鋼の森の有栖『嵐の季節』

「異種族の耳の移植というのは随分昔から可能だったんだ」

 まるで人面瘡のごとく背中から人間の耳を生やした無毛の(ネイキッド)マウスの映像が、『イモムシ博士』の声に合わせてプロジェクターに映し出される。有栖はそれを見てチェシャの三角耳のことを思い出していた。


「このように吸収性ポリエステル組織に軟骨細胞を染み込ませて免疫不全ネイキッドマウスの皮膚下に移植する実験が、万能細胞が発見するより遥か昔の西暦2000年前後には成功していた。無論これらは本来の機能を持たない見た目だけのもので、獣人たちも元の人間の耳によって聴音を行っているんだがね」

 こちらを見据えるカメラとプロジェクター、それに音声スピーカーとそれぞれの机に備え付けられたONOFF可能なマイクだけがセミナー生にとっての『イモムシ博士』の姿だった。名前の由来は肥満体だからとも、童話の『不思議の国のアリス』に出てくるイモムシ博士のような奇妙な語り口だからとも言われていて、その本当の姿を誰に知られずとも『街』を今のようにする構想の最初期から携わり、技術的な方面に多大な功績を残したとされる碩学せきがくとして『街』の大学の教授職に就いているらしい。

 彼は自分の肉声すらも明かす気がないらしく、講義は音声認識ソフトによってテキスト化した博士の言葉を読み上げソフトによって発声させるという回りくどい方法によって行われ、その内容は『街』を実験場として得られた心理学的な知見、つまり獣人などを対象として肉体が精神に与える影響を調べたり、『街』という特殊な環境で育った者に見られる精神的特徴について扱うものだった。


「サイバネティクスを使用した尻尾が技術的に可能となったのは最近のことだし、『街』という場が現れるまで性産業目的で獣人種を作り出す人体実験への倫理的障害もあった。しかし社会の損にならない違法なものを、誰からも取り上げさせないための建前というものが昔から『街』には用意されている。ある種の自発的な整形手術、ピアスや刺青の仲間として行われ、ただそれを望む者のほとんどが性産業従事者であったというだけのこと。そして実際に彼女達の客入りは非常に良くなり、そして生まれた子達を自分と同じ手術をした理由を、同じ職に就かせるためだと誰が断ずることができよう?それが街において『獣人』と呼ばれる者たちの始まりだった」


 『街』は仲居と自由恋愛を行える料亭として巨大な遊郭を残している一角を最南端として、ホームレスへの福祉が充実したがために他県よそから片道切符を渡され廃棄物処理的に押し込まれた浮浪者によって巨大なスラムとなったという地区、昭和から続くアンダーグラウンド的文化を未だ色濃く残した『不思議の国』に連なる一角と、最新の若者文化と風俗街と薬物売買が横行する北の一角といった無節操に生まれた小世界が集まることで生まれ、やがて一種の秩序ある無法地帯となったのだ。『街』という存在は、理念よりも実利的な理由から黙認されているのが正しかった。

「『自分が許せないこと』を『世間が許さないこと』へと変えてゆく倫理性コレクトネスの先にある管理社会への恐れから『街』は生まれた。人権主義者の主張する弱者の権利というものが、正当性を盾に行われる新たな形の鬱憤晴らしであることに誰もが勘付いていたのだよ」

 その授業があったのは二月頃で暖かくなるには少し早く、授業設備と比べて安物の温熱ストーブの効きの悪さを腹立たしく思う数少ない時期のことだった。ここ最近の有栖には毎日一時か二時頃に起きて、そのまま『不思議の国』の最寄り駅へ向かう電車に飛び乗る日々が続いていた。一時を過ぎた頃が良いのは昼休みに出歩くサークルの知り合いと顔を合わせずに済むのと、そもそも夜更けまで『不思議の国』に居るせいで午前中に起きれなかったからだ。人に見られることが嫌なら、学校から近い場所に下宿を取るのも考えものだと有栖は思った。

 今日は『不思議の国』の中にある、開いている日の方が少ない不定期営業の店で、一年に一回だけ桃のサングリアを漬けている日だと聞いていた。だから夜十一時頃に店が開けられるまでの間、夕食がてら『銀狼』というラクダの肉や鰐足の揚げ肉、ウーパールーパーや甲虫の幼虫といった奇妙な食事ばかりがメニューにある料理店に行った。そして新たな刺青を入れて間もない血の滲んだ包帯を巻いた手で店長が出した猪肉料理を、常連客がアマゾン産の珍しい多肉植物を栽培している話を聞きながら電気ブランのジンジャーエール割りと一緒に食べたりしている時に、店の隅っこに居たウサギが有栖に声をかけたのだ。

