第2話
まったくついていない。ついさっきまであんなに良い天気だったじゃない。
欝々と毒づきながら雪梅は紅色の降りしきる無人の道をひた走る。店舗の軒先はどこも狭くこの土砂降りでは雨宿りもままならない。当て所なく彷徨っていると一軒の店に目が留まった。……ここなら!
「ごめんくださーい!」
返事はない。雪梅は軒先で梅の花弁を叩き落とし、引き分けの扉を勢いよく全開する。
留守かしら。鍵は掛かっていなかったので店は営業中のはずなのだが。
だめだもう限界。店内に踏み込んでは膝に体重を預けて崩れる。何度も深呼吸を繰り返し、やっと雪梅は丸まった背筋を押し上げる。
真っ白な壁の簡素な店。表の看板に書かれた、白い棒状の品物が壁に沿ってずらっと数えきれないほど陳列されている。ざっと十五帖ほど。それ以上に広く感じるのは空間を遮るもののない一間だからだろう。
雪梅の頭上高く天井には風鈴でも吊るすように今度は開いた商品が並んでいる。綺麗。思わず口が開いていた。天一面を彩るのは――“傘”だ。
圧巻を超え圧倒される。すごい数だ。びっしり連なる一本一本の傘に描かれた絵には何の繋がりもないというのに、それ全体がまるで一枚の巨大な絵画のように思わせられる。
梅華ノ都では傘は雨を凌ぐだけの道具ではない。
雪解けとともに蕾を
雨水は乾かせば良いが花弁はそうもいかない。梅は枝が染料になるほどに強い色を内包している。濡れそぼった花弁は色移りが早く、地味に厄介なのである。
特に傘は長時間花に晒されるためすぐに真っ赤に染まる。それも雨粒の悪戯で目に痛いまだら模様に。そのため都の傘は表面の紙を定期的に張り替えるのが一般的。婆やなんて月に一度くらいは修繕しているようだし。これが本当に面倒くさいったら。
面倒なのにやめられない。だからこそここに粋を求めたのであろう。
梅華の傘は一見するとただの白一色。しかし水を吸うと表面の白い紙を透かし、仕掛けられた絵が浮かび上がるように出来ている。ただ雨風を凌ぐ物ではない。雨の日限定に拝める絵画という装飾品。
ゆえに都で傘作りに携わる者は名義上職人とされるものの、その性質は芸術家。中でも腕の良い職人は “策士”と尊称されるほどだ。
一目で雪梅にも分かった。ここの職人は相当の腕利きだと。
「なんだ、客か?」壁の一画、開かれた白い傘の奥から声がした。
奥にまだ空間があるとは。傘は奥の間の目隠しでもあるようだ。現れたのはなんとも華がある凛とした少年。年は今年十歳になった弟と同じくらいに見える。店番だろうか。
「な、おま、それ以上店に入るな!」
少年は雪梅をみとめるや傘に隠れる。客に対してなんて応対だろう。なんて思っていると今度は布を抱えて現れた。つっけんどんな手に押し付けられ雪梅の顔が手拭いに埋まる。
「……ありがとう。突然の雨に打たれてしまって」
もっと丁寧に親切してくれればいいのに。せっかくの華が霞むというものだ。
「で。濡れ鼠(ねずみ)が傘屋に何の用だ」
じろじろと不躾な視線が訴える。客じゃないなら出て行けと。ならば客になってやろう。
「これで傘を売ってちょうだい」
「……なんだって?」
少年の吊りあがった目がこぼれそうなほど見開かれる。恐れおののいているのだろう。雪梅が頭から抜いた簪に手を伸ばそうともしない。
翡翠は物によっては金より高価。中でも一級の細工師が
「安心して。釣りはいらないわ」
傘など何十本でも買えてしまうが余っても重いだけ。そこは手拭いの好意で手を打つべきだろう。店番の手に対価を握らせ、ほどけて落ちる水を吸った髪を絞るように拭う。その雪梅に想定外の事態が突き付けられた。
「ふざっけるな!」
激しい憤りの声とともに突き返される簪。は? 一体なに。疑問は容易く解けた。
「親方は誇り高き梅華の傘職人なんだぞ。それをこんなちょっと綺麗なだけの石で買い叩こうったってそうはいかないぜ!」
話から察するに少年は弟子らしい。店番ならまだしも弟子などに用はない。誰か他の人。出来れば責任者をと探したところ、目当ての人物は向こうからやってきた。
綺麗な声だと思った。それが第一印象。
「何の騒ぎだ、
黒い髪を結い上げた年若い線の細い男。なにかの作業途中なのだろう。裾をたすきで縛り上げた着流しの浴衣姿。剥き出しの腕はともすれば雪梅より白い。親方! その身の上は少年、目白が明かしてくれた。
親方は雪梅を認めて目を見張る。やばい、バレたか。
行事用に着飾っているわけではないからと油断した。雪梅の顔くらい都の民なら誰しも一度は見たことがあるはずだ。
騒ぎになって居場所が知られれば連れ帰られてしまう。夕餉には戻ると飛び出した手前、すぐさま強制送還など格好悪いったらない。どうにか口止めを……。
身構える雪梅を前に親方が顎に手を添え呟く。
「濡れ鼠が傘でも買いに来たのか?」
は? 一瞬停止した思考が徐々に動き始める。子が子なら親も親ね。言動はもちろん、吊り上がった目つきの悪さなど瓜二つだ。
「聞いてくれよ。コイツがうちの傘をあんな石で買うなんて言い出したんだぜ」
あんなのとは何よ。雪梅は簪を掲げてみせる。「物の価値も分からない子どもに用はないわ」「なにを!」言い合う様子に親方は事態を把握したらしい。
「目白、お前にはあれがなにか分かるか?」
金じゃない。即答である。
「なるほど。目白が正しい。物の価値も分からない、うちはしがない傘屋なもんで。傘を売ってほしけりゃ金を準備しな、嬢ちゃん」
コイツに、嬢ちゃん。二人して舐めてくれたものだ。価値が分からない?
