シャボン玉と魔女

レンga

シャボン玉と魔女

「わあ!できた!」

 虹色に揺らめく球体が、ふわふわと宙を泳いでいる。今、私が膨らませたかわいいシャボン玉だ。

「リル、触れてごらん。あなたの初めての魔法よ」

 すぐ隣、やわらかなブロンドを風になびかせ、母が微笑みを浮かべて愛おしそうに私を見る。私よりも嬉しそうな、暖かい笑み。

 私は興奮を抑えられないまま、手を伸ばす。シャボン玉は、そんな私の手から逃げるようにスーッと森の木々の隙間へと吸い込まれていった。

「あ、まって!」

 走り出した私を、母は何も言わずに見送った。

 手を伸ばし、森の中をかける。夕暮れが木漏れ日となって降り注ぎ、逃げていくシャボン玉を、オレンジ色に輝かせた。

「まってってば!」

 どれだけ走っても、シャボン玉は待ってはくれなかった。ずんずんと、森の奥へ、奥へと逃げていってしまう。

 私がせり出していた木の根に足を取られて勢いよく転ぶと、シャボン玉は急に止まった。ふよふよとこちら側に近づいてきて、そうしてその可愛らしい虹色の表面をこれみよがしに震わせ、揺らめかせるのだ。

 挑発するみたいに、転んだ私の周りをリズミカルに上下運動しながらふよふよ、ふよふよと飛び回る。

「こ、のお!私が作ったんだぞー!」

 私が怒って声を荒げると、シャボン玉はピタッと動きを止めて、そのまま真上、オレンジの木漏れ日が差す葉の間を抜けて空へと消えて行ってしまった。

「あら、逃げちゃったわね」

 いつの間にか私の側に立っていた母が、いたずらっぽく笑って、シャボン玉を見送る。「あなたの魔力が、まだ未熟だったからかしら」

 私は泥を払って、立ち上がる。シャボン玉が逃げていった先を見て「ばか!」と叫んだ。

「あの魔法のシャボン玉は、ちょっとやそっとじゃ割れないわ。きっと、そのうち寂しくなって戻ってくるわよ、あなたが作ったのだから、あなたの元にね」

「もどってきたら割ってやるわ、絶対」

 私はそれから、なんどもまた魔法のシャボン玉を作ろうとしたけれど、どうしても出来なかった。

 それ以外の魔法は、いくつも覚えたのに。


 それから十数年がたち、母が死んだ。

 魔女の葬式は質素だ。数人の知り合いと、唯一の家族の私が、彼女の死を悲しんだ。

 森の奥、精霊の泉に彼女の死体を投げ入れて、その体が魔素となって泉に溶けていくのを眺めて、漆黒のローブの袖で涙を拭った。

 きっと母が見ていたら、行儀が悪いと叱っただろう。でも私は、行儀の良い魔女になんてなりたくないから良いんだ。母の死くらい、好きに悲しませて欲しかった。

 他の参列者が私に励ましの声をかけて去って行くと、いつしか泉には苔むした石に座る、私1人が残っていた。

 悲しみに暮れるなんてのは私の性には合わなかったけれど、なんとなく母との思い出を反芻していたんだ。

 そんな泉の、夜明けの霞がかった雲の間から、なにやら妙ちくりんな球体が、ふよふよとこちらに向かって飛んできた。

「お、なんだなんだ、かあさん死んじまって悲しんでるのかいご主人様」

 妙な玉は、私に近づくやいなや、私の周りをリズミカルに上下運動しながら飛び回る。

「あんたらしくないねえ、かあさん死んでも、ケロっとしてそうなもんなのにさ」

「なによ、人の気も知らないで」

 私はいらいらしつつも、できる限り冷静を装って言う。「逃げていって、戻っても来なかったシャボン玉にどうのこうの言われたくないわ」

「別に逃げていったわけじゃないさ、おれを捕まえる事も出来ずに転けたご主人様と一緒にいたら、すぐに割られちまうと思っただけ」

 私は立ち上がって、シャボン玉に背を向けた。今更こんなシャボン玉と話していても意味はない、母との事を思い出して涙腺が緩むだけ。そうなったらまた馬鹿にされる。それは避けないとと思ったのだ。

