場面3 五年前、未明、路線バスにて
お若いの、切符を落としたよ。老人の声がかけられてわたしは、自分がほとんど微睡んでいたことに気がついた。すみません、ぼっとしていたようだ、わたしは頭を下げつつ老人の差し出した路線バスの整理券を受け取って見ると、それは確かに自分のものであることがわかり、再び頭を下げた。まったくきみは、二人掛けの窓側に座っていた生天目が呆れた声を出した。車内は静まり返り、運転手の他にはこの老人と我々二人しか乗っていないようだった。窓の外は薄暗く、まだ夜明け前のようで、かろうじて海沿いを走っていることがわかった。わたしは少し混乱したものの、たしかに生天目とこの時間にバスに乗ったことがあったと思った。
次は、油良東、油良東。運転手のアナウンスが響いたが、我々の誰も降車ボタンを押さないので、バスはスピードを下げることなく通り過ぎた。朝もやに包まれた海辺と田園の風景に挟まれながら、暗い冥府のような道をバスはひた走った。白くほのかな下弦の月が、海の果てで水平線に溶けようとしているのが見えた。たまさか跳ね上がる車体の振動が我々を共同的にしていた。
夜釣りですか、と生天目が老人に聞いた。車壁に立てかけられた細長い釣竿ケースと、床に置かれた臙脂色のクーラーボックスを見ればそれは明白だった。ええ、老人が答えた。島の東のほうにちょっとした穴場がありまして、水道が流れ込むので、真鯛がよく釣れるらしいのです。それはいい、生天目が相槌を打った。釣りというのは魚が釣れれば釣れるほどいいからね。釣果のほどはどうでした? いや恥ずかしながら、今回は六時間も粘って二匹というありさまで。老人はクーラーボックスを開けて、中身をわたしたちに見せてくれた。よく太った、赤光りする真鯛が重なって入っていた。この真鯛以外も釣れはしたが、雑魚は逃してしまったのです。いやはや、とはいえ素晴らしい真鯛だ、このレベルの仕事には滅多にお目にかかれるものではないよ、生天目が絶賛した。ありがとうございます、これでも昔は漁師だったのですが、衰えたものです。もう一匹ばかしでも釣れていたならぜひあなた方に差し上げたかった、ですが、あいにく女房に最低二匹は釣らないと家に入れさせないと脅されているもので、老人は頭を掻いた。わたしは仰天して、たとえ仮にあと何十匹と釣れていたって、こんな大層な真鯛をただではいただけない、そんな失礼な真似はできない、と強弁した。老人は一瞬、虚を突かれたような表情をした。生天目は面白そうに目元を歪ませて、ばかだなあ、リップサービスだよ、とわたしに耳打ちした。
ところでお二人はどういった知り合いですか、気をとりなおして老人が言った。友人です、生天目が率直に答えた。といっても、交友を始めたのはごく最近の話ですが。表現のことで意見を交わすようになったんです。わたしもそれを受けて頷いた。それはいい、老人の言った何気ないその一言が意趣返しのように機能していることに、彼は気づいていないようだった。実にいいですな、我々のような歳になると、新しく友人を作ることにも難儀しますから。若さは何物にも代えがたく、いまや時間による汚染は進むばかりだ。老いには精神的な面もありますからね。若者との乖離、これは本質的な意味での乖離です、この乖離によって目に見えずとも存在している境界の外に追いやられてしまうわけですな。ところで、そうだ、あなたがたが友人同士なのは分かりましたが、こんな始発のバスに乗って、どこかへお出かけですか。じつは、我々も帰路なのです、生天目が答えた。生天目にばかり会話を任せてしまっていることに罪悪感がないではなかったが、夜更かしのせいで眠く、わたしは会話が億劫になっていた。こちらもほとんど夜釣りみたいなものですよ、蛍が見られると又聞きに及んでね。鑑賞に行ったんです。蛍といえば夏の風物詩ですからね。生天目は足元に畳んで置いていたイーゼルを指差した。うまくいけばスケッチに残すつもりでしたが、あの暗さじゃ土台無理だったろうな。