「こんな場所にばっか来てないで勉強しろよ」

 それは『今日は寒いですね』と変わらないような、ただの当たり障りのない言葉に過ぎなかったけれど、有栖は彼が話しかけるための話題を探していたのが分かった。「チェシャは?」と有栖が訊くと、ウサギは「あいつはここ以外にも色々な場所に知り合いが居るから」と言った。それから自然と、ウサギとの衝撃的な邂逅を果たした時の話になった。有栖は次にウサギと二人きりで話す機会があったら、出会った日のことを聞いてみようと決めていたのだ。そして先輩としていた話について、サークルの人間に浅い感想を言われるために書いてるんじゃない、と有栖が口にした時、ウサギは「じゃあ、何のために?」と尋ねてきた。

「私のために書いてるの。目的なんてない、吐き出さないと生きていけないから」

 有栖がそれを言ってしまったのは酒のせいだったけれど、この時に口を滑らせなければ本当の意味でウサギを本当の意味で知ることもなかっただろう。ウサギがタブレットの画面に映し出したのは、大手の動画サイトにアップロードされた何の変哲もないミュージックビデオだった。大した閲覧数がついてるわけではないが、決して少なくもない。

 タブレットに自前のイヤホンを刺すよう言ってから、ウサギは「最初あんたと会う前に作ってたものなんだ。それで作り終わったら急に、いろいろ無理になったから、吐いた」とガラムを取り出して火を点けた。往々にしてウサギは自分の体力と心の限界というものを視野に入れずに動き続ける性向があり、そして後先考えない行動の結果として許容量を超えてしまうのだと有栖が知るのは、もう少し後のことだった。


「まだ人には見せたくないんだ、多分あんたと同じ理由で……感想なんて貰わなくてもいい、何もかもを変えれるようになるまでは、自分の身体に根差した名前でそれを出したくない」

 何の話を、と問い返そうとした有栖の耳元で音楽が始まり、そしてビデオのタイトルが黒塗りの画面に映し出される――『嵐の季節』と。そしてウサギの口元で爆ぜたガラムの甘ったるい煙が鼻先に忍び込んで我に返るまでの間、その映像に有栖は呼吸を忘れるほどに見入っていた。紫煙が立ち上っていく知らない部屋の映像と共に始まったのは、ほとんど暴力的といっていい、激しくて真っ黒な音色の濁流だった。

 十数個の楽器のみならず、人の話し声や雨音に車の走り抜ける環境音のようなものまでが切り貼りされて一つの音楽を呈している。その中に極稀に、土砂降りの雨雲の隙間から差し込む陽光や、ドブ川の底に煌めく一粒の砂金のように荘厳な音の断片が混じりこむ。

「音や匂いに手触りに、カメラを持った人間の生きていた瞬間が写り込んでるような写真が撮りたいんだ。良い性能のカメラを使っただけじゃ写実的なものしか生まれない、あんたも文章を書いてるなら分かるんじゃないか?俺は映像も音楽も同じように作っているから、そう思うんだ」

 そしてウサギは喉につっかえている大きな感情の塊を吐き出すような寡黙さと口早さが同居した自分の言葉を恥じるように「こんな話、他の誰にもしたことなかったけどさ」と笑った。

「『お茶会』で流れていた映像も、あなたが作ったもの?動画も、音楽も」

 有栖は前に『お茶会』で不思議な音楽とともに、夜明け前の人通りが絶えた『曙光の架け橋』の映像が映し出されていたのを思い出していた。そしてウサギは肩をすくめて頷いた。

「そう、ハートの女王には仕事先で見つけた映像って言って渡したんだ」

 もともと『曙光の架け橋』は大震災後の復興にあたって最初にかけられた橋で、復興の願いを込めて『曙光』の名を冠されたという。しかし再開発における権利問題で無数の政治的思惑の錯綜に巨大企業や暴力団体の暗躍があり、『イカれ帽子屋』と呼ばれる者が最初の橋を架ける権利を得るまでに多くの血が流れた。

