第4話

「本当は、頭が上がらないの。……この都の全ての人たちに」

 美しくて、大好きな都。その都を守る梅守であるということを誇らしく思うのと同じだけ、自分が惨めに思えてならない。

「私だって何かしたい。家族や大事な人、大好きなこの都のために役に立つことを。だけど!」

 はじめて降梅祭の舞台に立った時に見えた景色は――孤独だった。

 いよいよ花を散らす梅雨がくる。民にとって祭りとは名ばかりの花見。花見などというものも、そもそもその行事自体が名ばかりだ。花を愛でるのは冒頭数分と相場が決まっており。あとは食事と歓談に花を咲かせるのだから。

 そんな時分に披露される舞踊などただの座興ざきょう。興味本位の視線はすぐに酒に流されていく。誰一人として雪梅を、梅をちゃんと見ようともしない。

 舞い自体に雨降らす力などなくとも、いつも人々の下に、傍にある梅の木に感謝するために。――なんて。誰の目にも留まらないのにどうしろというのか。

 目立ちたいだとか稽古に追われた私を見ろ! なんて思ってはいないけど。突き付けられる一つの疑問。ならば雪梅の存在意義とはいったい。

 そもそも役目とは本来、誰かに必要とされるものではないのか。

 何も出来ないくせに何もさせてもらえないくせに、身なりばかりを気にして笑って大事にされて。身の程以上の矜持きょうじだけが染みついて。それがどれほど惨めで孤独なことか。

 しかし不満を口にすることは許されない。それは恥ずべきものだ。役目に反することだ。

 だから言葉は飲み込んで、絢爛豪華な衣の内に汚いものは隠すしかない。隠したそれらは時を経ても消えることはなく、いま雪梅の顔を歪ませる苦味となって吐き出されていく。

「こんな私、誰も必要としていないのに……私はなんのために生まれたの!」

「お前が自分自身をこんな枠に嵌める限り、お前は“こんなもの”なんだろ」

「じゃあどうすれば良かったの。私だってこんな風に、無意味で役立たずな誰にも必要とされない私になんてなりたくなかった!」

 でももう遅い。私ではお母様にはなれない。

「その役立たずだとかは、誰かに言われたことなのか?」

 梅守本家長女である自覚をお持ちください。脳裏をよぎる冷ややかな声。

 花見で終わる舞踊。己の未熟さを誰より痛感していた。母に劣る自分が嫌で、最初の頃は稽古だって真面目に受けていた。

 奥様が雪梅様と同じ年の頃には既にご立派に役目を果たらされておりましたよ。なのに雪梅様ときたら。

 しかしやればやるほど浮き彫りになるのは母に劣る自分の姿。足の皮が剥け手の豆をいくつ潰しても、あの蝶のように舞う美しい母には勝てない。

 役立たずと言われたわけではないが、自分の身の程は雪梅自身が一番よく理解している。

「お前、本物のうぐいすを見たことはあるか?」

 なにを突然。「鶯なんて春になればいくらでも木にいるじゃない」

「木々の枝に留まっている鮮やかな緑の鳥、あれは目白だ……念のため言っておくが鳥の話だぞ。あれらは昔から混同されがちなんだよ。鶯は囀りが美しいだろう。だからその姿もさぞや美しいのだろうと。だが鶯の本当の姿とは、茶色い地味な鳥なんだ」

 知らなかった。記憶を辿ってもそんな鳥を見た覚えはない。いや、雪梅が意識に留めてこなかっただけなのだろう。

「鶯が他人の意見に染まることはない。馬鹿の作った馬鹿馬鹿しい枠などわざわざ嵌ってやる義理などない。そうは思わないか」

 どきりとした。まるで雪梅の胸の内を晒されたように聞こえたからだ。

 この役目に意味はない。誰にも必要とされていない。それを指摘されたくないからと先手で自分を貶めて。彼の言う枠に嵌るって、きっとそういうことだ。

 ものの価値は自分で決めるべきだと、はじめに彼は言っていたではないか。

「……ねえ。嫌われ者の冬でも、花は咲かせられると思う?」

「雪の下に紅梅こうばい

 ぽつりとつぶやいた親方の声に雪梅は首を傾げる。

「お前の着てる襟の配色。白の地に桃色の裏地を透かす“重ね”の名だ。その名の通り雪の下に咲く梅の花を表したもの」

 今日も侍女が着つけてくれた着物にそんな意味があったとは。いや、思い返すと雪梅の着物にはほとんど同じ色が使われていたように思う。

「春が芽吹く瞬間のその情景は、静謐せいひつでひたすらにただ美しいものだ」

 美し……雪梅の頬がみるみる熱を持つ。落ち着け、私に言ったわけじゃないと繰り返し唱える。彼は思いを馳せた景色の感想を述べているに過ぎない。

 しかし彼が雪梅の変化に気付くことはなかった。白地に色を透かすなんてまるで傘みたいだろう。語りに熱が入るところがさすが傘職人。

「私も……そうなれるかな」

 嫌われものの冬じゃなくて、みんなの愛する春を彩る雪に。

「少なくとも成れると信じてその名を与えたことは間違いないだろう」

 親方の手がまた子供のように雪梅を撫でる。その温もりに一つの記憶が引き上げられる。

 最高の舞い手。決して勝てない人。

 しかし、雪梅と名を呼んで頭を撫でてくれた手は、同じように暖かかった。

 勝つとか負けるとかじゃなくて、私は……。

「今日は客じゃない奴がよく来る日だ。なあ?」

 問いは雪梅の頭を飛び越え店の外へと投げられる。いつの間にか開いていた扉の前には目白と。

「雪梅様あああ!」

 すっ飛んできたのは婆やだ。正面から抱きつく腕は強く雪梅は身動きすら取れない。

「ただいま戻りました。買い出しと、あとついでの用事。鬼の形相で人探しをしてる人ってのを連れて来たんだけど……」

 なにごと? 唖然となるのはこちらも同じだ。

 隣を見上げると変わらず涼しい顔をした親方。この男は本当に……なんて人が悪い。

「なんとおいたわしい。こんなに濡れて、こんなに冷えて! 髪だって。風邪を引いたら大変です。早くお屋敷へ帰りましょう」

「へ、屋敷? それに雪梅、様?」

 明かしてしまったからにはもう、ここにはいられない。

「手拭いをありがとう。邪魔したわね」

 身支度を整える雪梅へと唐突に親方が腕を差し出した。その手に握られる一本の傘は。

「それさっきの……でも私お金なんて」

「これは品物ではない。趣味で作ったものだと言ったろう。値は決める権利は俺にある」

 迷う手に押し付けられる傘。餞別せんべつだ。ということらしい。

「……ありがとう」

 婆やが店先で呼ぶ。雪梅はその声に応えた。

「参りましょう。……あら、新しい傘ですか。おさしになりますか?」

 大分弱まりましたが。婆やに釣られて店の外に手を差し出す。雨脚が弱まった今、降り注ぐ花弁はもうほとんどない。雪梅はしばし逡巡し、傘を握りしめる。

 「いいえ」……今はまだ。

 軒先に立つ親方と目白に一礼。出会いの色が濃かろうとその別れは淡泊なもの。雪梅が歩き出すと、その背についた婆やが傾けた傘に入れてくれた。

 わずかな紅色を乗せた婆やの傘は、濡れても色の変わらない白一色だった。

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