第3話
満開の梅の花の下、高台の舞台で舞う美しい女性。
梅守本家当主の妻。雪梅の母親だ。
翻る舞扇はまるで春を謳歌する一匹の蝶。巧みに蝶を操り、戯れるように舞う姿は実に、実に美しかった。
幼い頃よりずっと羨望の眼差しでもって凝視してきた。私もいつか。なんて指折り数えて待ち焦がれた。その願いが叶ったのは雪梅が齢十になる年のことだった。
梅守本家長女として初めての役目。期待と気負いと誇らしさを胸に立った憧れの舞台で、
雪梅は現実を知ったのである。
しゅくしゅくしゅく。紙が擦れる音に雪梅は重い頭を持ち上げた。眠っていたわけではないが、ぼうっとした意識が一点に向けられる。
黙ってるんなら雨宿りくらいしてっていい。宣言通り親方は雪梅を追い出そうとはせず。くしゃみを漏らした雪梅にむしろ親切に温かな茶を振る舞ってくれた。同じ人とは思えないが、鬼ではないらしい。
本をめくるような紙の擦れる音は、その親方の手元から発せられていた。
店の奥、一段上がった畳の上に胡坐をかいて傘をいじる。その姿に吸い寄せられて足が出る。気付けば雪梅は彼の目の前に座り込んでいた。
まさに
接着剤らしき液のついた紙を傘に貼り付けては、ヘラを手に僅かな皺を伸ばして取り除く。しゅくしゅく、しゅく。撫でられる度に紙が艶を放つ様子は、まるで宝石を研いでいるよう。手際のいい職人の手つきはほれぼれするほど美しく、見ているだけでなんとも快感だ。
昔、同じような手を見たことがある。
それは女のもので、どう見比べたところで男である親方とは似ても似つかないのだが。美しい手際に視線も心もすべて持っていかれる。まるで白昼夢のように。
「――良い傘だろう」
低い声に我に返った。作業は全て終わったらしい。畳の上に広げた道具は片付けられ開かれた傘が一本鎮座しているのみだった。いつの間にか雪梅の隣に立ち親方の自画自賛は続く。
「白紙は差異が際立つようあえての厚紙。中紙はあえて何枚も重ねることにより色の出現に時差を付けた代物で傘の持ち手だってこだわりの……」
「どんなこだわりがあろうと外見は真っ白な傘でしょ。私には分からないわ」
中の絵は既に白い紙に隠されていたため、どんな傘なのかなど分からない。それでも。
隅々まで職人の腕の行き届いた美しい傘だとは思うわよ、なんて口にする気は毛頭ない。
「あんな食い入るように見つめてたくせに。本当に可愛くない嬢ちゃんだな」
口にせずともバレている。余裕の含み笑いになんとも腹が立つ。
「これは俺が趣味で作ったものでな。材料も奮発したし手間も掛けた。正規の値を付けたとてとても買い手などつかないだろう。……それでも傘では翡翠に勝てないが」
やはりこの男。「分かってて、あんな態度を!」
「当然だろ。職人を馬鹿にするなよ」
「あなたこそ客をバカにするのもた大概にしなさいよ! この簪の価値を分かってたならどうして傘を売ってくれなかったの?」
簡単なことだと親方は説明する。
「物の価値を決めるのは他ならぬ己自身であるべきだ。他人の物差しなど知ったことではない」
要は翡翠などこの男にはなんの価値もないのだ。それはひどい敗北感を雪梅に与えた。換金すればいいのにという悪あがきは面倒の一言で一蹴された。
「過ぎた金などいらない。それは己の目を、尺度を狂わせる。そうして枠に
「枠に、はまる?」
「勝手な尺度に捕らわれることだ」
「それ、わざと?」
親方の言い回しはどうにも抽象的で直感的に理解ができない。芸術家ってやつはみんなこうなのだろうか。
「すまんすまん。目白にもよく言われるのだがまたやってしまった。相手が嬢ちゃんみたいな子どもだとどうしてもなあ」
「また嬢ちゃん。私は子どもでも嬢ちゃんでもないわ」
「雪梅だったか。良い名なのだから、呼んでやらねば宝の持ち腐れというものだな」
良い名? ……どこが。
疑問というより疑惑の眼差しで隣の親方を見上げる。本当に心から言ってるの?
