに診断してもらったりしてるのね」有栖の視線を受けて、ハートの女王は言った。
「ああ多分だけど妊娠してるわ」
ハートの女王がそう口にした時、居合わせた誰一人として大きな反応は見せなかった。それは何時か当然起こり得ることだったからだ。多分横断歩道のない車道を渡り歩いて車に跳ねられるのと同じくらいの確率で、それが起こり得ると分かっていたところで人は行動を変えたりはしない。
ただ、女が減るものだというのなら、減って、減って、無くなってしまえば良いのにとだけ有栖は思った。私を縛る私の価値なんて一つ残らず失ってしまえばいいのだ、そんなものに縋って立たずとも自由に地べたを這いずっていけばいい。
「私、チェシャに遊び代幾つか奢って貰ってるから返さないといけないんです。比較的でいいので安全な店、斡旋して貰えませんか。本業なんでしょう?」
気が付いた時には有栖はそんなことを口にしていた、そして確かに『閉じた輪』だと皮肉に思った。気持ちよくなることも心が満たされることも必要としていないし、どんな相手の肌にも触れたくないと思うけれど、こんな身体に例え三千円だとしても金が払われるのなら我慢はできるだろう。
「今のままだと私……チェシャやウサギに連れられて、『街』の裏側をツアーみたいに見て回っただけでしかない」
それは病んだ雰囲気と性的な価値を搾取しただけの、『ワンダラー』という言葉を便利に使っている人々の同類でしかないと有栖は思った。
「いいえ駄目よ、あんたみたいなのだけは、入れられない」とハートの女王は首を振った。「あんたは今自分のために必要なものを手に入れることだけ考えて、その時々の相手に何を支払えるかなんて考えもしない。そういうタイプは万一稼ぎ頭になったとしても、一番厄介事を引き込んで人間関係を壊しやすいのよ」
有栖は目の前の相手が、BARのマスターであれ斡旋業であれ長い年月の中で、数えきれないほどの人間と接してきたのだということを思い出した。そして反論しようのない言葉で自身の本性を言い当てられる事よりも、自分と同じような人間と、その行く末を見てきたのかもしれないということの方が怖かった。
「あんたが何に追い立てられて、こんな場所にまで迷い込んできたのかは知らない。だけどタダで手に入るものも、なにかを捨てずに得られるものもないのよ。感情のしがらみから自由になりたいって言ったアンタが、誰かに同情だとか配慮だとかでなにかを要求できるだなんて、浅ましいにも程があるわ。誘われてない『お茶会』に居座ろうだなんて」
結局この後、有栖はハートの女王から一つの施設を紹介される。けれど予想とは違ってそれは『街』の公的な施設であり、むしろ戸口は広く開けられているけど皆ひっそりと訪れる場所だった。鎮静剤でも与えられていたのか、或いはそうするまでもなく心が麻痺していたのか、二人のやり取りをチェシャはぼんやりとした目で見ていた。ハートの女王はチェシャを顎で示して、有栖に問いかけた。
「あんた達はワンダラーって呼ぶのよね、あの子達は何時からワンダラーだったのかしら」
禁制扱いの技術で美麗な姿に生み出され、幼い時から性産業に従事している『ワンダラー』と呼ばれる者達。有栖はかつて講義で、猫人になる施術が後天的なものであると習ったことを思い出す。彼らは必ずしも『生まれた瞬間から』ワンダラーなわけではないのだ。けれど、と今までにウサギやチェシャと出会い、彼らの話を聞いてきた有栖は思う。
「たとえ身体改造が後天的なものであったとしても、それまで生きてきた道筋によって不可避になるものだと思います。だから決して、優しくされるために演じるものだとも、それであることが甘えであるとも思わない」
身体改造は後からのものに過ぎなくて、彼らの根本にあるのは不可逆な身体の改造を後押しするような精神の歪さ、普通の生活を送れなくなるような焦燥だった。けれど有栖は理由もなく自分はそれとは違うと考えていた。そうかもしれない、と考えたくなかったのかもしれない。そう考えたら全ての行動に合点が行ってしまうから、己の居場所を失い続けて行き着いた先が、ある意味で本来自分の戻るべき場所だったのだと。
「ねえ白鳥有栖、あんたはワンダラーよ。あなたが口にした言葉の通りにね」
ハートの女王に紹介所を書かれた場所は、チェシャ曰く『
どれだけ起きていても知っている景色しか見ることができず、どれだけ動き続けていても同じことを繰り返すだけで、眠ろうとして朝を迎える焦慮は動き続けた分だけひどくなっていく。だから有栖はウサギと出会った時のことから順に、少しばかりの虚飾を混ぜて架空の物語の体で書き始めることにした。一呼吸ごとに失われていく今の自身を、完全に忘れ去ってしまう前に。
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