鋼の森の有栖『街』

 それは最悪の出会いの一歩手前だった。


 欄干から川に向かって吐くつもりだったのだろうか?有栖の頭上にあった架橋から下の通路に降り注いだ吐瀉物が、隣を歩いていたサークルの先輩に直撃したのだ。

 この街でさえ吐瀉物は道路脇に吐き散らかされているものか駅のホームにあるゴミ箱に顔を突っ込んでいる人から吐き出されるものであって、少なくとも頭上から雨のように降り注ぐものではなかった。


 なんだかんだで当時の有栖も自分よりも目上の人間に、本音を飲み込んだ言葉を選ぶくらいの常識は持っていた。けれど心の内では「歳を重ねた人ほど何かを言いたがるけど、むしろ年功序列をひっくり返して歳を取るほど偉くなくなるようにすれば政治問題の半分は解決できるんじゃないかって思うんですよ。誰もが自らの時間の貴重さに気付けるだけじゃなくて、歳を重ねただけの人間を尊敬する必要もなくなるし」なんて今しがた酒臭い息で話しかけてきているサークルの先輩に言ってやることができたらどんなに良いだろうと、頭痛の種である斜視気味の両目を瞼の上から揉み解しながら思っていたりしたものだ。無論それを口にしたところで何か良い事が起こるわけでもないと分かっていたから、言ってやった時のことを空想して溜飲を下げるだけに留めたけれど。

 その先輩はサークルでの飲み会から帰る道が有栖と同じだったらしいが、一緒に歩くことになったのは「女の子一人じゃ夜道危ないでしょ、それに男と居れば変なキャッチにも捕まらないしさ」と言われたからだった。入学当初に入った文芸サークルの先輩として彼を知ってから二年弱になるが、サークル活動では先輩の事は『先輩』と呼んでいればいいので、有栖は彼の名前を覚えるつもりもなかった。そして『街』のそこかしこに点在する客引きと違って延々とついてくる分、彼の方がよほど面倒であるとは気付いていないようだった。


 有栖は一人きりで居る時の、個人的な興味をなんの外的な報酬もなしに突き詰めていく時間や、夜の静けさの中で己自身と向き合っているような瞬間が好きだった。無人島や山奥で生活したいと言っているのではないけれど、それが物品やサービスであれ創作物や研究といった思索に関するものであれ、己の持つものを輸出して、その交換で自分の持っていない必要なものを輸入する、純粋な交易の相手としてだけ人間が居れば良かった。そして何かを出来たかもしれない自分だけの時間を、無意味なことで阻害してくる他人はどうにも我慢できなかった。


「前から思ってたけど白鳥さんって不思議だよね。今日みんなと飲み会とかで盛り上がってる時も一人だけ何か考えこんでたみたいだし、ああいや変だとか悪いって言ってるんじゃなくてさ、そういえば前に有栖が参加してた部誌のこと覚えてる?」


 有栖は一度か二度ほどサークルでの参加行事と言われて、自分が日頃からしたためていた手稿を部誌に寄稿したことがあった。その短い文章は外に出すためのものではなくて、普段あまり自分から言葉を口にしない有栖の饒舌な書き言葉が不要な注目を集めた。

「あの手稿ってやつ最近は書いてないの?最近寄稿してくれないから寂しがってる人も居たよ」

「あれは日記みたいなもので、本来は人に見せるものじゃないんです」


 頭上に架された高速道路を猛スピードで過ぎ去っていく救急車の赤く明滅する光の尾の先、まだ高層ビルの窓からは白い蛍光灯の光が漏れ出ていたように思う。有栖がここ一年ほど部誌に寄稿しなくなったのは、何度となくサークルの人間から口にされた『深い』という浅すぎる言葉や、『考えさせられる』という考えなしの感想が嫌だったからだ。

 感動を共有するために陳腐な言葉でテンプレートの中に己の感情を押し込む。誰かに向けて話した言葉は、誰かから聞いた言葉の受け売りで、自分の思索によって醸成されることも自分の経験によって育まれることもない。そんな均質化されたキャッチボールのためだけの言葉なら、一切口を噤んで何も言わない方がマシだ。


