鋼の森の有栖『不思議の国』

 あの日チェシャに連れられて訪れた『不思議の国』への道を、有栖は数年以上絶えて訪れなくなった後にも、その小規模なBARが立ち並ぶ一棟のビルというだけでは余りに言葉不足な奇妙な場所へと至る道程だけでなく、その道中の景色さえも目を閉じるだけで余すことなく鮮明に思い起こすことができた。そして有栖の日常を変えることになった切っ掛けであるチェシャの姿についても、彼女と交わしたとりとめのない会話についても。


 『街』には最低限の治安を守るための自治員こそ居るものの、しらみつぶしに犯罪を取り締まることを義務とする警察は居ない。それは最低限の自衛が義務付けられているということであり、有栖も『街』で暮らし始めてから長くは経たないうちに、日が落ちてから出歩いては行けない場所の空気を肌で感じられるようになっていた。歩いていると周辺の光量があからさまに下がる一線というものが都会にはあり、そして一線を越えた後も踵を返さなかったのは、有栖にとってこの日が初めてのことだった。

 そういう場所では新しい店が開いては潰れ、煌びやかなネオンの外装と同じくらいに、シャッターが降りっぱなしの灰色の廃墟が多い。もとから黒い道路のアスファルトも、吸い殻や潰れた空き缶に誰のものとも知れない手袋も、等しく饐えた夜の空気として暗闇に溶け込んでいる。高い場所にある店の電光板の灯りは届かず、足元を照らすのはコンビニから漏れる煌々とした輝きだけだが、道を歩くのに何の問題もなかった。普段通りに人が行き交うということは足元に穴は開いておらず、怪我人や死人も転がっていないということだ。

 そんな夜闇の中に溶け込んだかのように、チェシャと名乗った少女は化粧をせずに普通の服を着ていたら少年のようにも見える、小柄で痩せぎすな身体をレザーの服とどぎつい黒の化粧で際立てて、小振りな尻を揺らしながら有栖の前を歩いた。どこへ向かっているのかも、あとどれくらい歩くのかも有栖には分からなかったけれど、ひっきりなしにチェシャの方から話しかけてきたので、道中も決して退屈になることはなかった。そして第一印象で有栖がチェシャに抱いたような、そして普段夜の仕事を行う女性に抱いていたような表向きの気だるげな態度は、道中ですぐに覆ることになった。


「昨日ねシャチがさぁ」

「シャチって?」


 後日チェシャから聞いた話も纏めるとシャチは獣人の少女で、本来イルカとの遺伝子混合種であるが副次的に与えられた鋸歯の印象から『シャチ』と呼ばれているらしい。上半身はれっきとした人間のものであり、また『街』は哺乳類であるイルカの遺伝子を使うことで鱗などは持たないものの人魚の再現を容易にした。

 また本来の目的である性産業においても人魚人は一部の男性客から熱烈な支持を受けており、というのも海中において交尾を行う水棲哺乳類の膣は、雄に注ぎ込まれた精液を漏らさないため肉襞による極めて強い吸い付きと滑(ぬめ)りを持ち、どんな人間や他の哺乳類でも及びのつかない『名器』であるという。そしてチェシャの友人であるシャチは、地下での水槽を使った『人魚ショー』や会員制風俗での仕事をしていて、肺呼吸といえど街路を自由に歩けない身体のため休みの時は専らPCの前に居るらしい。


「ゲームでの友達来るからクラブのイベント行きたいってシャチ言っててあたしも付いてったんだけどさ終わったの四時くらいで、あたし達歩いて帰ればいいけどヒレだとほら遠いでしょ、それでシャチが彼氏?っていうかアッシー君?欲しいなって言ってさ、ほら帽子屋さんとこの人も仕事の時しか送り迎えしてくれないしさ、お金出しても駄目なんだって忙しいから。あたし言ったの、どうなのかな良いのかな?ってほら彼氏居たらそういうパーティとか一人で行かせてくれなさそうだし今の仕事できないじゃん?」

