手稿『墜ちるということ』
確かにその瞬間、私は人生という道程の至る所に一瞬だけ開いては閉じる、大きな穴を見つめていた。普通の人間ならば避けて通り、決して見ようともしない暗闇に満ちた穴は、落ちるまでは中を知ることができず、そして踏み出してしまえば二度と後戻りはできない。口の中がからからに渇いて手のひらに汗がにじむ、ごくりと飲んだ生唾が動悸の激しい胸を叩く。けれど、そんな迷いも、一瞬のことに過ぎなかった。
ウサギに連れていかれた場所は古びた細長いビルの六階か七階で、最初に二人で三千円くらいの入場料と交換でタオルとバスローブを渡された。そして狭い更衣室で服を脱いで鍵付きのロッカーにしまった後に浴場で身体を洗って、仮眠室と書かれた場所でウサギと落ち合った。その二段ベッドが幾つも並んでいる薄暗い部屋の中、そこかしこで交わっている人の多くは獣人であった。胸の悪くなるような湿気と匂いも『マタタビ』のお陰で気にはならなかった。ウサギに渡されたそれは口にした時少しだけ甘さがあって、すぐに口の中で溶けてしまった。頭がぐらりと一瞬だけ揺れるような感覚があって、それが
マタタビの実にはドングリ型の正常な果実と、開花時期にマタタビアブラムシが寄生したことでコブ状に成長したカボチャ型の果実がある。虫エイ(植物組織が異常な発達を起こしてできるこぶ状の突起)と呼ばれる後者のものは正常な果実や葉にくらべてマタタビ酸の成分が空気中に逃げる発散が少なく、薬物(ドラッグ)としての『マタタビ』は遺伝子組み換えのマタタビアブラムシを寄生させたもので作られる。
この遺伝子組み換えのアブラムシによってマタタビに含まれている成分が人にも作用するように変化し、中枢神経の麻痺による興奮状態と体液の分泌促進を引き起こすのだ。アルコールと異なりマタタビによる興奮状態は性的に興奮した状態で、マタタビに依存性はなく嗅ぐだけで効果があることから香にして焚き染めたり、全身に塗り付けることで相手を発情させるために用いられたりもするのだとウサギは言った。
「ねえウサギ。こんな時に、直前になって言うのもなんだけど」
「あんたは俺を買ったんだから何でも言えばいい、あとは使われてないベッドが残ってると良いんだけどな」
同じくバスローブ姿で、二段ベッドの並びの奥を覗こうとするウサギの背に言った。
「肌に触れられるのが昔から怖くて仕方ないの。行きたい場所があるなら一人で行けばいいし、誰かと話しに行くのは必要な情報を手に入れたい時だけでいいから、今までは何も不便することはなかったんだけど」
ウサギが振り向いて、笑った。
「ああ分かるよ、肌や唇を重ねたりなんて考えただけでぞっとする。だからマタタビを使って、何もかも曖昧にして終わらせるんだ」
普段から身体を売って生きているウサギの言葉に、思わず可笑しくなった。
「ねえウサギ。私はね、勉強が凄く嫌いだったわ」
勉学に青春を捧げたのは『街』の大学に入るためではなくて、ただ何かを勝ち取る際に負った癒えない傷によって、自分が生きていることを確かめようとしたから。普段の生活の中では出会うことのない、己を傷つけかねないものに惹かれて『不思議の国』へと誘うチェシャの手を取った。今こうしてウサギと交わるのも、これまで歩んできた生の何一つとして例外ではなく、未来を捨てるということ、破滅の淵を歩むということだった。
「ずっと、生きていくことは苦しかった……」
私の頭も身体も出来損ないだ。生まれつきの脳の障害で、じっと座っている事が苦手で、人の名前や憶えておかなければならないことを不意に忘れてしまう。いつもの量では眠れなくて、勝手に眠剤を足したであろうことも記憶にない。寝るための薬のせいで眠りに落ちる前後の記憶がないのはいつものことだけれど、今朝目が覚めたら錠剤の殻がいつもの倍転がっていた。雨が降るような低気圧になるだけで身体がだるくなって動けなくなり、早朝にビールを一缶流し込んでようやく学校に行ける。この出来損ないの自分にすら劣る周囲の人間たちを、どうして見下さずに居られるだろう。女に生まれたことで受けた不便や苦しさよりも、生まれつきの心と身体の不具合で受けた不調や飲む薬の方が遥かに多く、女だから男だから という区分けも昔から馬鹿らしくてたまらなかった。
「多分……私という存在 そのものが、始まりから一つの終わりを内包していた。今という破滅は、その結果でしかなくて 何かを目指して歩いた道は、墜ちていく時の落差を積み上げる、破滅という行為の過程に過ぎなかった」