 そして確かに復興はなされ前とは比べ物にならないほどの規模となったその都市は、けれど夜中にこそ栄える自由と悪徳の街となっていたのだ。そんな『曙光の架橋』にまつわる血生臭い歴史を知る者は多くはなくて、有栖が知ったのも高校時代に時間潰しの一つであるネットのアングラサイト巡りで見つけたような眉唾ものの噂だけだ。けれど、そんな噂でさえも真実味を帯びるほど外の人間にとって『街』とは何もかもが存在する混沌の吹き溜まりだったのだ。


 そこは失われた自由が今も息づいている犯罪都市、小奇麗であることから解放された大都会、目も眩むような悪の巣窟で、大金持ちも犯罪者も同じ雑踏の中を歩いていて、彼らと自分を隔てる柵なんて何もない。決して交わらないような世界に生きる人種が些細な切っ掛けで出会ってしまうことがある魔境だからこそ、不思議な出会いを求めて『街』には人が吸い寄せられていく。そんな『街』の中でも異端である彼ら自身のことを、ウサギは『彷徨い歩くもの《ワンダラー》』と呼んだ。

「俺たちは『街』の中で生まれたんだ。そして身体を売るために『街』の技術で美麗な姿に改造されて、マタタビと呼ばれる薬物の売人として『街』を徘徊wonderして暮らしている」

 様々な文化の発信地でもある有名ブランドやセレクトショップが立ち並び、田舎の人間が憧れる有名大学や流行の最先端としての姿を『街』の表側とした時、その裏側に彼らは息づいている。ごく稀に『街』での半生で育んだ独特の感性や美麗な姿を活かして俳優業や創作活動によって才を花咲かせる者も居るが、多くは自殺や病気などによって長く生きることはない。免疫不全などの遺伝的弱者が多いらしいアルビノの真っ白な指で、ウサギは有栖の方を見ずに映像を流し終えたタブレットの画面を指差した。

「この中にさ、あんたが欲しいんだ」

 『街』の南にはかつてエッフェル塔を模して作られ震災後に二本目が建て直されたというランドマークタワーがあり、その麓に広がるスラム街では定期的にアマチュア相撲大会が行われる。そこで女流相撲取りを兼業している無口なレスラーの店主の前で、有栖は白ワインで作られた桃のサングリアを呑みながら返す言葉を探していた。生まれて初めて人間として見てしまった相手と、どんな風に話せばいいのか分からなかったのだ。

「ちょっと待って……意味が分からない、どうして私なの」

 有栖のしどろもどろな質問に、ウサギは笑って答えた。

「手伝ってほしいってことだよ、被写体として。見たことない相手だから、今までと違うものが撮れるかもしれないだろ」

 それまで有栖は外見や表向きの振る舞いだけによって作られた、本の背表紙に過ぎないようなものを他人という存在だと思っていた。言葉を交わすだけで相手の内面を知れるまでに要する期間は有栖が特定のものに対して興味を持ち続けられるよりも長く、有栖にとって『街』の雑踏とは決して手に取ることのない本の背表紙だけが並ぶ図書館のようなものだった。そしてウサギが作品という言語を越えたものによって曝け出した臓腑の内側には、自分と決して相容れないものが沢山詰め込まれていた。

 ただ一つの有栖とウサギの共通点は、その後も何度かウサギが口にした「今まで目にしたことのないものを見て、経験したことのないものに触れるのが好きなんだ」という言葉だった。それは決して好奇心や未知への愛情なんかではなく、今まで触れてきた物事の何一つとして自分が愛せなかったからこそ、まだ見ぬものに希望を託しているということだ。だからウサギも自身とは全く交わることのない日常を送る有栖に、隠すことなく映像を見せたのだろうと、後になって有栖は思い返すことになる。

「でも……」と言い淀む有栖を前に、ウサギは腰の目立たないポーチから小さなカメラを取り出した。恐らくは携行性のために性能を犠牲にしたような見た目のそれが、ウサギが映像を作るための道具の一つだった。

「ただ風景の中に在ってくれればそれを好きに写すだけで、服を脱がせたり手を出したりとかはしない、そっちが時間の空いてる時に『不思議の国』に来てくれればその時に撮るからさ」

