ふたり

 海を近く、平行して僕らは走っている。

 午前六時。辛うじて暗さが残っていると思っていた空は、気がつくといつの間にか明るくなっている。そして、一日が動き出そうとする頃には僕らは飛び立つ。

 目的地は決めていない。ただ、外国ならどこでも、いい。

 遠ければ遠いだけ、なお、いい。


 だから、目指している空港に着いたら、まずはキャンセル待ちの手続きを済ませ、後は、ゆっくりコーヒーでも飲んでいればいい。

 それだけのことだ、と、思っていた。海外行きの二人分のチケット、なら何でも構わない。それに、時間もまだ早い上に、旅行シーズンでもない。この条件の下なら、そう難しいことではない、と。

 そう思っていたから、空港に着いてからのことよりも、それまでの時間を、彼女とどう過ごすかの方が、僕にとってははるかに重要なことだった。


 それで僕たちは、途中にあるコーヒーカウンターによることにした。

 遠く空を眺められる開放的なカウンターがある。

 僕は自分のコーヒーと彼女のカフェラテを頼んだ。僕たち以外、他には誰もいなかった。

 だからというわけではないが、この空――雲ひとつなくつくりもののような青さ――がまるで、僕たちだけをこちら側に閉じ込めているように思えてしまう。

 しかし、と、僕はコーヒーを口に運びながら考える。しかし、青空の下、ある人は悲しみに暮れながら、ある人は孤独と一緒に、ある人はキスでもしながら、きっと世界のあらゆる場所で物語は紡がれているのだろう、と。

 世界のあちら側で。


 そこまで考えたところで、僕の意識は彼女の声に引き戻された。


 彼女は一昨日に読み終えたレベッカ・ブラウンの小説――スケッチブックと一緒にキャリーケースの中に入っている――や、最近は飲みに行くと必ず注文するカクテル――よく間違えずに言えるな、と思う長い名前――の話をし、僕は偶然見つけた、狭いけどちゃんとしたイタリアンを食べさせてくれるお店や、出逢った頃の二人のことを話した。

 尽きることのない、とりとめのない話をしながら、ただ、彼女との「今・ここ」を失いながら過ぎて行く時間を惜しんでいた。

 

 いつまでも――遠く空を眺めながら、思う。

 いつまでも、このままでいたい、と。いっそのこと、世界と時間が止まってしまえばいい、と。

 まだ少し暗さが残っていたと思っていたのに、気がつくとすっかり明るくなっていた。一気に明るくなり、周りの色は主張し始め、世界が騒ぎだす。もうすでに居心地が悪い。


 僕はすっかり明けてしまった空の下、海と並走している。低空飛行の旅客機が、その地響きに一瞬、僕を車ごと巻き込んで、あっという間に抜き去ってしまった。


 ジュースボックスの中、二つ並んだ飲みかけの缶コーヒー。

 鮮やかな緑色の表紙の短編小説。

 置き忘れたものもの。

 一つ一つはとるにたりない、もはやここにないもの。

 しかし確かに、かつてはあった。


 欲し、思い起こし、泣いて呼び戻せば本当に戻ってくるかのように、蘇るかのように、しっかり根付いていて、それなしでは生きることができないもの。

 あるいは、生きる意味をすっかりなくしてしまうもの。


 同時にひとつの真実として、それは去ってはいない。だから僕は憬れる。その世界に、それ以上に、その世界に行きたい衝動に。

 なぜなら、その世界には去ってしまったものが、くっきり横たわっているから。

 けれども、置き忘れたものが、それを許さない。

 僕の身体を、香りを、そして総てをとどめている。


 アクセルを踏み込んでいた。エンジンが、マルキシズムのような音を立てている。

 もしかすると、僕をとどめているものを振り払おうとしていたのかもしれない。あるいは、過ぎ去ってしまったものを、追いかけていたのかもしれない。


 何度も何度も、繰り返していた。

 逢いに行きたい、戻ってきて。

 逢いたい、逢いたい、逢いたい。

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掌の小説 Lily @Lily24

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