場面4 五年前、夜祭前、境内にて

 けさがた、ある夢を見たんだ、おれはそれを夢だと思っているが、ほんとうは実際起きたことなのかもしれない。筋はこうだ、夢の中でおれは、一人で打ち上げロケットを作っている。何度も失敗するが、そのたびに問題を改善して再挑戦する。トライ・アンド・エラーを繰り返し、だんだんと最大到達高度が伸びていく。ついにロケットの初速度が第二宇宙速度を超え、重力のタイラントな支配から自由になる。役目を終えた推進部は宙空で切りはなされ、残りは人工衛星となって地球の外周を回り始める。まさに感動的な場面だ。人工衛星の全てはおれの制御下にある、しかし、ここが大事だ、しかしその一方で、その体験の全ては人工衛星が享受している。つまり、ロケットを打ち上げたのはおれだが、その成功からおれは何も得ることができない。ただ打ち上げ場でぽつんと立ちすくんでいる。そしておれは人生でほんとうに行うべき仕事について理解し、すぐに取り掛かる。しかるべき時間ののちおれは、これが最後となるロケットの打ち上げを宣言する。そのロケットはおれ自身だ。打ち上げられたおれは、大気圏脱出の高熱に耐え、星の海で人工衛星となって衛星軌道上をたゆたう。宇宙空間は安らぎに満たされ、それは祝福のメタファーでもある。つまりおれという人間は幸福な結末を迎えたのさ。そしてもちろん、おれを打ち上げたのはきみだ。生天目はわたしを指差し、それで彼の話は終わりのようだった。生天目、きみは、わたしは途方に暮れながら言った。わたしなんかよりよっぽど小説家に向いてるよ。

 鳥居をくぐり、少しの傾斜をともなった、ぐねぐねと覚束ない石畳の参道を進むと、ようやく境内が広がりを見せた。手水舎から拝殿の手前にかけて、剥き出しの屋台が帯状に連なっていた。夜祭に向けて、何人もの流れ業者が夜店の屋台を組み立てているところだった。平時の静けさと比べるとにわかに騒々しかったが、夜祭に繰り出してくるであろう人出を思えば、それはほんの前触れに過ぎなかった。あたりにはわずかに香ばしく、甘い匂いが漂っていた。時刻は昼の二時を回ったところで、日差しが容赦なく照りつけていた。わたしたちはそろって汗だくになりながら、屋台の波を横切っていった。かき氷、と大きく書かれた調子のいいのぼり旗が、がらんどうな屋台の骨格からせり出しているのを、生天目が恨めしげに見つめていた。

 拝殿から向かって右側を進むと玉垣の途切れている箇所があり、それはこの神社の裏参道とも呼べる代物で、石造りの狭い階段が浜辺へと続いていた。背の高いブナの葉があたりを覆っていた。よくある凡庸な高木だが、境内にあるというだけでどこかしら神聖な印象をまとっていた。木陰はときおり海から吹く風によってサワサワと揺らされ、ホログラフィックな明滅を見せた。わたしたちは石段に座り込み、道すがら買ってきた瓶ラムネを飲んだ。夏も終わりだな、生天目が呟いた。夏はまだ終わらない、厳密に言えば、わたしは理論的と思われる反駁を試みた。終わるのは夏休みだけだ。で、英語の宿題は終わったかい、生天目の底意地の悪い質問にわたしは、素っ気なくひとことで返した。おかげさま。ラムネを一気に飲み干すと、瓶の中で透明のビー玉がからんと鳴った。夜祭には来るつもり? わたしが尋ねると、ああ、そのつもりだ、と生天目は答えた。いいね、わたしは満足げに言った。この階段の下の浜辺で待ち合わせよう。表参道はそれなりに混むから、それが最善策だ。わたしたちは石段を降りはじめた。足元に気をつけるようにとわたしは念を押した。海沿いの石は滑りやすくなっているものだ、とはいえ結局、滑ることはなかった。

 降りながら、わたしは生天目に、二つほど尋ねてもいいかい、ときいた。もちろんだ、おれたちの間に隠し事はなしだぜ。まあ、この時きみがおれに尋ねたのはひとつだけだったはずだけど、なんにせよ構わないさ。まずひとつは、わたしは言った。どうしてきみは絵を描くのかといったことだ。この先、芸術家として名を残したいのか? 生天目は思案顔でうつむき、答えはじめた。正直に言えば、わからない。功名心以外にも、もっと熱狂的な理由、よりプリミティブな根源がある気はしているが、定かなものじゃない。今のままでは不十分だ、という強迫観念があるのかもしれない。でも、どうすればそれが満たされるかはわからない。ただ、おれが望んでいるものを表現するには、絵はまずくはない、という手触りはある。それを信じているんだ。すがりついている、と見えなくもないだろうが、結局は同じことだ。でも芸術家なんて……わたしは言った、虚業じゃないか……。それはそうさ、芸術家なんて虚業だ、ビジネスじゃない。表現は自己満足のためでしかありえないね。金や機嫌取りのためにイデオロギーを殺して描くような作品なら描かないほうがましだ。だからきみ、ばかなことは考えるなよ。生天目は、お見通しだ、とばかりにわたしを一蹴したので、きまりの悪さを誤魔化すためにわたしは不要な屈伸運動をしなければならなかった。それを見て生天目は楽しそうにくっくっと笑った。どうやら、おれの忠告は役にたったみたいだな。