 返答を考えながら有栖はウサギの写真のカメラロールを見ていた。ウサギは『街』の道端や橋の下、植物や建物と様々なものを撮っていたけれど全てがヒトの居ない景色で、有栖は大学に入って『街』の下宿に引っ越すために新幹線に乗った時のことを思い出した。窓の外には二時間もの間、決して訪れることのない街の風景が過ぎ去っていく。誰も居ない風景の中でも視座の主である自分だけは存在する、誰も居ない風景を撮ることは風景の中に立つ自身を撮ることでもある。たった一つだけカメラロールの中に紛れ込んでいた人間は、ウサギと初めて出会った日に吐瀉物を被った先輩の隣で呆然とこちらを見上げている有栖の姿だった。

「……こういう写真なら良いわ、手伝ってあげる」

 有栖は白ワインに漬されていた白桃の果実を飲み込んで、からからに乾いた口の中を潤した。

「その代わり、私も頼みたいことがある。あなたが写真を撮って、これを作っているところを見せて」

 有栖はウサギがこの映像を生み出したバックボーンを、何を考えてこの作品を作り、何故そのように考えるに至ったかという、辿ってきた人生や価値観のことを知りたかった。「分からないから、知りたいと思う。その気持ちはバイト代のどんな端金よりも大切なものなの、私にとって」人は互いが理解し合えないと分かっている関係でなければ、どちらかが自分を偽って相手に合わせることで衝突を避けて仮初めの友好を保とうとする。けれど異質な相手を理解できないままに見つめようとすれば、自分の中の全てをぶつけることでしか対話は生まれない。そしてウサギは『不思議の国』でなければ出会わなかったような、価値観も生き方も交わらない異世界に生きる住人だった。

「じゃあ、あんたが求めてるのはさ……受容されたり理解し合うことじゃなくて、その逆なんだな?」

「そうね。私は私自身に触れることはできても、私に一方的に触れられることはできないから」

 どんな喜びも苦難も共に味わい乗り越え、どれだけ変わり続けても決して見捨てられずにいる『自分自身』という存在から唯一手に入れられないのは、容易く出会い容易く別れ、決してその全てを理解できず、望まぬ方へと去ってしまうことだ。「それと……」と、一息に胸の内を語ってしまった後、有栖はふっと緊張を解いてウサギにもう一つ頼み事をした。

「今持ち合わせがないから、煙草を分けてくれない?」

 初めて自分の部屋の外で煙草を吸ったその日を境に、有栖は『不思議の国』でウサギに会うたびに連れだって『街』を歩くようになった。ウサギは有栖にポーズをとらせたり構図を考えたりすることもなく、二人で言葉少なに『街』を歩き続ける中で不意にカメラを取り出しては有栖にシャッターを切った。ウサギと初めて会った日に隠し撮りされた写真と同じように、有栖はスナップショットの景色の一部としてだけ扱われた。そしてウサギとの奇妙な逢瀬の中で、有栖もまた彼が最初に見せた映像を手稿に書き起こしたものに同じ『嵐の季節』という表題を付けた。ウサギは音楽とファインダー越しに、有栖は文字の羅列と物語を通して、決して見ることのできず、言い表すことのできない同じものを描き出そうとしていた。それが決して交わらないはずの二人が同じ煙草を吸うような、ほんの微かな共通点でしかないとしても。


”舌がぴりぴりと痺れて感覚がなくなるまで 行き場のない燻りを煙草の火に換えて

この世にあるもの全部 湿っていなければ、火をつければ燃える

みんな忘れているだけで きっと人間だって同じだ

私の内側で燻るこの嵐 ぱちぱちと火花を立てながら燃えるタールの重い煙草 火が付いたら灰になるまで燃えるだけ

どうすればその嵐を外に追い出してしまえるのか ずっと分からないまま

私は貧乏揺すりが止まらない子だとよく怒られていた

座り続けていることが苦痛で、ふとした瞬間に叫びだしてしまいそうな

そういう時は一人きりになれる場所を探す 下宿の中で 『街』の中で

胸が苦しい 言葉でないものが胸の中で荒れ狂っている

その『発作』は月に一度くらい 身体のそれと別の周期で起こる生理のようなもので

その度に私は煙草を吸いながら 経血のように見るに耐えない文章をしたためる

それが自分の知る たった一つの『嵐』を外に追い出してしまう方法だった

そして嵐を 臓腑で燻る炎を外に追い出してしまったとしても 決して楽になることはなく

茫漠とした徒労感 虚脱感を抱えたまま 講義やバイトに出かける

気休め程度に牛乳を飲んで歯を磨き 昼休みが明ける前に服を着替えて”