「あー、でさ言いたいのはその事じゃなくて、だからそれ読んだ時に白鳥さんが普段何も言わないだけで何も考えてないわけじゃないって分かって、周りのことばっかりなサークルの他の人たちに比べて俺と話が合いそうだと思ったんだ」


 そんな前置きも程々に先輩が話し始めたのは、過半数の人間が善人であることを前提にした民主主義は、既に限界を迎えているという持論だった。有栖は生まれた年には毒ガスによる地下鉄テロと、のちの復興に際して『街』が造られた一帯での大震災が立て続けに起こった。そして物心ついた頃には増え続けている国の借金や、増大する年金の負担と少子高齢化による悪循環についての議論がされていた。

 にも関わらず今もそれらが解決されていないのは、老い先短い人間にとっては自分が目にすることのない遠い先の未来より、今の自分たちの権益を保つことの方が大事で、それに不平不満を感じている若い大人達もいつか多数派の老人たちに仲間入りすることが分かっているからだ。


 有栖が普段大学から下宿への帰り道の目印にしている南の島へのリゾートをテーマにしたラブホテルの前に差し掛かる。だから自己本位な人間への投票数稼ぎに政治家が割いているコストを、人の上に立つべき優れた人間だけを選抜することに割り振れば良いのだ、とまで話したところで先輩は吐瀉物まみれで横たわっている酔漢を避けて歩く、有栖の表情に気付いたようだった。

「白鳥さん気分悪そうだけど飲み過ぎてない?どっかで休んでく?」

 有栖は気分が悪いのではなく、ただ馬鹿らしいと思っていただけだった。先輩の荒唐無稽な論についてではなく、こんな場末で自分達を取り巻く大きなモノのことを語りはするが、それに決して関わろうとしない無意味さについてだ。

 責任の伴う場所でそれを口にしたり、それを実現するために何かしようとするわけでもないのは、自分の内側に語るべきものなんて持っていない人間の、ただ他者と繋がりたいがための手段でしかないからだ。或いは人が己の力の及ばぬものについて語りたがるのは、常に責任や罪が付き纏う現実からの逃避として、ただ思慮の浅瀬で戯れているに過ぎないのだと有栖は思う。


「大丈夫です、家近いんで」

「そうなんだ、有栖の家ってどこら辺だっけ?」


 旅行で来た学生に飲み会帰りの大学生、夕方ごろに起き出して夜勤に向かう水商売の人間や大口を開けてコンビニパンを貪り喰らうスーツ姿の青年、下着とさして変わらないような服から覗かせた色白い腕や臍に幾何学模様の刺青を入れた外国人、この街が子供の成長に与える影響を気にしていない家族連れに、居酒屋のキャッチや風俗のスカウトといった人種が混在する、『街』の人口密度が一番高い時間帯だった。中でも『街』を横切る堀の中心に架けられた『曙光の架け橋』は、汚れた橋面が見えないほど人でごった返して歩調を緩めることもままならない。

 有栖は他人に合わせて普段よりも歩調を落とさなければならないのが何よりも嫌いだったし、こっちを向いて話しながら歩く先輩が誰かとぶつかって揉め事を起こすんじゃないかと気が気ではなかった。だから有栖は人混みを避けて、橋から逸れた川縁の通用路を使うことにした。『街』の中心を貫く堀の両岸には川を背にして巨大な建物が立ち並ぶ大通りが延びているが、それらの建物の裏手にある細い通用路はどの時間でも人気が少なかった。


「まだ飲めるなら二軒目行かない?あんま人多いとこでワイワイするの好きじゃないんでしょ?俺もそうだからさ、ゆっくりお話しできる場所の方が良いよね」


 観光客向けに堀を走らせるボートが飛沫を立てながら通り過ぎていく。有栖はそれを抜き返そうとでもするかのように早足で歩く。決まっている帰り道や、そこに望むものが何もないと分かっている場所では誰しも早足になるものだ。そして有栖は今まで誰とも歩調を合わせたことがなかった。

 『街』は訪れる人によって見せる姿を変える。そして有栖がかつて行きたいと願った『街』は、少なくとも有栖が今居る場所ではなかった。田舎の公立高校から『街』の大学に受かれる一握りの人間となった有栖が文学系のサークルに入ったのは、生産的な孤独の時間を持っている同類とほんの少しの交わりを持つためだった。けれどそこには人との繋がりや特別視される願望に飢えた無個性な人間と、自分と同じような何かを『街』に期待して入ってきた、何も持っていないつまらない人間が集まっているだけだった。