 とにかくもうひとつの質問は、わたしは一呼吸置いた。どうして今夜、きみは夜祭に来なかったのか。その理由が知りたいんだ。この問いかけは今度こそ生天目を黙らせるのに成功したようだった。来るって言ってたじゃないか、わたしはほとんど語りかけるように言った。きみは夜祭に来ると言ったんだ、さもなさげにね。きみと、この階段の下で夜に待ち合わせをしていたのに、結局きみは現れなかった。きみが予定をすっぽかすなんて初めてのことだったから、わたしはきみが事故にでもあったのかと思って、電話をかけても出ないし、結局夜祭が終わるまで待ちぼうけて、ばかみたいだった。そのあとも連絡が取れずに、結局五年間も音信不通になった。だからここが、わたしの記憶の中できみと最後に会った場所なんだ。よせよ、生天目が言った、おれにも事情があったんだ。そうとも! わたしは言った。どんな物事にも事情はつきものだ、そしてわたしが知りたいのは、まさにその事情なんだよ。たしかに、事情は大事だ、でもおれが知るわけないだろう。生天目は静かに反論した。いいかい、おれの気高い友達。ご存知のように、いま、きみが話している相手は、明晰夢のごとき追憶にすぎない。きみが知らないことを、どうしておれが知れるというだろう。確かにおれはここで、さもありそうな、しかしその実まったくの妄想の産物でしかない理由を並べ立て、誠心誠意の謝罪をして、きみの慈悲を求めることも可能だろう。ただそれを、つまり、きみの中に構築されたおれという人間像に対するそういった侮辱を、きみの良心は許可しないだろうという、ただそれだけの単純な話なのさ。その篤厚に免じて、この質問の答えはひとつ諦めてくれないか。わたしは釈然としなかったが、結局のところ、そうするしかなかった。

 けたたましく蝉が鳴いていた。石段の下に広がる砂浜と、その先の青い海を生天目は見下ろした。思えば生天目はいつも海を眺めていた。この島はいい場所だ、まるでゆっくり流れる時間のようだ、きみはいつかこの島から出て行くのかな、生天目が言った。いつかは出ることになる、とわたしは答えた。大学に行くならね。いつまでもここにはいられない。この島には持続性はあるかもしれないが、発展性はないだろう。上等じゃないか、生天目は言った。発展とはなにかを捨て去ることさ、そしてこの島には、捨てるべきものはなにもないと思う。島を出たきみはそれに気付くだろう。きみの作品に足りていないのは経験だ。だからさ、きみ、おれからもひとつ宿題を出そう。おいおい、そんな嫌そうな顔をするなよ。なにも数日や数週間のうちに取り掛かる必要はないんだ。宿題と言ったのはただのレトリックだよ。期限は設けない。きみが達成できたと思ったら、いつでもおれに見せてくれ。わかったよ、聞くだけは聞いてやる、わたしは言った。で、その宿題って? それこそ簡単なことだ、生天目は言った。きみが本当に書きたい小説を書いてくれないか。これまでのように手さぐりではない、完成された、きみの信念が疑う余地もなく反映された小説だ。方位磁針のような精確さをもって行く宛てを示す、きみの代表となるような作品だ。

 わたしは少し考えて、言った。たしかにやり甲斐のある課題だ。ただし、受けるにはひとつ条件がある。きみも同じ宿題を負うことだ。いいね、生天目が目を細めた。そうこなくちゃ。

 我々の後ろ、境内に立ち並ぶ屋台のほうでポップアレンジされた民謡が流れ始めた。どうやらスピーカーのテストをしているようだった。そのあまりにも野暮ったい音色に、わたしたちは思わず笑ってしまった。生天目のラムネも空になったのを見はからって、わたしはその場から立ち上がった。忘れかけていた潮の匂いがした。おれの出した宿題を忘れるなよ、生天目が言った。まったく、師匠かなにかのつもりかよ、わたしはそう軽口を飛ばしたが、それは思ったよりしっくりきたので驚いた。ある意味で生天目はわたしの師だった。その宿題については、まあ、気長にやっていくさ。じゃあ、夜祭で。そう言ってわたしは生天目と別れた。ごくさっぱりとした、まったくなんでもないような別れだった。

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