「……俺に音楽の作り方を教えてくれたやつはさ、梟人の女だったんだけど仲間内では古本屋って呼ばれてた。絶版の本ばっかり集めて家の壁中を本棚にしても足りなくなって積み上げてあったからさ。そいつも趣味で小説を書いてたみたいだったし、多分あんたも会ったら気が合ったんだろうな」

 ウサギが有栖の身体を作品のために使ったように、有栖はウサギ自身の言葉でウサギの生きる世界を知ろうとしていた。その日有栖は紅の夕空を貫く大通りに連なる信号機が一斉に赤に灯る景色の一部として撮られた後、普段歩かない道を通って廃屋の一室へと案内された。

「……それが、この場所?」

 そこは見渡す限りに焼け落ちた壁紙から露出する灰緑のコンクリと、焦げて破れた本の山で埋め尽くされた床にスチール製の無骨な本棚が倒れているばかりだった。窓際に転がるラムネ菓子の空容器と、幾つかの罅割れたビー玉が、書籍の残骸以外でかつての持ち主の生活を感じさせた唯一のものだった。熱された後急に冷やされたビー玉は、内部にたくさんの罅割れが生まれることで多くの断面から光を反射させて美しく煌めいて見える。その一つを有栖が手に取ろうとすると、砂のように崩れて無数の光の断片として散らばってしまった。

「そう、俺が借りてた数冊以外全部、自分ごと燃やしちまったんだ。排ガスに弱くて防毒マスクなしでは外にも出られなかったし、大学を出たのに自分ができる職が見つからなかったって言ってたけど別にそれが理由じゃなかったんだろうな。理由なんて無かったんだろうな、ただ一つずつ奪われて行って一つずつ夢を失っていって少しずつ生きていたくないって思うようになって、俺さもう少しあいつから本借りときゃ良かったって後悔してるよ」

 まるで特撮の怪人のような見た目をした煤けた防毒マスク、そして洗いざらしのシャツと微かに焦げた黒い外套を有栖が身に纏うと、「あんた思った通り、服のサイズもあいつと大体一緒なんだな」と笑ってウサギは焼け焦げた書物の墓場でカメラを構えた。

「古本屋は幻聴がひどくなってた頃に“クソでかい終わりの音が聞こえるの、ウサギだったら曲にできたよね”って言ったことがあった。そんなもの残して何になるんだ、って俺は聞いたんだ。“『夜と霧』を読んだことがある?”とあいつは答えた。“悲惨な状況を生き延びた人が、何故辛い記憶を掘り起こしてまで作品を残そうとするのか。わたしには最後まで分からなかった”ってさ」

 一眼レフの電子的でない、物理的にシャッターをきる音が響く中、有栖は防毒マスク越しに書籍を焼いた炎の残り香を嗅ぎ取ろうとした。その場に広がる無音に耳を澄ませてカメラを構えるウサギの全身は張り詰めていて、多くの人が生活に馴染む中で幼さと共に失っていく抜き身の感性がそこにはあった。その時撮られた写真は冬の空みたいに冷たく澄んだ感情だけが克明に映し出されていて、何もかも失った真夜中に猫を抱いてるような寂しい優しさに満ちていた。

「……あなたの写真も、撮っている姿も美しいけれど、それを見続けたいと思うのは私のエゴでしかない。あなたが撮り続ける理由は、それと全く交わらないところにあるんでしょう?」

 その後もウサギは自分のことを話す時に『不思議の国』の店を使うのを嫌った。かつて精神病棟として扱われていた廃病院の無数のベッド、後は朽ちてゆくだけの空の刑務所の中にウサギと有栖は幾度となく忍び込んだ。そこにあったのは、過ぎ去っていく無数の人間が何も残さなかったことの証左だ。

「俺を『不思議の国』に誘ってくれたのもチェシャだったんだ。あいつは誰とだって分け隔てなく話すし、いろんな場所へと連れて行ってくれる。あいつは自分が今どれだけ苦しいんだとしても、それを表に出すことは決してない。ある意味じゃ俺たちはみんな同じなんだろうな、写真だろうが人とのコミュニケーションだろうが。それをやるのは今の場所から助けてほしいからでも、生き延びた自分をちやほやして欲しいからでもない」

 少し遠くまで行った時は『街』の電車を使って『不思議の国』まで戻ってから解散した。そこではウサギがカメラに収めた風景たちが過ぎ去り、有栖もまた束の間言葉を失い二つの孤独として立ち竦む。休むことなく回り続ける『街』の環状線が墓地地帯の前を通り過ぎる瞬間、決して読み取れない墓碑銘が無数に通り過ぎていく。