 先の方に金色のバングルを付けた黒い尻尾やかすかな街灯に反射してきらめく黒いラメ入りのマニキュアとつけた指先を動かして、チェシャは身振り手振りも交えながらとめどなく喋り続ける。話の内容と勢いに有栖は少しばかり圧倒されて、ようやく質問できるほどの平常心に戻った後も何から訊けば良いか言葉を探さなければならなかった。


「……それで、どうやって帰ったの?」

「んー?あぁ『不思議の国』近かったから空いてる店で昼まで雑魚寝して電車で帰ったの、保湿ズボン持ち歩いてて良かったってシャチ言ってた」

「『不思議の国』って?」

「今から行くところだよ」

 有栖の知らない人や固有名詞ばかりが飛び交う話の中で、向かう先を知ることができたのは収穫の一つだった。「それとチェシャ、その恰好って」「なに?」チェシャは厚底のブーツで気軽にガードレールの上やアーケードの屋根へと向かう高い段差を歩いたりしながら有栖の方を振り返る。「寒くないの?」「んー」有栖はチェシャの服の隙間から覗く色素の薄い背中や肩の肌を眺める。本当はどうしてそんな服を着るのか、と問いたかったけれど変に思われそうだったのでそう言い換えたのだ。

「普段こんなのばっかだし、寒いとか考えたことなかった」

「あ……そうなんだ」

 チェシャは服装から抱く印象よりは遥かに親しみやすく、そして何も考えていなかった。ただ周囲の影響から、そういう服を着ているだけなのだと有栖は思った。ポップミュージックを好む人間が己の感性からそれを選んだのではなく、普段から見ているミュージックランキングや友人グループの間で飛び交う話題から必然それに触れる機会が多かっただけであるのと同じように。夜の街の住人であることを示すような服装が有栖にとっては物珍しいものであっても、自分たちがそうであるようにチェシャの周りがそうしているから自然とそうしただけのこと。

 同時に、当たり前のように語る彼女自身の話が、自分の今まで送った日々との齟齬を大にしていて、彼女が別の世界の住人であることも再確認した。その世界における当たり前に従っているに過ぎない異世界の住人ということで、それでも有栖にとって最初からチェシャは『風俗嬢』ではなく『チェシャ』であった。同級生の名前すら覚えられず『先輩』や『あなた』という言葉を駆使して苦境を乗り切ってきた彼女にしては、極めて珍しいことだった。

 『曙光の橋』から幾らか南に歩いて、そして東の陽門通りに近づき始めた辺りで、有栖はどこか他人事のように今の自分の状況を見下ろして、フィクションでありふれた都会で騙されて夜の闇に沈められる田舎娘のようだと思った。けれど金に取られて困るほどの執着もなく、この身体も一度として己の好きなようにできたことなどなかったのだから、今更他人に好き勝手されることを恐れて足踏みするほどのものでもなかった。そして理屈で考えて選択した行動が、往々にして直感よりも良い結果を生み出さないという、有栖がこれまでの半生の中で培った経験に従ったまでのことだ。


「ほら、そこだよ」

とチェシャが指をさしたのは、そこそこ長い距離を歩いた脚と、頬骨近くの肌が乾いて痛くなってきたころだった。その建物は、予想に反して人々の行き交う表通りの一角に立っていた。屋上に電波の送受信塔か空調設備のある四角いビルは時代遅れの煉瓦造りで、『街』が生まれた大震災よりも前に建てられたと言われても信じてしまいそうだった。そして大きなビルだが、キャバレーやパチンコ屋のように広い入口は持たない。青と白のネオン菅で組まれた不愛想ともいえる看板だけが、この建物の捻りのない名を示していた――『不思議の国』と。

 その店の種別や顧客対象すらも示さない不愛想な建物の前を、行き交う人々もなんの疑問も持たずに通り過ぎていく。一人歩きの女性が男性向けの獣人クラブに入らないように、刺青まみれの堅気でない人間が『街』立の大学の敷地に足を踏み入れないように、自分に関係ない建物に関心をもたないのは当たり前のことなのだ。そして『不思議の国』のあったビルは今でも、とあるアーケードを抜けた通りの中に紛れて立っている。『街』に行ったことがある人は、知らずに前を通り過ぎたことがあるかもしれない。