 今も家に帰って一人でしたいことはあるけれど、帰路を急ぐのは他に比べて家が一番ましな場所だからに過ぎない。時間潰しだけで終わる人生は無為だ、美味しいウィスキーと煙草や誰にも邪魔されず夜風に吹かれる時間だけで一生を終えたいとは思わなかった。そして綺麗な放物線を描いたキャラメル色の吐瀉物が有栖たちの頭上に降り注いだのは、『曙光の架け橋』の下に差し掛かった時だった。


 後になって聞いたことでは、ウサギは確かに吐こうとしていたけれど酔っていたわけではなくて、吐く場所を探すくらいの猶予はあったらしい。普段からウサギは屋内に居るならトイレや風呂場、外なら道端に蹲ってか橋から身を乗り出して吐くと決めていた。その日に限って、便座を覗き込んだら他人の顔があったようなものだ。そして頭からゲロを被った男の隣で、自分と同じくらいの歳の女が不思議そうに自分を見上げていた――俺はあの時どんな表情をしていたのだろう、と後になってからウサギは有栖に聞いてきた。それは有栖が自分の服に飛沫が飛んでいないか確かめることも忘れて、ウサギの目を覗き込んで不思議そうな顔をしていたからだ。

 ウサギは『街』の外では未だ人間において確認されていない、全ての色素が脱落して白色となるほどの完全な白色希少種(アルビノ)だった。有栖が見上げたウサギの姿は真っ白で美しくて、その髪までもが夜の闇で白く輝いていたのだ。見開かれた瞳は色素が欠落した動物と同じように充血した赤色だけを透き通していて、欄干を握った震える指先から赤い錠剤がぱらぱらと零れ落ちた。折れそうな細い首の根元に、はだけたシャツから鎖骨がのぞく。色素の薄い唇の端に、酸っぱい匂いの吐瀉物の残滓が張り付いていた。


 そして有栖が無意識に橋へと上がる階段に脚をかけようとしたとき、ようやく頭から吐瀉物を被ったショックから先輩が立ち直ったようだった。「お……おいっお前っ!」怒りに駆られ過ぎて咄嗟の罵声すらも思いつかない様子で、髪からズボンまでをゲロ浸しにしたまま躍動感溢れる動きで橋の上に駆け上がる。そしてウサギはというと、我に返った先輩が怒号を発した時には既にそれを背中で聞きながら走り出していた。後になってからウサギは「まだ吐き終わってなかったのに、知らないやつが物凄い勢いで追っかけてきたからさ」と自分が先にゲロを先輩に吐きかけたことも忘れたような顔で、その時のことを話したのだった。

 一度逃げられれば二度と見つけられないような『街』に満ちる人の海、車と違って車体番号を控えられることもないのだから、往来で何かをしでかしたのなら基本的には逃げの一手だというのが『街』の住人のお約束だった。立ち止まりネオンライトが輝く看板を背景に自撮りする観光客を迷惑そうに押しのけて歩く仕事帰りの人間や、客引きやナンパに掴まらないように足早に歩き抜けていく少女、そして欄干の近くに座り込む物乞いや大道芸人を跳ね飛ばして、足早に駆け去るウサギを追った先輩は『曙光の架け橋』に吹き荒れた黒い嵐となり、そして終電を逃したそうだ。先輩と有栖が一緒に帰ったのを知っているサークルメンバーから後日何があったのか遠慮がちに聞かれて、駄目にされた一張羅を脱ぎ捨て上半身裸で走る先輩の姿を目にしたらしい幾人かから有栖はその経緯を知ることになった。


「お姉さん、あたしについてこない?」

 そして置いてけぼりにされた有栖の背後から、誰かの声が聞こえた。振り向いた視線の先には橋の下を潜り抜ける堀沿いの通用路のトンネル、青緑の蛍光灯に照らし出された白塗りのアスファルトの壁に背を預けた少女の姿があった。彼女は逆三角の耳を揺らして悪戯っぽく笑い、「今なら黙って帰っても気付かれないし、次あの男の人に会っても言い訳できると思うよ」と言った。髪と同色の黒いレースがあしらわれた衣服から、浮かび上がり目を惹く赤色。真っ赤なエナメルの鞄と濃い口紅は、有栖にとって夜の仕事に従事する人間の証だった。そう考えるまでもなく、彼女は獣人であったけれど。