「なんだ、もうおしまいか? せっかくの再開だってのに、ほら、おれに触れないとおれを使い魔にできないぜ?」

「今の私は、あの頃とはもう違うの。べつにあなたじゃなくたって、使い魔は何匹もいるわ。すこしでも私の近くに来てみなさい? すぐに割ってあげるから」

 シャボン玉は「おお、それは怖い怖い」と表面を水色にしてそ言う言うと、「それじゃあこの距離からで良いから、ちょっとばかしおれの話に付き合ってくれよ、せっかくの再会なんだ、少しくらいいいだろう?」

 さっきまで私が座っていた苔むした石に乗っかって、シャボン玉は愉快そうにそういった。「ほら、ほんのちょっとだけだからさ」

 私は泉の近くの大樹に背を預けて、腕を組み、ため息交じりに「分かったわ、それじゃあ少しだけあなたに付き合ってあげる。もう少し、ここにいたいしね」

「よしきた!」と、シャボン玉は勢いづいて話始めた。


「ご主人に生み出されて、あの夕暮れに逃げ出してから、おれは旅をしてたんだ。長い間、色んな場所を巡っていた。それはもう楽しい旅だったさ、きっとご主人も知らないような世界を見てきたんだぜ?」

「なんだか長くなりそうね、大丈夫かしら」

「大丈夫だから、黙って聞いてておくれよ。それでな、その中で不思議な人に出会ったんだ」

「不思議な人?突拍子もないわね」

「あそこはこことは違う森だったな、北に千数百キロくらい先に、魔女の住む森がもう一つあるんだ。ご主人も知ってるだろう?」

「馬鹿にしないで。ゾスの森でしょう?でもあそこの魔女はもうずっと前に死んで、今は人間の夫だけが1人で住んでいるんじゃなかったかしら」

「さすがご主人!でも、事実はちょっと違っていてな、魔女の旦那と、娘がいたんだ」

「娘?それは聞いたことがないわね」

「そう、それでその不思議な人って言うのはな、その娘さんなんだ。綺麗な人でね、ブロンドの長髪と、澄んだブルーの瞳。きっと人間とのハーフだからだろうな、普通、魔女は黒髪のはずだ」

「そう?それは人それぞれなんじゃない?」

「それはご主人のところもなんか色々あったんだろうさ」

「それでその人がどうしたって言うのよ」

「その人がね、おれに言ったんだ『私がもし死んでしまったら、私の娘をよろしくたのむ』って」

「へ?なにそれ」

「『あの子は意地っ張りで、知りもしないことを知ってる風を装って適当なことを言うけれど、どうかそれに乗ってあげて、じゃないといじけるから』って」

「……」

「ゾスの森ってなんだ?おれはそんな森知らねえぞ。そこにいる魔女の旦那とかよくそんな想像が働くな」

「なにが言いたいの。私を馬鹿にしに来たっての!?」

「ちがう、ご主人のかあさんからの伝言を伝えに来たのさ」

「だからそれってどういう事なのよ? あなたは私が作った使い魔なんでしょう? 一体いつ、そんな伝言なんて……」

「あの人も難しい人なんだよ。ご主人に自信が付くように、まるであんたが初めて魔法に成功した!みたいな風におれみたいな高位の使い魔を生み出して、伝言役にしたんだ」

「……」

「おれが逃げ出して、ご主人、猛勉強したろう? それがかあさんの狙いだったわけさ。それで、自分が死んだらご主人、あんたに伝えて欲しいことがあるって、俺をよこしたのさ」