「なら教えてあげるわ。この翡翠は傘何十本分にも値する。あなた達二人なら半年以上は贅沢できるもので――」
「話の分からない嬢ちゃんだな。うちにはお前に売れる傘などない。なぜならば」
傘というのは、身の丈なんでな。そう言って親方は雪梅の頭に手を置く。まるで聞き分けの悪い子どもを諭すかのように。――なんという侮辱だろう。
「無礼な!」この私を誰だと思って、とはさすがに言えないけれど。
子ども扱いとは何事か。すると喚く雪梅の襟首が力強く掴まれ、土間を引きずられていく。店先では目白が扉を開いて待っており、投げるように店の外へと放り出された。眼前すれすれ、
「客でもない、むやみやたらと噛みつく狂犬を店の中に入れるわけにはいかない。
なんと人が悪い。むしろ同じ人とは思えない。
雪梅の人生でこのような非人情的な扱いを受けたのは初めてだ。どうせ放り出されるというのなら最後にとことん噛みついてやる。
「私はもう十六。結婚もできるし仕事だってしてる。立派な一人前よ! だいたい嬢ちゃんじゃなく私には雪梅っていうちゃんとした名が――」
続く台詞は声にならずに抜けていった。やってしまった。
いくら頭に血が登ったとしても自ら正体を明かすなどとんだ失態。さすがに名を聞けば二人の顔も……しかし窺う二人の様子に変化はない。雪梅には好都合なのだが、それはそれでどうなのだ都の民のくせに。
「つ、つまり私が言いたいのは商売人が客を選ぶのかということよ!」
「金もないやつが吠えるなよ」それはまあその通りなのだが。そもそもそれ以前の問題だと親方は言う。
金の問題でないのならことさらに性質が悪い。雪梅のいったいどこが気に喰わないというのか。
「
吹き出す怒りに肩が震える。無知とはなんと愚かな事か。梅守本家長女に不遜だなどと。
反撃の口火はしかし、切られることなく燻り消えることとなる。
「あの、お取込み中失礼しますー」
限界まで引き絞られた弦が突如緩むような感覚。いさかう店先へと寄って来たのは一人の少年だった。
既視感を覚える姿。傘もささないその姿に目白の顔が変貌する。
「お待ちしておりました! どうぞ中へ」
満面の笑顔が花開く。準備していたのか新たな手拭いを丁寧に手渡す。ずいぶんな扱いの違いだがそれ以前に、誰だお前は。
唖然と固まる雪梅の背が押された。外から内へと。
「こちとら客商売。店先に立たれると迷惑だ」
「……廂ならかしてくれるんじゃなかったの?」
言うことが逐一変わる男だ。目だけで凄むと、理解が悪いなと盛大な溜息を吐かれた。本当になんなのこの男。
「黙ってるんなら、雨宿りくらいしてっていいと言っているんだ」
へ? 我ながらずいぶん間抜けな声が出た。
「黙ってろ」
それだけ言い捨て親方は店の奥へ。草履を脱ぎ捨て一段上がった畳の上に座り込む。奥の間から現れた目白はなにか言いたげだったが、親方に倣って雪梅を追い出そうとはしなかった。
「こちらがご依頼いただいた傘でございます。どうぞ」
「ありがとうございますー」
目白から傘を受け取ると少年は宝物のように両手に抱え込み、店を出て行った。
いやいやいや。おかしいでしょ。――どこに行ったのよ身の丈は。
「うちは依頼品に関しては前金制だ」
先手を打たれるが、そもそも金の問題ではないと豪語していたのはどこの誰だ。
「お前の目は節穴か。あの傘は大人用だったろう。しかも雨の中、受け取った傘をさすことなく抱えて帰る。あれは彼のものではない。彼を雇う主人のための傘だ」
なるほど主人の傘だったのか。ひとまずは納得。ごくごく一般的、あえて言葉を選ぶなら質素な身なりの幼子。それも雪梅と同じずぶ濡れ鼠だったのだから。
彼に売れて雪梅に売れないなど理解できない話だ。一人頷く雪梅に親方はやれやれと肩を落とす。
「お前は他者を貶めないと自分を保てないのか?」
なによその言い方。貶めたつもりもないし自分を保つ? なに言ってるの訳分かんない。
ぐらぐら煮える鍋のように言葉は胸の内に溢れたのに、何故かそのどれも喉の奥につかえて出てくることはなかった。
なんだろう、苦い。呑み込みたくともなかなか下せない。薬湯のような苦味が言葉とともに喉に停滞する。
「……何が言いたいの?」絞り出した問いは精一杯の抵抗だ。しかし。
「目白、雨で悪いが買い出しを頼めるか。夕餉の食材が足りなくてな。ついでに……」
つくづくこの男は! どうしてこのタイミングで雪梅を放置して夕餉の話なんか――文句は口ではなく腹から鳴った。
「言っとくがお前の分はないぞ」
いらないわよ! あまりの不覚に雪梅は崩れる。どうして昼餉を済ませてから出てこなかったのか。あろうことか憎き男に醜態を晒すなんて。
「仕事しててくださいよ」「分かってるって」軽い二言三言を交わし、顔の上げられない雪梅の横を目白が通り過ぎて出て行く。
外の雨音は当分、止みそうもなかった。
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