「……無かったことにされたくないからだ。俺たちが生きていたこと、ここに居たこと。誰かが記録しなければ、やがて時の流れが何もかもを消し去ってしまうから」


 ウサギの撮影に付き合い始めて学年が一つ上がる頃、有栖は元から自由参加だったサークル活動にはほとんど足を運ばなくなり、必然サークルメンバーとの必要最低限の交流さえも保てないようになっていた。何より『不思議の国』という理想の居場所を見つけてしまった今、間に合わせの居場所を保ち続けることに何ら魅力を見出せなくなってしまったのも理由の一つだった。

「確かな目的もなく、同じ生活を続けるのが本当に嫌なんです。もともと地元を出るためだけに『街』の大学に入ろうと努力してたような人間に、興味のない科目の単位を取り続けて意味のない人間関係を維持する努力なんてできるわけがなかったんですよ」

「でもねえ仕事始めるとそうも言ってられないわよ、好きでもない相手に尻尾振りたくないなんて」

 ハートの女王のお決まりらしい言い回しに、有栖が座る二つ隣のカウンター席の犬人の女が笑った。もう有栖は随分とこの『不思議の国』という場所に馴染んでしまって、大学生だと珍しがられることも少なくなっていた。

 ウサギが撮影用にくれたものを普段着にした中性的な白いロングシャツと、インナーシャツと同じ黒色の麻ズボンをあわせた出で立ちから本当の年齢よりも上に見られていたのもあったかもしれない。反面たまに顔を合わせる大学の知り合いからかけられる『お洒落になったね』という言葉は、周りから浮いた格好をしていることを遠回しに伝えているようにも聞こえたし、事実として身体に染み付いた煙草の匂いが昼間も隠しきれないほどに濃くなっていくのは有栖自身も分かっていた。

「別にね、好きなことだけして生きていたいとかじゃなくて、やりたいことのためならどんな嫌なことも我慢するし努力だってします。でも知っている景色を見続けて知っている動作を繰り返すだけなんて、」ひび割れた唇にマティーニが沁みる、有栖はオペラシューズを履いた脚を揺らして、酒で火照った頬を冷たい銀細工のバングルに押し付けた。「マスターが羨ましい。私も一つの事だけのために努力していても生きていける場所で、余すことなく自分であり続けられる生き方ができたら良いのに」

「それもそうかもしれないわね」とハートの女王は笑う。

 『不思議の国』を知ってからまだ日が浅すぎた有栖は、『オカマ』という肩書きから自分にとって的確なアドバイスをくれるようなイメージを根拠もなく抱いていた。男の相手のように性欲の対象とされることも、女の相手のように嫉妬や虚栄や過剰な繋がりに巻き込まれることもないと安心していたから思ったことを隠さず喋って、裏返せば相手にとって自らが何の価値もない存在であるということなど考えもしなかったのだ。

「アタシもねぇ今でも十分充実してるけど、ここで広げた音楽関係の人脈を使って大きなことをやりたいと思ってるの……それで本業に専念したいから、今月いっぱいでこのお店は一旦閉めることにしたの」

 たしかハートの女王は、そんなことを言ったはずだ。有栖からしたら急な話だったけれど、もう大分前から決まっていたような口ぶりで、やりたいことに挑戦するために店を閉めるという前向きな話し方から、それ以上の経緯いきさつについて聞くことはできなかった。ハートの女王は「また時間できたらBARも開きたいわね、早ければ三か月後くらい?次に開ける店は、ライブイベント開く時にもっと人が集まれるような、大きなハコにしたいわ」と犬人の女と言葉を交わしている。後々になって思い返せば業界用語交じりの彼の言葉を半分も覚えていなかったし、彼の言う『大きなこと』が何かも分からないままだった。

「あんたは、ここみたいな『閉じた輪』を見つけると良いわ」

 後から思い出せばハートの女王はとても接客に長けた人間で、有栖のような人種にとって居心地のいい振る舞い方も心得ていたのだろう。次の店が開いたら教えるからと連絡先を交換した後も晴れない有栖の表情を見て、彼は言ったのだ。

「誰にでも戸口を開くわけでなくて、そして自分から人を呼び寄せようともしない小さな世界のことよ。そういう『街』の流行り廃れの波からも取り残された誰も知らない場所へと辿り着くことができるのは、誰もが知ってるポピュラーな場所の中から閉じられた場所への入り口を見つけて、その閉じられた場所に居る人と親しくなって彼らが所属してる小さな界隈へ、その小さな界隈から自分の知らない文化へ、そして新しく知った文化から親しくなれる人を見つけていくことができる人間だけよ。派手に広告を打ち出したりネットで存在を示すことで人を呼び寄せようとすることで何もかもが大衆化して『開いている』時代だからこそ、そこに辿り着くことができる人しか知ることもないような『閉じた輪』には珍しい人が集まるし、他にはない稀少な出会いがあったりするものよ」

 ハートの女王の語った中で少なくとも『閉じられた輪』という言葉だけは、当時の有栖が胸の内に抱いていた曖昧な概念を上手く落とし込んでいるものだった。そして有栖は時が流れてからも閉じられた輪を意識する時、いつも『不思議の国』という場所のことを思い出した。

 例えば自分が小説家になって、ハートの女王のように『不思議の国』に店を持つことができたのなら。そこに集まる感性や考え方の近い人との会話から得たことを創作に活かして、また夢を目指して進む人間と志を語り合うような繋がりの中でなら、自分は誰かを愛することができるんじゃないかと、そんな夢物語にさえ有栖は期待していたのかもしれない。それが空想でしかなかったとしても、その『不思議の国』の住人となった先に何かがあると有栖は信じていた。そして何も見出せない今の日常から去ることに、既に寸分の躊躇いも無くなっていた。

「『不思議の国』が建った頃から続いてる店なんて、もう此処くらいしか残っとらんくなったなぁ。そういやお姉さん、この辺の飲み屋は他どの店行ってはるんですか?」

 ウサギと一緒に白桃のサングリアを飲んだ『BAR素戔嗚』の女流レスラーの店長が、開店すぐに入って一人で飲んでいた有栖に言った。『お茶会』が店中が一杯になるイベントと共に最後の営業を終わらせて、一週間ほどが経っていた。

「前までは『お茶会』によく行ってたんですけど、あそこの店長がもっと音楽イベントに専念できるような大きな箱を探したいから此処の店は閉めるって」

 有栖は今まで、他の店で『お茶会』の話をすることはなかった。むしろ『不思議の国』というより『お茶会』に通っているようなもので、別の店にはウサギと話すために訪れているようなものだったからだ。

「ああハートの女王さんとこ?あれビルのオーナーとモメて追い出されたんよ。確か不法投棄とかのトラブルやったかな、『不思議の国』の共用ゴミ出し所に時間外に粗大ゴミ出しに行くのが監視カメラに映ってたとかで」

 有栖は決して取り乱したり、それを否定しようとむきになることはなかった。ただ話している店長のなんでもない、閉店した後だから近所付き合いを考えて口を閉ざさなくてもよくなった他の店についての、笑える裏話の聴き手としての素振り以外を見せないようにしていた。

「あの店長さぁ店に来る男の子のこと引くくらい口説いてたん知ってる?彼女連れとかでも見境なしで、しかも結構食って囲ってたらしいしさ」

 『お茶会』の常連であるウサギが、自分のことを話す時に『不思議の国』の店を使うのを嫌っていたのが有栖の頭をよぎった。

「その……食ってた、ていうのは誰から聞いたんですか」

「ああ『お茶会』にもウチにもよく来てる子。こっちの店に来てた時に冗談でカマかけてみたら、ええーなんで知ってはるんですか?ってマジやったみたいで驚いたんやわ。男の子もそうやけど、歳いったオバハンの客も面倒なおっさんが多くて、なんか外で怒鳴り合いが聞こえると思ったらあの店だったりとか多くてなぁ。あの人の本業お水の斡旋やから仕事繋がりで来はるガラ悪い獣人のお客も多かったし」

 そこまで店主が言ったところで、ドア縁に付けられた鈴が鳴る。友人関係らしい美容師の客が入ってから店主は完全にそちらとの話に入ってしまって、話に混ざる余地もなく有栖は勘定を済ませて席を立った。それから『不思議の国』で幾つもの店に足を運んだけれど、新しい店は内装こそ洒落ていても若い人同士での安易な繋がりを求めるサークルと似た安っぽい雰囲気で、綺麗な女性が店番を務める店では冴えない容貌をした囲いの男たちが口説きに回っているだけ、昔ながらの雰囲気を残した場所は固定の客たちが井戸端会議を開いているばかりで、有栖が求めているような店はどこにもなかった。