 ニーズに合わせて様々な獣人が生み出されているが、それでも半数を占めるのは猫人と犬人だ。決まった店や金持ちに飼われて『ご主人様』を待つ犬人と違って、猫人は市井で客を取るので店を利用しない一般人でも目にすることが多い。彼女はもし『街』の外でなら義務教育も終えていないような歳にも見えるくらい小柄だったが、猫人は遺伝子組み換えの際に身体の成長も遅くなっていると有栖は聞いたことがある。

「あなたは、さっき吐いて逃げてった白い人のお友達?」

「うん、行ったら会えると思うよ」

 先程の男は、ホストか何かだったのだろうか?屈託なく笑う猫人の少女の黄金の瞳に、割高で楽しくもない居酒屋に連れて行こうとするキャッチと共通する何かが見えないかと有栖は探ろうとした。

「面倒な人から助けてくれたのは感謝するけど、危ない店なら行かないわよ」

 ウサギの吐瀉物が余りにも強烈に記憶に焼き付いたせいで、その前後の経緯について今も有栖が覚えているのは、彼らに抱いた印象と『確かそんなことを言ったと思う』という断片的な会話だけだ。けれど自分がこの少女に嫌悪感を持たず明け透けに本心を話して、ついて行くに至った動機が決して彼女達への好感でなかったことは忘れようもなかった。有栖は中学時代にしでかした失敗から、誰かの敵意の対象となったり不便を感じるほどの孤立から逃れるためには、その場その場を生き抜くために何かのグループに所属しておかなければならないということを学んでいた。

 そして所属したグループに合わせて着る服や好きなものも偽って、最低限その『輪』を破壊したという責を負わないように振る舞い続ける。そういう日々の繰り返しが、『生活』と名付けられる行為なのだ。そして吐瀉物が頭に降ってくる奇跡のような偶然で繋げられた真っ白な男や猫人の少女の生きる世界と、サークルの飲み会で飲みたくもない安いカクテルを飲んで、しょうもない話題で盛り上がる親しくもない人間達の中で時間を潰すような有栖の『生活』は一切の関わりを持たなかった。だから自分の一挙一動に気を配ることもなく、ただ少し危険で刺激的な場所に興味本位で足を踏み入れるかのように、有栖は猫人の少女と言葉を交わしていた。


「お姉さんレズなの?初心者みたいだし、あたしのこと買うなら安くしたげるよ」

 臍に開けたピアスを露わにした服から、肋骨が微かに浮き出ている。物珍しくてじっと見つめていた有栖の視線を誤解したのか、少女がそんなことを口にする。

「違うわ、どっちも無理なの。分からないと思うけど」

 有栖の答えに、少女は本物の猫そっくりの三角耳を器用に傾げさせた。金を貰って知らない誰かと性交をする職業、或いは金を払ってまで知らない誰かと寝たいと思う者たちの興行。『街』の大学でも利用する者や学費を稼ぐために働く者はひっそりと居るのだろうが、有栖自身はずっとそれらと縁のないまま生きていくものだと思っていた。

「どうでもいいけど、あの人が戻ってくる前に決めた方が良いと思うよ。お姉さん逃げたかったんじゃないの?」


 どこでも良かった、どこかへ行きたかった。有栖が誰とも分からぬ獣人の少女に、そして何処とも分からぬ場所へと連れられて行ったのは、何よりも彼女の意図しない意味で、その言葉が正鵠を射ていたからだ。


「あたしチェシャっていうの、あなたは?」

 有栖が伸ばした手に少女は指を絡めて身を寄せてきて、その親しさを演出するような仕草が余りにも手慣れていたから、あどけない表情に反して彼女もまたいっぱしの街娼であるのだと思い知らされる。それは普通に大学を出て普通に働く、普通の『生活』をするためには、知ったところで何の得にもならないもの。だからこそ有栖は、その血管まで透き通るような肌をした小さな手を握り返した。


「有栖よ、そう呼んでくれれば良いわ」

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