 居酒屋が立ち並ぶのは『不思議の国』の建物の中、螺旋を描く外付けのスロープを伝って上った二階だ。そこは一階が空きテナントであるため一層廃ビルのように見えて、三階から上はホテルになっているらしい。かつて地下には最大手のキャバレーがあったが、バブル崩壊とともに店が畳まれた。その店の名前が『不思議の国』で、当時の看板に書かれた文言が今もそのまま建物の通名として使われている。

 その名残として外付けのスロープの内側の吹き抜けを見下ろすと、かつて一階から地階の吹き抜けへと流れ落ちていた人工滝の残骸らしきコンクリの水溜まりが残っている。チェシャと一緒に螺旋のスロープを上って建物の二階に入っていく時に、道行く人から奇妙に思う視線を投げかけられたような錯覚があったけれど、それを恐れるよりも有栖の気持ちは既に少なからず浮き足立っていた。


 『不思議の国』二階に入った両脇のコンクリ打ちっぱなしの壁は、他のどこでも見かけないような奇怪な張り紙の類いで壁が埋め尽くされていて、古いホテルの客室のように階をぐるりと一周する汚れた白タイル張りの内廊下の両側にBARや深夜喫茶、スナックの類いが立ち並んでいる。そこは室内でありながら横丁や小通りのような出で立ちで、その内廊下の中の集落はどこかの店舗から漂ってきた水煙草の匂いに満たされていた。“壁一面べた貼りのポスター”最初に有栖が目を引かれたのは無数の張り紙の中、白い印刷用紙にマジックペンで書き殴られた何かの歌詞のような韻文だった。


“壁一面べた貼りのポスター 革ブーツで踏みしめる内廊下 平日の半ば終電間際 外の人通りはまばら

パチンコ屋の降りたシャッター前に身売りの老婆と仏頂面で立つ獣人労働者

黒服の男立ち並ぶ閉店後の花屋に12時過ぎても開いてる服屋 脱ぎ捨てるスーツ今が『街』の逢魔が時

誰かの手よりも強く握りしめるマイクロフォン ヘッドホン着けて恋バナ聞き流す昼の顔は偽りだ

客引き追い抜くように肩で風切りコートの中が薄着でもさむがるな

ASAP『不思議の国』開く夜会のドア 私が今夜のシンデレラ

カボチャの馬車よりも乗り回すテクノビートがあたしの独壇場 しけた空気吹き飛ばすlike鉄山靠“


 あとの部分は重ねるように張られた異常性癖(HENTAI)ショーの広告で見えなくなっていた。そんな場所に一々目を止めるのは自分のような新参の人間だけらしく、何人かが品定めをするように店の前を行き交う。素性も知れない怪しげな出で立ちの者や、自分と同じような堅気の姿をしながらも慣れた様子で店前を見回す者、けれど多くの飲み屋街であるような倒れている酔漢や馬鹿笑いの騒音に諍いの類いは見られなかった。そしてどの店も、看板こそ出しているものの呼び込みやキャッチは一切見られず、わざわざ此方側から客を呼び込むまでもないと言いたげな佇まいだった。有栖はその摩訶不思議な空気に呑まれて『不思議の国』の入口で思わず足を止めるが、チェシャは他の店には目もくれず『A mad tea party』と書かれた看板のある店へと有栖の手を引いていく。

 他の店の前を通り過ぎる時には店のドアの隙間や覗き窓から少しだけ店内が見えて、ファミコンBAR『電脳』と看板のある店の覗き窓からはスーツ姿の中年男性ばかりが十人近く並んで座り、ビール片手に煙草を吸いながら、三世代ほど前のゲームに黙々と興じている一種異様な光景が見えた。その次の扉は古い木の扉で大きく『会員制 スナック花子』と創英角ポップ体の看板が打ち付けられていて、後々聞いたところによると『会員制』の看板は『街』でヤクザが幅を利かせていた時代に入店を断るために使った方便の名残らしい。店長は80近くになる震災以前から住んでいた高齢者で、往時を懐かしむ大人達が常連になっているという。

