かなしみ
私が乗った飛行機を、はるか地上にあるコーヒースタンドから、あなたは見送った。機体を、そして飛んでいったその先を。
あなたはコーヒースタンドに入ると、自分のホットコーヒーを頼み、それとは別にカフェラテを注文した。
ふたつの飲み物を受けとると、まっすぐカウンターに歩いていった。カウンターの前は大きな窓で、海と空とが視界の許す限り広がっている。スツールに腰をかけコーヒーをひと口飲んだとき、遠くの空から雷鳴に似た音を聞いた。その音の発信源である飛行機を視界に捉えると、それが私を乗せた飛行機だと、あなたはすんなり信じこんだ。
中空に取り残されたままのコーヒーから立ちのぼる湯気。
すみやかに姿を消した飛行機の軌跡。
手をつけられることのないカフェラテ。
あなたが捨てようとしたものたち。
それは三時間から、せいぜい四時間前のことだった。最初は単なる思いつきだったが、けっして悪い考えではなかった。
それどころか、ほとんど最良だと感じ、そう感じたときにはすでに行動していた。
私たちは、捨てることに同意していた。
互いに、いま、ここ、から、いなくなる必要を感じていた。
私たちを支えているもの、形作るもの、感情を左右するもの、足枷をはめるもの。
そういったものたちを切り離し、きっちりひとり分の重さになりたかった。
これから、名前も知らない国へ行かない?
口に出すと、あなたは二つ返事で賛成してくれた。この考えに巡り合えたことへの、歓喜のあまりに訪れた数秒の沈黙。あなたは子供みたいに目を輝かせていた。頬は紅潮し、口元には笑みが浮かんでいる。
ほんのわずかな沈黙。その沈黙が解けると、私たちは弾かれたように身支度に取りかかった。私は必要最低限のもの――音楽と本、スケッチブックと書き慣れたペン――だけを携えて、あなたの運転する車の助手席に座った。
午前六時。空港までは約一時間半。
着いたら、それぞれキャンセル待ちの手続きをする。いまは旅行のオフシーズンで、キャンセル待ちも、それほど現実離れした行為ではなかった。
ほどなくして、私はあなたに見送られた。空港の広いロビーで、私たちは抱き合った。あなたは今日のできごとを祝福し、これからの私を支持してくれた。私があなたに手紙を書くと告げると、あなたは頷いた。
けれどもお互い約束はしなかった。
連絡がないことは、私もあなたもわかっていた。連絡先がわからなくなったからではない。確かに私は、あなたの行き先を知らない。あなたが本当にこの後、飛び立ったのかどうかさえ、知らない。けれども、行き先を、居場所を知っているかどうかなんて瑣末なことでしかなかった。
私たちは互いを身軽にしたのだ。
私はこれからの生活を想像した。私のことを知るものがいない町を。そこでは、誰も私のことを規定しない。
私は無地で自由だった。自由で身軽で、孤独だった。
さよならを告げたのだった。互いに、さよならを告げるためにやったのだ。
そのはずだった。
たとえば、あなたの癖を思い出すこと。
飲み過ぎて帰ってくると、左足の靴下だけを脱いでベッドにもぐりこんでくること。几帳面な性格なくせに、脱いだものだけは片づけられなかった。だから私は、必要なものはハンガーにかけ、そうでないものは洗濯機に入れた。
昼寝が好きで、猫みたいにすんなり自分のペースで寝入ったこと。私は、その寝顔を、隣にくっついてあなたの匂いを吸いこみながら眺めるのが好きだったことを思い出す。
食事の好みを、それに合わせて店を決めていたことを思い出す。外では、コーヒーかアルコールしか飲まなかったことを思い出す。日々の食事を愛し、豪華なものではなく、きちんとプライドを持って作られている料理を好んだことを。愛していた音楽を。
何故だか、他愛のない映画を観て、ふたりでぐしゃぐしゃに泣いた夜のことを思い出す。
けれどもそれらは、あなたのことを忘れないと、あなたに伝えるためにやっていたのだ。
必要なことは、忘れることなのに。
そう思い知らされた。忘れることだと。
そしていまもなお、胸に抱いたかなしみを、どうにもできずにいる。
ロビーで、抱き合ったときに嗅いだあなたの匂いが、驚くくらい鮮やかに蘇ってきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます