第5話

 ――あの日から一週間が経った、降梅祭当日。

 浮足立つ人々の心情とは裏腹に、梅の花は朝から重い曇天どんてんを支えていた。それでも祭りは滞りなく進行していき、ついに陽を拝むことなく訪れた黄昏時がそがれどき。いよいよ雪梅の出番がやってきた。

 祭りの会場は高台の広場だ。更に数段足を組んで持ち上げられた舞台上からは祭りを楽しむ人々を飛び越え、眼下に都を一望することが出来る。ところどころに満開の梅の花を飾った白桃色の街並み。広い景色の中、見つけきれないことを承知で一軒の店を探す。

 ……あの人は今、何をしているのだろう。

 驚く弟子の隣で呑気に酒でもあおっているだろうか。それとも今日もあの美しい手で傘を作っているのだろうか。

 どっちだって関係ない。無様な舞いなんて見せられない。今年の私にはとっておきの客がいるんだから。

 舞台袖には祈るように手を組む婆や。その両の手の間に挟まれた一本の傘を見つめゆっくり目を閉じる。長く重い舞扇をくるりと翻し、

 雪梅は舞い始めた。

 遅れて響く横笛の音色。舟を漕いで微睡まどろむような、ゆったりとした前奏に足取りを合わせる。しなやかな肢体の動きに遅れて艶やかな赤い袖裾がはためく。

 扇を落とすなど有り得ぬ粗相ですよ。安心して。そんな失態はもうしない。

 きれい。誰かが言った。観衆の視線が雪梅を追いかけ右へ左へ。毎年のことだ。でも今年は――最後まで離したりしないんだから。

 靴底で地を強く叩く。大きく腕を、扇を振るうと観衆から拍手が上がった。

 傘屋を訪れてから気持ちを新たに稽古に打ち込んだ。寝る間も惜しんでのめり込む様は逆に婆やに心配をかけたようだけど。

 酒の肴では終わらない。一人でも多くの人の心を捕らえてみせる。たとえこの舞い自体になんの意味がないとしても、雪梅の役目を無意味なものなんかにさせない。ただの花見なんてさせてなるものか。

 しかしその時、感嘆とは違う一声が上がった。見ろ。つられた視線が雪梅から逃げる。

 踊る手足を止めることなく息を呑む。なんでよりによって、今!

 はらり、と鮮やかな赤が降ってくる。

 降り注ぐ梅の花。雨乞いの舞いに合わせての雨。粋だ、なんて感慨など吹き飛ばす豪雨。

 花が終わりを迎える様子を桜は散る。菊は舞う。梅はこぼれるという。その表現に相応しく次から次へと真っ赤な花弁が、母なる木々からこぼれ落ちてくる。

 広場には雨風を凌ぐ屋根などない。これやばいだろ。うわ酒が。早く、どこか雨を凌げる場所に! 口々に叫ぶ人々の背が遠のく。舞台袖では関係者と思しき男性と婆やがなにごとか話し込んでいる。

 楽師の奏でる音に混じる迷い。盛りを過ぎた花弁が群れとなって降り注ぐ。滝のように肌を打って痛いくらいに。雨天決行の祭りではあるが、この土砂降りでは中止もやむなしだろう。

 お願い止めないで。やっと見つけたの。自分の役目、やりたいこと。見つめさせてくれたのはじめて認めようと思えたのこんな自分を。あの人のおかげで……だから!

 ついに笛が途絶える。駆け寄ってくる婆や。いやだ、まだ終わらせない。諦めない。

 諦めてたまるか!

 雪梅は腕をめいっぱいに伸ばす。預けていて正解だった。こんな形で手に取るとは思いもよらなかったけど。

 観客たちは編まれた太い枝の下に避難、もしくは準備よく持参していた傘をさす人の二通りに分かれたようだ。

 ほんとうに、あの人の言う通りだわ。

 傘というのは、身の丈なんでな。その言葉通り、傘をさす人はそれぞれが背丈に見合った物を使っている。身を寄せあい複数人で傘を共有する人もいるが過ぎた分だけ誰かが肩を濡らしているのが分かる。