 他にも昭和漂うアングラ系の劇団員が経営する『秘密倶楽部』や、特に若い人間同士の集まる『I speed at night』などは十二時から朝の八時くらいまで大音量の音楽が流れてパーティを続けていたりする。世界のビールとつまみを取り置いているような店に、逆に飲み物もつまみも持ち込み可でチャージ代もないような、店とさえ言えるか怪しい場所もあった。客もさることながら店のマスターも多種多様で、芸能人に劇団の脚本家に音楽イベントの主催者、彫り師や散髪屋にフリーター、引退したヴィジュアル系バンドマンやアクセサリー製作者、そして全く異なる世界観を持つ彼らが店前の壁に貼り出しているチラシにも統一感はなく、張り紙まみれの細い廊下は異国の小通りか魑魅魍魎の巣食う魔界の小道のようだ。全く噛み合わない歯車が、それぞれ好き勝手に回っている不協和音こそが、この場所における背景音楽そのものだった。

 『A mad tea party』はその個性的な面構えの店たちの中ではむしろ目立たない部類で、幅一畳半ほどの縦長のテナントにぎゅうぎゅうに押し込められた店内は薄暗く、使い道の分からない不思議なオブジェが所狭しと並べられたバーカウンターの向こうには時々ライブのステージとして使われたりするらしいソファとテーブル席が一つ、そして奥の壁に備え付けのトイレの扉があるだけの、普段サークルで使うようなチェーンの居酒屋とは似ても似つかない雑然とした内装をしていた。そして有栖が怖々入っていったバーカウンターの向こうに、いつも変わらず居る『ハートの女王』がチェシャに気付いて口を開いたのだった。


「あら、チェシャじゃないの。珍しく早いわね、今日は仕事休み?」

「うん、これから買い物に行くところだけど、まだお店開くには早いから。じゃあズブロッカのトニック割りで」

 40か50代ほどだろうか?帽子とネックレス、『街』の内外を問わず見かける普遍的な主婦層のファッションに身を包んで、けれど『ハートの女王』の出した声は豊かな深みを持つ、壮年の男のそれだった。「あんたは?」チェシャの隣から顔を出すようにして有栖はおずおずと口にする。

「あの、ノンアルありますか。いま結構飲んでるんで」

「何しに来たのよ……割り材のジンジャーエール辛口と甘口に、後はオレンジジュースとかあるわよ、テキーラ割るためのやつだけどね」

「……じゃあオレンジ一つで」

 有栖はワイン一瓶くらいなら家まで自力で帰れるくらいにはアルコールに強かったが、それでも初めて来た知らない場所で前後不覚にはなりたくなかった。

 『ハートの女王』はチェシャが頼んだバイソングラスを漬け込んだウォッカの瓶を出しながら、何もなかったように常連らしい先客と会話を再開する。

「はいはい。それにしてもウサギ昨晩は悪かったわね、そんな面倒な客押し付けてたとは知らなかったわ」

 有栖達が店に入ってきた時にちょっとの間だけ此方を見て、その後残っていた酒に手を付けたりスマートフォンを弄ったりしていた先客は、有栖の頭上から吐瀉物を降らせた真っ白な髪を持つあの男だった。

「いや全然大丈夫ですよ、なんせ置いてもらってる身なんで」

 ゆっくりと回転する空調のファンに赤と緑の室内照明が遮られて、コンクリが剥き出しの天井には大輪の花のような影が映り込む。ファンの回転に合わせて微かに明滅する薄暗い室内の中で、ウサギの不健康なくらいに白く痩せた横顔は伸びっぱなしの前髪に覆い隠されていた。『ハートの女王』と何やら内輪の話をして愛想笑いした後、ウサギの人目を惹きつける鮮やかな赤色の瞳は、外のことに興味を示さずにカウンターの奥をじっと見ている。その視線の先に何があるのかと有栖が目をやると、壁に備え付けられた小さな液晶モニタから奇妙な映像が流されていた。液晶から一切目を離さないままカクテルを飲み続ける無造作な仕草から、彼の長い前髪も手入れをしていないが故のものではないかと有栖は思った。