 私は何も言葉を返すことが出来なかった。かすんでいた空に、ゆっくりと太陽が昇り始めていた。

 風と踊るみたいに、シャボン玉は石から浮かび上がったかと思えば私の頭上に飛んできていた。なんでもお見通しだ、なんて言葉がすぐにでも聞こえてきそうな気さえした。

 大樹にもたれかかったまま、ぼんやりとシャボン玉を眺めて「それで、その伝言ってのはなんなの」と、いつの間にかそんなことを口走ってしまっていた。そんなの、知りたくなかったのに。


『リル、愛しているわ。あなたが立派な魔女になってくれたこと、私は誇らしく思う。このシャボン玉の声が聞こえると言うことは、あなたは私に追いついたのよ』

「そんなことない!」と、声に出しそうだった。私なんか、まだ母の足下にも立っていない。

『でもね、リル。きっと私が魔女じゃなかったら、きっと今もあなたの側にいることが出来たでしょう。私は魔女だったから、あなたの前から姿を消したの』

 意味が分からなかった。母は人間であることを望んでいた? 魔女になりたくなかった? 私を魔女にしたくなんてなかった? 一体どういう事なの。

『魔女はね、人を深く愛すると、死んでしまうの。それは異性でも、家族でも同じ事なのよ。私はあなたを深く愛していた。そして、それでいいと思った。あなたを愛さない事なんて、考えられなかったから』

『リル、最後まで、あなたのことを愛しているわ。でも、あなたは私をこれ以上愛さないで、忘れるの』

 できるわけない、そんなこと。

『これをあなたに伝えないといけなかったから、このシャボン玉をあなたに向かわせたのよ。それを割れば、あなたは私のことを全て忘れることが出来る。私の体は、もう泉に溶けているでしょうから』

「できないよ、そんなこと」

「いや、あんたはおれを壊さないとならない」

「なんで、そんなことしないといけないの、私は母のこと、忘れたくなんかない!!」

「でも言ったろ? 『戻ってきたら、割ってやる』って」

 時間が止まったみたいに、シンと静まりかえる。風も緩やかで、木々の葉のこすれあう音も聞こえない。

 泉の水面のゆらめきだけが、ただひとつ、時間が過ぎていることをかすかに感じさせるだけだ。


「割っておくれよ、あんたのかあさんの願いだ」

 私は、息を吸って、吐いて、吸った。

「――やだ」

「ちょっとまってくれよ、それじゃ、かあさんの願いはどうな――」

「私は魔女だ。母に魔法を教えてもらった偉大な魔女だ。自分の生き死にくらい、自分で決める。母のことを忘れて、これから長生きしようだなんてこれっぽっちも考えてなんかない!」

 思わず声がうわずって、流れる涙をもう一度袖で拭った。

「母は私に、試練を与えてるんだ。シャボン玉、おまえは私を長生きさせるためにいるんじゃない、おまえはきっと、母が用意してくれたギブアップ用の装置だ。きっと母は、自分に出来なかったことを私に託そうとしてくれてるんだ」

 自分でも、支離滅裂なことを言っているのは分かっていた。それでも、自分に言い聞かせるようにまくし立てる。

「そうじゃなきゃ『娘をよろしく頼む』なんておまえにそんなこと言うわけない! 私の母が、そんな簡単な仕掛けをするわけがないんだ! 私の記憶から母を消す? それで私が長生きするのが母の望み? そんなわけない!」

 私はシャボン玉に一歩近づいて、顔を近づける。

「――私が割るまで、絶対割れるな」


「おお、こわいこわい」

 シャボン玉はひょうきんに笑うみたいに虹色の表面を揺らめかせ「それで、その、かあさんが出来なかった事ってのは何かな、ご主人様」と楽しげに語りかけてくる。

「きっと、ずっと入れてもらえなかった母の部屋に、なにかヒントがあるはず」

 何も分からなかったけれど、ひとまず私はそう言って、精霊の泉を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

シャボン玉と魔女 レンga @renga

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