上らなければ落ちることはできない、何も持たなければ失うことがないのと同じように。最初からそこに居る人にとって、今からするのは当たり前の行為でしかない。その境界を踏み越えることを堕落と感じるのだと、私は誰よりもよく知っていた。
そして、落ちていく事自体への恐怖や忌避があったとしても。落ちているその間の、宙から見下ろす景色、上へと流れ去る普段見えない様々なもの、地に足のつかない浮遊感や、頬に触れる空気の流れ。そして避けようもなく急速に近づいていく、深遠の底。私はどこへ居たって、その暗い闇の底を目の端に捉え続けていた。侮蔑と羨望の混ぜ合わさった感情を込めて、それを覗きこんでいた。どんな明るい場所でも、どんな高みに登る最中でも。それは遠くなればなるほど、明るくなればなるほど、深淵と闇を増していくのだった。
「私は男にも女にも恋愛感情を抱けない。ただ気持ちよくなりたいだけで、誰かの肌の温もりなんて求めていない。だから、なるべく……性器以外を触れさせないようにして」
お互い、前戯の必要もないくらいに身体の準備はできていて、なるべく触れる肌の面積を少なくするため寝そべったウサギの両脇に足裏をつけて、M字のような体勢で膝をつかない騎乗位をすることになった。奥に辿り着くまでに一度痛みを覚える引っ掛かりがあって、ゆっくりと息を吐きながら重力に任せるようにして身体を落とした。奥深くまで突き上げられて大きな楕円を描くように下半身を動かしながら、接合部の縁にある赤い突端をウサギの生白い右手で小刻みに擦られる。普段の自慰でしているのと同じ刺激で膣の奥が収縮し、それが挿入っているものを一層強く締め付けた快感で足がガクガクと小刻みに震える。
「筋肉なさそうだし、やりなれてないと疲れるだろ、代わるよ」
何処か遠くで、ウサギの声が聞こえた気がした。そして直前までウサギが寝そべっていた湿気の残るベッドに押し倒されて、自分の部屋の寝室と同じ匂いがする暗い室内にあまり実感が沸かないなと思っていた。上になっていた間も、終盤では身体の力が抜けて自分では動けなくなっていて、心臓の飛び出しそうな動悸に合わせてカラカラに乾いた喉がずっと鳴っていた。自分でするのと違うのは絶頂に近づこうが通り過ぎようが止めてもらえないことで、涎まみれの枕に顔を押し付けて視界が三度目に真っ白になったところで、ウサギがそれに合わせるように射精したのが分かった。子を為す機能を最初から持てなかったウサギのものが吐き出されて、有栖は全身の小さな震えが止まらないまま顔だけを上げた。
ウサギは愛液まみれの手を、指をこすり合わせて糸を引かせた後、なんでもないことのように舐め取った。自分が出したものを口に含まれたり取り扱われることには何か、経験したことのない不思議な感覚があった。同じベッドに少しだけ距離を置いてウサギが横になる、有栖は行為後の汗ばんだ胸板へと頬を押し付ける。生暖かくヌルヌルとしていて、こんなに気持ちが悪いものを他の人間は何故求めるのだろうと不思議に思った。薬のせいで自制が効かなくなって、とめどなく今まで考えたこともなかったような言葉を吐き出し続けていた。
「私はあなたが憎い、あなただけじゃない世界のあらゆる存在を憎んでいる。殺したい、ぐちゃぐちゃにしたい。憎い。憎い。殺したい。憎い。親も今までの同級生も『不思議の国』の人たちも、全部全部壊したい。憎い。多分いくつかは……壊してきた」
何かを言おうとしたウサギに覆い被さるようにして、両手で彼の首と口元を抑える。さっきまでとは別の、心臓を吐き出しそうな嫌な熱と動悸が全身を脈打たせていた。それは今までにも何度か経験したことだった。自分の秘めていた何もかもを曝け出してしまった相手に対して、理由のない巨大な憎悪が沸き上がってくる。人前で泣いてしまったりしたら、きっと見られた相手を絶対に殺そうとさえ思ってしまうだろう、それほどの憎悪だった。どうしてか分からないし、考えようとしたこともなかったけれど、そうしないと生きることができなかった。
「同情なんて始めから必要としていないから。私が苦しんでるのは事実で、それを口にすることで何かをして欲しいとも思ってないから、あなたは面倒ごとを避けたいがために私の苦しみについて何か言おうとはしないで」