 それは後から思い返せば閉店した『お茶会』が特別だったわけではなくて、ただ何もかもを愛せない有栖が、目新しさを失った彼らの欠点ばかりに目が行くようになった、必然の結果に過ぎなかった。どんなに刺激的な非日常でもやがて日常に堕していく、さながら触れたもの全てを命なき黄金に換えてしまうミダス王のように、人は新たなるものに触れた時点でそれを既知のものに変えてしまうのだ。


 そして『不思議の国』に飲みに行くことが少なくなってから、下宿で飲む酒の量が増えた。それもビールやハイボールといったみたいな可愛いものではなく、冷凍庫で冷やしたウォッカのストレートだったりジンをドライベルモットで雑に割ったものだったりの空き瓶が、ゴミ出しの頻度を優に超えて台所の棚や電子レンジの上に堆く積み上がっていくのだ。殺風景なりに整頓されていた、誰も入れたことのない自分の城が荒廃していく様を、有栖は何処か他人事のように見つめていた。


「久しぶり、ちょっと痩せた?」

 有栖が昼時の『不思議の国』に訪れたのはその日が初めてで、建物の外の喧騒が嘘のように全ての店が閉ざされ、しんとした冷たい静寂だけがそこに残されていた。外見を取り繕うため外では吸わないようにしていた煙草を鞄のポーチの中から取り出して火をつけた後、話しかけられるまで自分以外の人間がそこに居ることには気付かなかった。

「『お茶会』のあったテナントに来月ガールズバーが入るんだってさ、それで必要な荷物回収しにきたんだ」

 ウサギが何故『お茶会』のテナントの鍵を持っていて、本業が風俗の斡旋で客の男を囲ってると悪評を聞いたハートの女王の店に、一人だけで荷物を撮りに来ているのかは聞かなかった。元からホストをするには人付き合いが下手で、学もなければ身体も強くない彼らのような人々が他人に媚びへつらう必要のない仕事なんて一つしかないのだ。今までもウサギは自分自身が今どんな仕事をしていて、どうやって生きているのかを口にすることはなかった。代わりに有栖は「今日、久しぶりにサークルに行ってきたの」と言った。

「行くところが無くなっても、じっとしてるのは嫌だったから。きっと時間が過ぎていくうちに行動の選択肢はどんどん狭まっていくから、私に残されてる時間は思ってるよりも少ないだろうし」

 新しく何かを始められる体力も自由にできる時間も、何よりも『若さ』が失われていく。平凡を嫌って周囲から背を向けて『不思議の国』に入れ込んでいた半年間の果てに、じゃあ自分には何が残されたんだろうか。少なくとも証明できるようなものは何一つとして見当たらなかった、残ったのは半年分の時間を無駄にしたという事実だけ。

「ねえウサギ、あなたは幾らで買えるの?」

 『同じ場所に立ち寄った』ことだけが有栖とウサギの接点だった。その場所が失われた後は、暮らす世界も趣味や考え方も共通しない彼と会い続ける理由も失われてしまうのだ。友達、だなんて馬鹿らしい。きっとそんな繋がることだけを目的とした繋がり方は、有栖自身が嫌になって壊してしまうだろう。ウサギは決して驚いた仕草も、幻滅したような様子も見せはしなかった。

「撮り足りない分がちょっとあるから、これから撮らせてくれたらそれでいいよ。よく効くマタタビもあるけど」

「そっちは幾らなの?」

「グラム3500円。室内栽培インドアのやつで、まあまあキマる」

「……まずは、一回分だけ」

 有栖はウサギが自分に頼み事をしてきた最初の時に、彼が何を考えていたかが何となくわかった。ウサギは有栖と同じで相手に興味なんて無かったし、そうしてくれるなら撮ったり金を出して抱かれてみたりもするけれど、別に断られてもどうでも良かったのだ。結局のところ彼も自分自身しか見ていないから相手に幻滅するはずもなくて、有栖だって抱かれている自分をもう一度見たかっただけに過ぎなかった。そして有栖は忘れてしまう前に、今この瞬間の気持ちを口にしてしまおうと思った。


「あなたのことは好きじゃなかったけど、嫌いでもなかった。でも、もしも私がこの世に存在する全てを殺したいくらい憎んでるとしたら、あなたへの感情は普通の人間にとっての好きってことと同じだったんじゃないかと思う」

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