 黒いロングコートで上半身の輪郭を覆い隠す性別不詳の出で立ちをしていて、隣の椅子には入念に手入れされて年季の入った、同色の革の鞄が投げ出されていた。真っ白なシャツの裾にはオニキス色の花の刺繍、シルバーのネックレスは白薔薇の蕾を象ったもので、そして有栖は綺麗なものも可愛いものも好きだった。少なくとも、それが衆目に晒され『可愛い』『綺麗だ』と口にすることで己の感性の純粋さを誇示するための道具に成り下がらない限りにおいて。

 自分も本当はそういうことをしたかったから、男であるウサギがそういう装いをしていることは純粋に羨ましかった。自分の性別でそれをすると対外的に別の文脈を付加される、つまり他人に向けられる目線のために着飾るという文脈が。もし自分が男に生まれていたら自分自身のためだけに美しい、可憐だと思えるものを身に纏うことができただろう。結局、自分の心もまた他人の眼から逃れられていないのだと有栖は嫌になる。

 ふとウサギがカウンター脇に置いていたスマートフォンの画面に気付き、横を向いた。その視線の先には何かの文面を送ったらしいチェシャが居て、さっきまでの印象に反するような普通の声がウサギの喉を取って出た。「今日は早いじゃんチェシャ」ハートの女王が呆れた声で答える。「その話、つい今したところよウサギ」そしてチェシャは自然にウサギの隣に座っていて、なんとなく失望か嫉妬のようなものを感じた。自分の鏡映しのように思えたウサギが、チェシャという相手を見つけた途端普通の若者になってしまったような。我ながら勝手なことだと思う、ただ自分と似たような印象を勝手にウサギに抱いただけで、どちらも彼にとっては普段通りの仕草に過ぎないだろうに。店が煩くならない程度にボリュームを下げられた映像のBGMが、彼らの会話に混じって流れている。それは環境音や切れ切れの人の声、クラブミュージックから海外の舞踊曲まで節操なく音の断片を切り貼りして組み直された奇妙な音楽だった。

「あなた、ここは初めてだったっけ?」

 ハートの女王が不意に自分の方を向いて言った時、映像に見入っていた有栖は我に返り、思わず身構えた。大学やその他の場所で初対面の人に話しかけられた時と同じように、その後に名前や年齢を聞かれて騒々しいお喋りや口説きのために無理やり探してきたような話題を振られるかもしれないと思ったからだ。

「え、ええ。チェシャに教えられて……」

 ライムを絞った若葉色のカクテルを飲みながら、チェシャが言った。「なんかマスターに似てたから連れてきちゃった」それは有栖にとっても初耳の理由で、どういうことかとチェシャに問いかけようとした時、ダンディな声で笑ってハートの女王は言ったのだ。「フフッ、アタシに似てるだなんて、女子大生には失礼よチェシャ。それじゃ『不思議の国』自体が初めてってことね」そして有栖は『お茶会』という店ではなく、『不思議の国』という括りで話すのが不思議だと思った。

「他の店は覗いた?どこも変わった場所だけど良いとこよ」

 ハートの女王はそう言ってから、チェシャが新たに頼んだカクテルを作り始めた。有栖の不安とは裏腹に、彼女自身のことについてそれ以上根掘り葉掘り聞かれることはなかった。マスターも常連客らしいウサギやチェシャも、有栖という見慣れない客に対して変に機嫌を取ろうとしたり、反対に余所者を疎むような視線を投げかけることもなかった。チェシャが咥えたメンソール入りの煙草にライターで火を灯し、有栖はカウンターの上に置いてあった雑多な装飾品の一つに手を伸ばした。それは昔流行った、プラズマボールと呼ばれる透明なガラス球の中心に高圧の電極を置いた玩具で、色鮮やかなプラズマフィラメントが電極とガラス球殻の間に形成されて、有栖が手をかざした場所に光のビームのようにして伸びるのだった。

「あの、『不思議の国』って、どういう場所なんですか」

 そして有栖は珍しく、躊躇いながらも自分から口を開いて、知りたいと思ったことを尋ねたのだ。ここはどういう場所なんだろう?――チェシャに誘われてここに踏み入れた時から、有栖はそれを疑問に思っていた。今まで有栖にとってBARという場所には、大人の会話や洒落た交流の場所、或いは多めの金を出すことで目当ての人間に接客させるための場所、そんなイメージしかなかったからだ。そして人伝やネットで噂を見かけることもなければ、前を通りかかった知らない人が立ちよることもないような店構えの建物に、訪れるのは一体どんな人達なのだろう。