「俺の言葉が信じられないのか、……もしくは親から賜った名に不満があるのか?」
名づけ親は母だと聞いている。亡き人相手に文句など言いたくはないが、不満しかない。
「あなた冬ってどう思う? 季節の冬よ」
突拍子もない質問返しに親方は口元に手を添える。意外。しっかりと雪梅の言葉に耳を傾けてくれるなんて。しかし思い起こすと、こちらから噛みつかない限りこの親方はある程度は親切だ。
「布団から出たくない仕事したくない、だろうか」
「……ずいぶん共感できる具体的な感想をありがとう」
要はそういうことだ。
「冬って嫌われものなのよ。みんな春が恋しくて、一日も早く終わってほしいと思ってる」
たとえば
待ち望んだ春であり都に欠かせない梅。そこに嫌われ者の冬の代表格たる雪の字をつけるなんて。いくら冬生まれだからとてなんと安直な。
「それが私の名なのよ」
冬は嫌われ者でありその名を与えられた雪梅。蝶よ花よと大切に。触れたらヒビの走る氷像のように。まるで壊れ物のように守られてきた。……それが心底、嫌で仕方ないのに。
姉上どうぞ! 弟が雪梅に花を手渡した。三日前のことである。
「どうしたのこれ。勝手に枝を切ったらお父様に叱られるわよ」
細い枝についた梅の花。勝手に手折るなど梅守として、都に生きるものとして言語道断。
「勝手じゃないもん。さっきお兄様と一緒に間引いてきたんだ。初めてだよ。今まさに編んでいる梅の枝に鋏(はさみ)を入れて、こうやって、こうだよ!」
身振り手振りを加えそれはもう嬉しそうに解説する弟。一等美しい花だったから姉上にあげたくて。純真な好意に雪梅は巧く笑えていたかも分からない。
ただひどく、自分が惨めに思えた。
国を支える梅を育てる梅守。その家業を担えるのは男子のみと定められている。理由は知らない。慣習だ。馬鹿馬鹿しいと嘆く暇もなく雪梅には別の役割が与えられた。
常に身綺麗に笑みを絶やさず、梅守の女として恥ずかしくないよう生きること。
雪梅だって家族なのに女というだけで弾かれる。運動能力なら他の兄弟たちにも負けていない。自信がある。それでも女の雪梅は梅守にはなれないのである。それはもう反発して昔から色々やってきて、それは今現在も継続している。……家出とか。
もうじき降梅祭。雪梅に与えられた最も重要な役目。しかし。
本当はみんな、私なんて必要ないんでしょ。
奥歯をぎゅっと噛みしめる。まただ。なんて苦い。
「店に入ってきた時はとんだ不遜な嬢ちゃんだと思ったが」
「おーい。ここなにかしら慰めるとこでしょ」
「お前は卑屈なんだな」
「あなたとことん私をコケにしたいようね!」
「まさか。俺はただ……」不意に言葉が途切れる。なによ、何を言われても負けないんだから。じとりと睨み上げると真摯な視線とかち合った。
「あまりにお前が、息苦しそうで」
苦味がまた喉の奥を広がった。胃の
これが男の言う息苦しいというものなのだろうか。
――卑屈にもなる。
そもそも降梅祭の舞踊の起源は“雨乞い”だったそうだ。
もちろん恵みの雨を願ってのことだが。それ以上に梅は花を散らしてこそ新鮮な実をつけるからだ。
山にも匹敵する高度にある都。その厳しい冬を越すために梅の実は欠かせない栄養源。
春に咲かせた花を雨期に流し、そうして得た実で厳しい冬を超えてまた春が来る。螺旋のごとく巡る自然の摂理に感謝する。降梅祭とはそういう祭りなのだと。もっともらしい言葉で婆やに教えられ十数年。
今の雪梅に言わせれば、梅雨のはじめに踊ればそりゃ雨も降るだろうというものだ。
梅守もしょせんただの人である。なにか特別な力があるわけではない。なのに伝統だのなんだの勝手に有難られ崇められて。無意味な舞いを恩着せがましく踊る。
それに酔いしれることが出来るほど、雪梅は馬鹿になれない。
「あなたは私を心底馬鹿にしてるようだけど。なんだっけ、不遜で卑屈?」
「それはお前の態度に問題があるからだろう。不遜と卑屈は相容れない水と油」
お前は後者だ。ご丁寧に説明されたところで結局どちらも悪口ではないか。
「悪口なものか。要は性根が真っ直ぐすぎるんだろう、雪梅は。傘の芯のようだ」
大きな手が雪梅の頭の上に乗せられた。真摯な職人の顔、あの優しい手つきでしきりに頭を撫でられる。
じん、と目頭が熱を持つ。なんなのよここまで散々馬鹿にして貶しておいて。
不意打ちの優しさなんて――ズルい。
「不遜は自らをたてるが、卑屈は下る。お前はそうも頑なに何に囚われる?」
もしも雪梅が男に生まれていれば。女でも梅を育むことを許されたのなら。いっそ雨降らす人知を超えた力がこの手にあれば。……違う、そんな有り得もしないもしもじゃなくて。
もしも雪梅が母のような立派な舞い手だったなら、きっと苦しむことなどなかった。
ああ、苦い。苦くて呼吸が詰まる。あまりに不味くて飲むに呑めないのに、次から次へと込み上がる。堪らず、雪梅は吐き出すようにこぼした。
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