 雪梅は舞台の真ん中に歩み出るや、舞扇を投げ捨てた。バサリ――その身に貼り付く花弁を弾き飛ばし、純白の傘が花開く。

 そうして再び音が途絶えたところから踊り始めた。

「あれは、傘?」

 驚きと困惑の視線が向く。降り注ぐ花弁は激しさを増すばかり。それでも雪梅は舞う。

 逆境がなんだというのだ。私にはこの傘がついている。

 すると後押しするかのように突然、花弁の雨が光りを放ちはじめた。不意に雲間から差し込んだ黄昏の陽光が舞台を、雪梅を柔く包んで照らしだす。

 降りしきる花弁を傘で受け、水たまりを蹴り上げて舞う。舞踊は大詰めに向けてその激しさを増していき。

 見ろ……! 雪梅に釘付けになっていた視線がわずかに上へと逸れる。

 都の傘は雨の日限定の身に纏う装飾品。傘の内で踊る雪梅には見えてはいないが、じわり、じわりと雨を吸い上げ傘の表面に色が滲んでいく。

 紫、藍、青、緑……そうして黄、橙、赤。寒色から暖色へと次々に浮かぶ虹色。それだけでは終わらない。

「枯れ枝に、茶色の鳥。……すずめか?」

 変わってるわね。どこの傘。ささやきは小さく雨音にかき消された。

 満開の天から梅の花がこぼれ落ちる。はらり、はらりと絶え間なく。ぽてり、ぽてりと傘の上に降り積もり、染みゆく赤い水が仕上げとばかりにその本性を暴く。

 あれは。すごい。まさか! ささやきが変化する。驚喜のどよめきへと。

 傘の枯れ枝がこぼれ落ちた梅を拾い、いつしか満開の梅の花を咲かせていた。枝に留まる茶色の鳥は決して目を引く美しい姿ではないが、そのくちばしの先から七色の彩が花の合間を縫って広がっている。雨を受け梅をまとい、緻密な計算の下にはじめて完成する芸術品。

 それが都の傘。腕利きの職人が策士と呼ばれる所以だ。

 再び響き始める笛の音。それはまるで声。高らかで清らかな春を喜び歌う、あの囀り。

 「梅に鶯……いや」声が途切れる。

 髪はじっとり肌にまとわりつき、長い裾が動きを拘束する。ただでも歩き難い靴なんて歩む度に踏ん張らないと転んでしまいそうだ。しかし、気分はまるで羽でも生えたかのよう。

 跳ねた爪先で一回転。動きに遅れて長い袖が弧を描き、はじけ飛ぶ滴はまるで雪梅を飾り立てる夕焼け色の宝石。傘の上に弾む花弁までもが一緒に踊っているかのよう。

 梅と雪、そして鶯だ。そう誰かの口からこぼれた言葉が、周囲の人々の中を波紋のように広がっていき。やがて賞賛の声として真っ赤な花弁とともに降り注ぐ。

 指先は冷えていくのに胸が、心が熱くなるのを感じた。この熱狂を雪梅は一生忘れない。この場の民たちもきっとそれは同じだろう。しかし理解している。これは雪梅一人の力では成せなかったことだと。

 いつか私は、この傘に見合う人間になれるだろうか。秘めたる絵を知らずとも感じるこの美しい傘の身の丈に。

 雪の下に梅の花。いや望むはもっと高く。梅に並び立つ雪だ。

 敬愛するお母様にも並び称される。こんな自分が“そんな自分”になれたなら。

 そのいつかが来たらもう一度あの傘屋に行こう。今度は代金しっかり耳を揃え、ついでにこの傘代分だって上乗せしてやる。

 そうしたら趣味だなんて自己満足のためではない、彼は雪梅のためだけの傘を作ってくれるだろうか。

 見てなさいよ、不躾な弟子に人の悪い親方。

 顔には愛情いっぱいのとろけそうな笑顔を浮かべて絢爛豪華な衣装をはためかせ、その隠れた胸の内に確かな野望を抱いて。母なる梅の木に、愛する都の人々に捧げるべく懸命に笛の音が途絶えるその瞬間まで。

 雪梅は満開の傘を振るい舞い踊る。

 やがて響き渡る絶頂を迎えた歓喜の声。息を整える間もなく舞台の中央から見渡す。

 その景色は幼い雪梅が見ていたものと同じに見えた。

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梅降る都 -梅咲く舞い手と傘職人- 志奈 @amaji_shina

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