「ただの飲み屋街よ」とハートの女王は笑う。

「独特の店が多いから集まる人も独特ってだけのね。でも狭いとこだからボッタクリの店があればすぐ知れ渡るし、建物の中だから深夜過ぎにハシゴしても安心して周れるわよ」

 それ以上のことをハートの女王は言わなくて、そして今までBARに行ったことのない有栖は勝手が分からなかったので、その時は専らマスターと常連客らしいチェシャとウサギの話に聞き耳を立てるばかりだった。不思議なものばかりが並べられた薄暗い一室に、ここで演奏されたらしいインディーズの楽曲と、煙草の匂いだけが静かに沁み渡る。ハートの女王は沈黙を心得た人で、非現実的なその場所に黙して酒を入れる姿に、訪れた客たちは不思議と普段話さないことまで話したい気分にさせられるようだった。

「それでリピ客の社長さんがさ、月20万とタワマン(タワーマンション)一室借りたげるからそこで暮らせって言ってくるの」「ああ愛人になれってこと?どうせ飽きられるまでの短い間でしょ、さっさと唾つけといたら良いじゃない」「でも誰かが戻ってくるまで一人で部屋掃除して、同じ場所で待ち続けるなんて絶対嫌だもん。ここで飲んでるのだってバレたら怒られそうだしさ?」

 あくまで日常の一幕として語られるその会話に、有栖はアルコールが抜けないまま耳を傾ける。それは中々に面白いと思える体験だった。彼らの会話には聞き飽きた大学での友人関係や恋人の愚痴、単位やバイトの話とはかけ離れた自分の全く知らない世界の一幕を垣間見ることができたからだ。そして不意にハートの女王から話を振られて輪の中に入れられることもあったけれど、そこに有栖が黙っている事を気にするような素振りはなかったし、どんな返答をするかにも注意を払われていないからこそ気楽に答えることができた。そもそも『不思議の国』自体が誰の生活とも無縁な場所で、訪れないことで生じる不具合なんて一つもなく、きっとそれを選んだ一度きりの客も少なくない。だからこそ望んで続ける関係だけがそこに残るのだと、少し後になって有栖は思い返すのだった。

「うちに限らず『不思議の国』は創作のライブイベントとか多いから。これは前の上映会で流したやつ」

 ウサギの観ていた映像について聞いてみると、ハートの女王はそう答えた。

「知り合いに製作関連とか音楽業界のも多いから、インディーズのね。ここで知り合うことになってくれたら良いなと思って副業で店開いてるのよ」

「……そうですか」

 有栖にとってイヤホンは外界から自分を守るための殻で、よほど周囲に気を配らなければならない夜道や治安の悪い場所以外でそれを外すことはなかった。眼前の景色と耳に流れこむ音楽に全く関連のないことや、自分の置かれている状況と歌詞に込められたメッセージの滑稽なまでの脈絡のなさ、その二つの乖離の中にこそ身を置くことで現実からも己の内面からも無縁で居ることができたからだ。今しがた流れていた映像はきっと自分と同じような人間の作ったものだと思ったけれど、その感想を口にすることはできなかった。

 有栖はあまりに多くの言葉や人を嫌いすぎて、きっと口を開けば自分が見下している者の一員になってしまうと思うから、話すことが苦手だったのだ。その代わりに、帰る直前に有栖はメーカーズマークをロックで頼んだ。


 『街』の汚染された大気で慢性アレルギー鼻炎を患っていて、普段から片時もイヤホンを外さずに生活していた有栖の記憶は、いつも目と触覚だけを頼りに構成されていた。だから暗い一室の中で知らない誰かの歌う歌と、小さな声で交わされる知らない誰かの日常、そして煙草の煙だけに満たされたあの場所での出来事は、翌朝目が覚めてみれば有栖の中でまるで夢だったかのように朧気な記憶になっていて、それが現実であった証は、夢の残り香として服に染み付いた、仄かな煙草の匂いだけだった。

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