場面2 五年前、夏の午前、浜辺にて
ほんとうにきみは救いようがないな、こんな天気のいい日に浜辺に来るのに、英文法の教科書を持ってくるなんて。打ち寄せる波のコーラスをバックに、生天目がわたしをからかった。浜辺にはいつもやつが先にいて、木組みのイーゼルにスケッチブックを立て掛けて絵を描いていた。五年前、高校二年生の夏の、ほぼ全てと言っていい期間を、わたしは生天目とともに過ごした。瀬戸内海に浮かぶこの島は群島のひとつで、本州とは橋で繋がっているため実質的には半島のようなものだったが、それなりに人口は多く島内には学校もあったので、わたしはその歳までほとんど島から出ることなく生きてきた。それにしても惜しかったなあ、生天目が言った。もう十分も早く来れば面白いものを見れたと思うぜ、なんだと思う。さあ、わたしは答えた。クイズのつもりなら、選択式にしたほうが良い問題になりそうだ。生天目はにやりと笑った。そりゃあばかに気の利いた提案だな。わかった、今から選択肢を考えるから一時間ほど待っていてくれ。わたしは、茶番はやめにしないか、と申し出た。どうせその絵がそうなんだろう。御名答、生天目が囃した。白いスケッチブックには一羽の海鳥が素描で描かれ、そのくちばしを楽器ケースのように細長い貝殻が覆っていた。さっきまでここにいたんだ、おれの見立てでは、やっこさん、その貝殻の中にいた虫か何かを食べようとしてくちばしを突っ込んだ拍子に、中の構造に尖端が突き刺さって取れなくなったんだな。なかなかにシュールだった。かわいそうに、だが、モチーフとしては上々だ。その奇妙な海鳥の絵は、全体的には荒々しいタッチだったが、羽毛の触感がわずかな陰影で表現され、紙の表面にいながらも実在感を伴って海辺の風景に馴染んでいた。見事なもんだ、わたしは素直に生天目の絵を褒めた。見事なもんか、節穴め、こんなのは手慰みのクロッキーみたいなもんさ。おれが描きたいのは、もっと自由で、巨視的な絵だ。そう言うと生天目はスケッチブックをめくり、真新しいページを開いて設置しなおした。生天目がいつから絵を続けているのかわたしは知らなかったが、どうやら明確な理想をもって取り組んでいるらしいことは彼から聞き及んでいた。さっきの絵は完成させないのか? わたしが尋ねると、生天目はあからさまに肩をすくめた。あれはあれで完成だし、別の言い方をすれば、あれが完成することはない、生天目はそう答えた。おれがいま描いているのは断片にすぎない。こうしてお前に見せているのは素描ばかりだが、なにも素描ばかりを描くわけではないよ。家ではパレット片手にカンヴァスに向かってる。おれの考えでは、絵ってのはカンヴァスに絵の具で描かれたものだけが正統だ。けれども外にカンヴァスを持ち出すのはあまりいいアイデアじゃないんだな。つまり、潮風や砂塵や日光が画面をダメにしてしまうんだ。かといって家に篭ってたんじゃあ手ざわりのある絵は描けない。イマジネーションも創作に必要だが、肝要なのは解像だ、そのためのスケッチなんだ。おれが実際に見たモチーフ、それについておれの受けた印象、紙の上に再構成するにあたって考えたこと、そういったすべてをここに保存して持ち帰る。さればこそそれは、カンヴァス上に施されるこの世界についての記述の断片、フラグメントなのさ。どれだけ解像しても解像しすぎるということはないよ。と今さら説明したところで、きみはもう知っているだろうが。わたしはただ首肯した。やれやれ、生天目はスケッチに戻った。緩やかに潮風が吹き、椰子の葉を揺らした。
関係代名詞の格変化と先行詞による変化の組み合わせを頭の中で整理するのにわたしが苦心していると、そんな無駄なことをしてないで、こっちに来て話そうぜ、そう生天目は言った。頼むよ、椰子の木陰でわたしは目を上げずに答えた。学期明けの試験が本当にまずいんだ、落第するかもしれない。それが無駄だって言うんだ、生天目は説き伏せるように言った。確かにきみは、勉強不足のせいで学期明けの試験に失敗した。でもその追試には合格して、ちゃあんと進級できたじゃないか。これはもう決まっていることなんだから、今さらなにをしたって無駄なのさ。わかったら、その陰気な教科書を閉じてこっちに来なさい。わかったよ、わたしは観念して木陰からやおら立ち上がった。お手上げだ、我が友の仰せの通りに。ところで、次は何を描いているんだい。わたしは生天目に対峙するスケッチブックを再度覗き込んだ。ははあ、見たところ抽象画のようだが、なるほど、青色の濃淡が性格の陰と陽を表現しているんだな。きみがこういうのを描くとは珍しい。残念だが、生天目は笑いをこらえきれないといった様子で水彩色鉛筆を動かす手を止めた。きみの似非評論家気取りに付き合う気にはならないな。こいつは具象さ。あれを見たまえ。生天目は海の先を指差した。水平線か、わたしは呟いた。正確には、拡大された水平線の境界部、とでも言おうか。じつは数日前からこのグラデーションには興味があったんだが、やはり晴天にならないことにはね。ところで、ねえ、少し考え直してみたんだが、きみはこの青の階調を陰陽に例えたろう。この場合、空と海、どちらが陰でどちらが陽になると思うかい。なるほど、第二問というわけだ、わたしは言った。いいよ、一緒に考えてみよう。とはいえわたしの意見は明白だな、湿潤や寒冷は紛れもなく陰の要素だし、なによりも空には太陽があるだろう、したがって空が陽、海が陰というわけさ。穏当な意見だな、生天目は澄んだ目をして言った。おれにはべつの考えがある。陰陽消長、陰陽転化、ようするに陰陽は移り変わるもんなんだ。空に太陽はあれど、それは昼間の話に過ぎないだろう。夜は闇が支配者となる。なにが言いたいかという顔をしているね。おれの考えは、空はそれ自体が陰陽を内包し、海は陰陽の外側、中立の領域なのではないかということさ。うん、これは思ったより重要な着想かもしれない。というのは、わたしがその先を受け持った。対比関係にある一対の概念には、なんというのか、そう、有限な適用範囲がある、ということかな。生天目はしばらく沈黙し、言った。なんとも言えない、いまはね。少しの期間考えてみることにする。成功すれば、おそらく、おれの認識は大きく飛躍することになる。おれが何を描いているのか、何を描こうとしているのか、その正体について。きみに礼を言うのはその後でも遅くはないだろう。だといいけどね、わたしは生天目に聞こえないように言ったつもりだったが、友は寂しそうな目を一瞬したので、それが届いたのがわかった。さて! と生天目が大仰に膝を叩いた。きみはそろそろ戻る時間じゃなかったか、確か親父さんから呼び出しがあったとかで。次の瞬間、ポケットに入れたわたしの携帯電話が振動し、メッセージが届いたことを知らせた。そのようだ、わたしは言って、きみはたしかここに残ったはずだね、と言った。そうさ、まだスケッチが終わっていない。午後になったら適当に落ち合おう、わたしの言葉に生天目は、ああ、また逢おう、と返し、意識を素描に戻したようだった。サクサクと乾いた白砂の感触をサンダルで喰みながら、なだらかな石造りの段を上がり、ちょうど来たところの路線バスに乗り込んだ。
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