社会の中で生きる人としての振る舞いの薄皮を隔てて、日常における様々な思考の裏側、今までに積み重ねてきた行為の動機の根幹に、ただ一つその憎悪という感情だけが棲み付いていた。誰かのことを知りたいと思ったり、誰かを愛そう愛されようとすると、その化け物が自分の中から鎌首をもたげる。そして化け物こそが本当の自分自身であり、生活を営んでいるのは上っ面の偽物でしかないことを思い出させられる。二足歩行する底なしの憎悪が人間の言葉を紡ぐ、過去の恐怖から身を守るための城壁に自らまでも囚われて、己の差し向けた憎悪の刃に自らの心臓を貫かれる。それが……きっと、今まで誰にも口にしたことのない本当の自分だった。
「これからも、沢山のものを失い続けていく……呪いじゃない」ウサギは慰めでも救いでもなく、寄り添うこともなく、そう一言だけ口にした。「最初から在ったものを認識することはできない。だからこそ生という曖昧な存在は、その明確な終焉である死によってのみ輪郭を顕にする」
その時ウサギ以外の誰も、白鳥有栖という人間が此処に居ることを知らなかった。私は壊れていくのだろう、静かに、静かに。誰にも知られずに破綻していく、そう誰にも 誰にも 誰にも 顧みられることなく。決して初めての経験ではなかった。こういう谷を何個か乗り越えて生きて、いつか乗り越えられない谷がきて、そういう風に自分の人生が終わることを知っている。だから焦っているし、急いでいる。
「どんな苦しみも喜びもいつか終わるなら、心配しないでいられる?」
私とウサギは鏡映しのように同じ姿勢で向かい合って、自分に語り掛けるように相手に語り掛けて、自分の声だと思って相手の言葉を聞いていた。
「今この瞬間、私とあなたは此処に居る」
最早、私達のどちらがその言葉を口にしたかさえ曖昧で、掠れていく自分の声と、遠くなっていく彼の声が、意識の中で混ざり合っていく。
「そう、此処に居たんだ、確かに俺は生きていた」
マタタビがまわり切って延々と視界が縦に回転し続けていて、身体の隅々までが萎えてしまって起き上がることさえ出来なくなっていた。何かにしがみつこうとして、椅子に前後逆向きに座るような格好でウサギの身体に抱きつきながら、
「それでもまだ、私は覚えている」
――私は、全力で奈落に飛び込む自分の残滓を、誰かに保管しておいてもらいたいだけなのかもしれない。
それが夢だったのか、外へと飛び出して幻覚を見ていたのかも定かではない。後で目を覚ませば私一人で元の仮眠室に寝ていて、着直したはずのバスローブが捲れて誰かに身体を触られた形跡があった。マタタビで曖昧になっていく『街』の景色の中に繰り出して、ウサギは私の写真を撮った。
『街』は普段の喧騒に満ちた人混みを失い、人類が滅びてから何百年も経過した後のように荒廃していた。折れた鉄塔、灯りの絶えた街を照らし出す太陽、商業施設も駅もその機能を失い、ただ場所だけが巨大な遺構として残される。あやとりのように入り組んだ電線も、もはや鳥の止まり木として以上の役目を果たすことは無く、人の絶えた大通りの中で黄金色の斜陽だけが二人を見下している。
「人と時を共にして触れ合うことを幸せだと思うことは今後一生無いと思うけど、こうやって誰かに今の自分を覚えておいてもらいたい……自身の生きる世界に私という存在を取り込んだ後のあなたが見たいって感情も、人が人に近づこうとする原動力の一つなのかもしれない」
きっと栄えていく何もかもが、それが滅びた時の美しさのためだけに栄華を積み上げていくのだ。朽ちてひび割れたアスファルトから木々が根を張り、倒壊していくビルの土煙で空が染められる光景を思い描く。自然の産物はただ循環しているに過ぎなくて、この世でヒトの営為だけが滅びてゆくことができる。そして滅びという形でのみ、そこに生きた証を残すことができるのだ。やがて骸となり大地に還る動物には決して真似する事の出来ない、意味を失った後も残り続ける残骸として。
「あなたが誰かを気にかけるように、誰かの話をするように、その誰かが私である瞬間が少しでもあれば良い。自己本位であるが故に他者への憎悪とも両立する、それが私たちの抱ける、ただ一つの世界への愛情……私を知って、あなたは変わった?」
「何一つとして、同じままでなんて居られない。何が変わらなくて、何が同じで居られないのか。それを決めつける権利なんて誰にもない」
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