残念ながら、蛍には会えずじまいでした。代わりに、焚き火を焚いて夜通し会話を楽しみました。手持ち花火なんかもあればもっとよかったな。蛍ねえ、老人は顎を自身の指で挟みこんだ。そりゃもしかして、海蛍のことじゃないですか。ほら、海の中で光る。飛ぶほうの蛍もいるにはいますけどね、見頃は六月だし、ちょっと時期外れですよ。思わずもたらされた真相にわたしたちはすっかり参ってしまった。あちゃ、ウミホタルねえ、生天目は悔しそうに言った。そいつはちょっと思いつかなかったな、ねえきみ、次はウミホタル鑑賞に挑戦する必要があると思わないか。悪くないが、でも、結局は行かなかったじゃないか、わたしはそう言った。全ての願いが叶うとは限らないさ、生天目は悲しげに言った。それでも、抱負を持つことに意味があるんだ。
なるほど、あなたは絵を描くんですな、とすると連れの方も、絵を? 会話の矛先が急に向いたので、わたしはしばらく言葉に詰まった。いや、わたしの場合、文字です。なるほど小説家だ、老人は得心いったようすで頷いた。まあ、書くものといえば短編小説ばかりですが、わたしはしらじらしく弁解した。いや、短編というか、ほとんどは掌編、それも散文詩のようなものです。長く書くのはどうにも苦手で。長く書けば書くほど、仔細な表現ばかりにこだわって、根幹の部分が形を保てなくなっていく気がするんです。老人はにこやかに首を振った。それでも書かないよりはましだ、テーマはなんですか? そうですね、いうなれば弔いについて、あるいは循環と、その停止性について、とでもいうのかな。弔いといっても、死が常に媒介するわけではないんです。例えばある話の中では、後天的に全盲になった写真家を登場させました。けれど、その写真家の感性はずっと豊かなままなんです。なんだかよくわからないな、老人が言った。じゃあ、それはいったい誰に対しての弔いなんですか? 失われたものです、わたしはできるだけ真摯に答えた。または、失われたように見えて最初から存在しなかったもの、別れのようなものです。すみません、自分自身でもよくわかっていないので、それをいま探している途中なのです。おそらくだけど、生天目が口を挟んだ。どちらかといえばそれはわたしに向けられているようだった。おれたちは同じテーマを共有しているように思うんだ、そこにはただ空間的か、時間的かの違いがあるだけで。生天目が言わんとしていることはわかったが、それはあまり自分に根ざした感覚には思えなかった。
興味深い話をありがとう、老人がにこやかに言った。本当にすみませんが、しばらく目を閉じさせてください。どうやら自分で思っていたより疲れ果てているらしい。ぜひそうしてください、生天目が答えた。ありがとう、いい退屈しのぎになりました、お互いにとってそうであればいいのですが。わたしたちは、老人を安心させるよう、沈黙にそれを滲ませることで答えとした。ほんのしばらくすると、老人は短く断続的ないびきを始めた。
ほどなくバスは島で一番大きな神社に差し掛かるところだった。次は、鳥居前、鳥居前。わたしは停車のブザーを鳴らした。自宅に戻るために、路線バスの乗り換えをここでおこなう必要があった。停留所に到着すると、それじゃお先に、ああ、また連絡する、と会話を交わし、生天目と老人を車内に残してわたしはバスを降りた。徹夜明けのせいか、妙に空気がしんと冷えきっていると感じた。The blue hour.物理教師が雑談混じりに言っていた。日出前と日没後に空はどこまでも深い青に染まる。オゾン層の吸収スペクトルが地平奥の太陽光から青色帯だけを透過させる。キジバトがどこかで伸びやかに鳴いていた。薄闇のなかで無頼に佇んでいる時刻表によれば、目当てのバスが来るまで二十分も待たなければならなかった。わたしは石造りの鳥居に背をもたれ掛けた。ようやく朝日がのぼろうとしていた。
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